お気に入りのプリンを、不安になるほど好きになり過ぎた君へ

「じゃあ、そろそろ行くよ」


 ハヤテが時計を見て立ち上がると、メグミは少し寂しそうな目でハヤテを見上げた。


「もう……?」

「ごめんな」


 メグミはノートの上にシャーペンを置いて立ち上がり、ハヤテの手を握って少し拗ねたように目を伏せた。


「バンドの練習……忙しい?」


 ハヤテはメグミの肩を抱き寄せて頭を撫でた。


「うん。でも今度のライブまでだし」

「ライブいつ?」

「今月の末。メグミの入試の次の日。来る?」

「行っていいの?」

「いいよ。じゃあ心置きなく楽しめるように、受験勉強頑張らないと」

「うん!」


 ハヤテは、嬉しそうに笑うメグミにキスをしてギュッと抱きしめた。


「メグミが来てくれるなら、オレも頑張る」

「絶対行く!!」

「じゃあ、頑張って練習しないといけないから今度こそ行くよ。メグミも頑張って」


 ハヤテがそう言うと、メグミがハヤテの胸に顔をうずめた。


「ねぇハヤテ……私の事、好き?」

「ん……?どうしたの、急に」

「……なんでもない。ちょっと聞いてみたくなっただけ」


 ハヤテは胸で甘えるメグミを抱きしめて頭を撫で、優しく唇を重ねた。


「好きじゃなかったらキスなんかしないよ?」

「うん……ハヤテ、大好き」

「オレもメグミが大好きだよ」


 メグミは嬉しそうに笑って、ギュッとハヤテに抱きついた。


「これじゃ行けないよ……。オレだってもっと一緒にいたいけどさ……」


 ハヤテが苦笑いしながら頭をポンポンと優しく叩くと、メグミはハヤテから体を離して、やっぱり少し寂しげに微笑んだ。


「わかってる。引き留めてごめんね」

「入試とライブ終わったらゆっくりしようよ。目一杯甘えていいから」

「うん」



 ようやくメグミの家を出たハヤテは、ショウタとの待ち合わせ場所のコンビニへ急いだ。


(思ったより遅くなったな……。ショウちゃん待ってるかも……)


 急ぎ足で歩きながら、帰り際に見たメグミの寂しそうな顔を思い出すと、ハヤテは小さくため息をついた。


(オレももっと一緒にいたいけど……そればっかりってわけにはいかないもんな……。メグミ、入試が近づいて来て不安なのかな?)


 最近メグミは、ハヤテとの別れ際、やけに寂しそうにしている。

 入試間近のこの時期だから不安なのか、ハヤテが忙しくて前ほど長くは一緒にいられないからなのか。

 忙しい中でも、できるだけ長く一緒にいる時間を取ってはいるつもりだが、メグミにとっては不満なのかも知れないとハヤテは思う。


(ライブが終わったら、本格的にコンクールの練習もしないとな……。でもその前に、やっぱりメグミとゆっくり過ごしたい……。どこか行こうって約束もしてたし……)




 スタジオでの練習を終えて帰宅したハヤテは、流し込むように食事を済ませた後、ピアノの前に座っていた。

 防音が効いているので近所には迷惑がかからず夜でも練習できるが、家の中ではわずかながら他の部屋に音が漏れる。

 何を弾いているかが母親にわかるのが嫌で、ハヤテは学校での課題やコンクール用の曲を練習する以外は、家ではピアノを弾かないようになった。

 期待もしていないくせに、ダメ出しだけはハヤテに対してだけ人一倍厳しい母親が、ハヤテは嫌いだった。

 ずっと母親の言う通りに弾いてきたのに、どれだけ頑張っても、結果を出しても、一度も認めてくれなかった。

 いつしかハヤテは、母親に認めてもらう事をあきらめ、誉めてもらう事を望むのをやめた。

 それなのに母親から教わったピアノだけが、皮肉にも唯一の取り柄である事が、ハヤテにとってどこまでも逃れる事のできない、まぎれもない事実だった。


(今度のコンクールで最後にしようかな……)


 一緒にバーで飲んだ帰り道で父親が言った言葉が、何度も頭を駆け巡る。


『今まで散々遠慮して、人のために弾いてきたんだから、そろそろ自分の進むべき道を自分で考えて選んでもいいだろ』


 母親に背負わされた『兄と弟への叶わなかった期待』と言う重い荷物を、そろそろ自分の背中から下ろして自由になりたい。

 自分の弾きたい曲を、自分のために弾きたい。

 その思いがハヤテの中でどんどん大きくなる。

 でも、自由になるためには、中途半端な形で投げ出す事だけはしたくないとハヤテは思う。


(最後に……ちゃんとした結果を残そう)


 なんの期待もされていないかも知れない。

 結果を出しても、やはり認めてはもらえないかも知れない。

 それでも、自分の唯一の取り柄であるピアノを与えてくれた母親に、重い荷物と共に恩を形にして返そうとハヤテは思う。

 ハヤテはコンクール用の曲の譜面を広げ、鍵盤の上に指を置くと、無心になってピアノを弾き始めた。




 合唱部では、卒業式後の謝恩会で披露するための曲の練習をしていた。

 ハヤテはいつものように伴奏を務めながら、その歌声を聴いていた。

 ここ最近、後輩の指導のためなのか受験勉強の息抜きなのか、割と頻繁にアズサが顔を出す。

 今日もまた、アズサが音楽室を訪れ、後輩の指導にあたっていた。


(この子はよほど合唱部が好きなのか?それとも受験が楽勝なのか?)


 入試前でラストスパートに忙しいはずなのに、たびたび顔を出すアズサを不思議に思いながらも、ハヤテは黙ってピアノを弾く。

 今日はメグミが『図書室で勉強して待ってる』とメールを送って来たので、久し振りに一緒に帰る事になっていた。


(最近メグミは元気ないみたいだから、帰りにプリンでも買ってあげようかな)



 練習が終わり、部員たちが音楽室を出て行った後も、アズサはなかなか立ち去ろうとしなかった。


「澤口さん、お疲れ様でした」

「お疲れ様」


 ハヤテは譜面を片付けながら返事をした。


「中野さんは受験勉強のラストスパートかけなくていいの?」

「ちゃんとやってますよ。でももう、今更ジタバタしても仕方ないので。ここに来ると、かえってヤル気が出ます」

「ふーん……」


(随分余裕なんだな)


 ハヤテが譜面を片付け終わると、アズサはハヤテの近くに来て、少し足元を見つめた後、思いきったように顔を上げた。


「あの……澤口さん」

「ハイ、何?」

「私、来週受験なんです。お守りがわりに何か澤口さんの持ち物、貸してもらえませんか?」

「えっ、オレの?」


 思いもよらない言葉に驚きながらも、ハヤテは何か持っていただろうかと考える。


「いや、でも……オレの物なんて持ってたって、なんのご利益もないと思うよ?」

「なんでもいいんです!!鉛筆でも消しゴムでも、なんでもいいから澤口さんの物を持っていたいんです!!」

「……は?」


 アズサの言葉の意味がわからなくて、ハヤテは首をかしげた。


(変わった事言うなぁ……。オレが現役で合格したから?)


 少し困って首をかしげるハヤテを、アズサはジッと見つめている。


「なんで?」


 ハヤテが尋ねると、アズサは唇をギュッと噛みしめた後、勢いよくハヤテに抱きついた。


「わっ!ちょ……何?!」

「もう!!なんでわかんないんですか?!私、澤口さんが好きなんです!!」

「えっ……えぇっ?!」


 突然のアズサの告白に、ハヤテはパニックに陥りそうになる。


「いやいやいや……。ちょっと待ってよ、それはないだろう」

「なくないです!!好きなんです!!」

「とにかく落ち着いて……」


 ハヤテが背中に回された腕をほどこうとしても、アズサは離れようとしない。


「あの……離れてくれる?」

「私が澤口さんを好きなのは……迷惑ですか?」

「迷惑ってわけじゃないけど……」


 メグミ以外の女の子に、こんなふうに好きだと言われたり、抱きつかれたりしたのは初めての事だった。

 でもハヤテは、メグミと知り合った頃に手を握られたり、満員電車の中で寄り添われたりした時のように、ドキドキしたりはしなかった。


(よくわからん……。これが俗に言う『人生最大のモテ期』ってヤツなのか?)


 ハヤテは他人事のように、そんな事を考えた。

 背中に回されたアズサの腕をほどきながら、ハヤテは優しく話し掛ける。


「オレには付き合ってる子がいるからね……その気持ちには応えられないけど……中野さんの音楽教師になりたいって夢は応援するよ」


 アズサは唇を噛みしめながらうつむいて、ハヤテに頭を下げた。


「そう……ですか……。でも、澤口さんがここに来てる間に、ちゃんと伝えられて良かった……。ありがとうございます、頑張ります……」

「うん、頑張って。中野さんは、きっといい先生になれるよ」


 ハヤテがポンポンと優しく頭を叩くと、アズサは溢れそうになる涙をハヤテに見られないようにうつむいたままで、走って音楽室を出て行った。


(ビックリした……)


 ハヤテがひとつ大きく息をついて、鞄を持って立ち上がると、いつかのようにメグミが音楽室のドアの陰に身を潜めているのが見えた。


(メグミ……今の、聞いてたのかな?)


 ハヤテが近付いて顔を覗き込むと、メグミは目を合わせないように視線をそらした。


「今の、聞いてたの?」

「……うん」


 ハヤテは小さくため息をついて、音楽室のドアを閉めた。


「メグミ、こっち向いて」

「……やだ」


 メグミは壁にもたれてうつむいた。


「なんで?」

「だって……」


 うつむいたまま小さく呟くメグミの頭を引き寄せて、ハヤテは強引に唇を重ねた。


「んっ……ふ……」


 いつもより激しいハヤテのキスに、メグミが小さな声を上げた。

 長くて激しいキスの後、ハヤテは思いきりメグミを抱きしめた。


「オレが好きなのはメグミだけ。抱きつかれてドキドキするのも、オレがキスしたいって思うのも、メグミだけだから心配しないで」

「……うん……」


 メグミは小さくうなずいて、ハヤテの背中に腕を回した。


「ハヤテ……」

「ん?」

「もっと、して。キスだけじゃ、やだ……」

「ここ、学校だよ?」

「だって……」


 胸に顔をうずめて不安そうに呟くメグミの頬に口付けて、ハヤテは耳元で囁いた。


「ここじゃなくて……メグミの部屋で、しよ」

「うん……」



 それから二人は手をしっかり繋ぎ、駅まで歩いて、少し混雑の和らいだ電車に乗った。

 電車を降りてメグミの家に向かう間も、二人は指を絡めて手を繋ぎ、時折相手へ想いを伝えるように、ギュッと強く握ったり、握り返したりした。

 メグミの部屋に着くと、ハヤテはメグミの制服を脱がせながら、何度も何度もキスをした。

「好きだよ」と優しく囁きながら肌に舌を這わせ、長い指でメグミの敏感な部分に触れた。

 ハヤテの激しい愛撫に、メグミはいつもより乱れ、唇から吐息混じりの甘い声をもらす。


「あっ……ん……ハヤテ……好き……大好き……」

「メグミ……オレも好きだ……大好きだよ」


 恍惚の表情を浮かべるメグミの腰を引き寄せ、体の奥まで掻き乱すように、ハヤテはありったけの愛情を注いでメグミを抱いた。


 何度も求め合った後、二人はベッドで指を絡めながら、飽きる事なく甘いキスを交わした。


「なんか……今日のハヤテ、いつもより……」

「ん?いつもより、何?」

「いつもより……激しかった……」


 その言葉に、ハヤテは少し照れくさそうにメグミの頬を指先でつまむ。


「お互い様じゃない?」

「うん……そうかも……」


 ハヤテはメグミの髪を愛しそうに撫でながら、穏やかに微笑んだ。


「オレが好きなのはメグミだけだって、改めて思った」

「ホント?」

「ホント。あの子になんて言われても、抱きつかれても、全然ドキドキしなかった。オレが好きなのはメグミだけ。好きじゃなかったら、こんな事しないよ?オレにはメグミだけだから、安心して」

「うん……」


 それから二人はまた、時間を忘れて、何度も甘いキスをした。



「結局今日は勉強どころじゃなかったな……」


 随分遅い時間になってから、ハヤテは服を着ながらポツリと呟いた。


「だって……ハヤテが他の子に告白なんかされて……不安だったんだもん……」


 メグミも普段着に着替えながら、少し恥ずかしそうに呟いた。


「心配しなくたって、オレが好きなのはメグミだけ。明日は頑張って勉強しような」

「うん」


 笑ってうなずくメグミの頭を撫でながら、ハヤテは優しく微笑んだ。


(プリンより元気出た……かな?)




 メグミの入試とバンドのライブが来週に迫った木曜日の夕方。

 ハヤテがいつものように音楽室を訪れると、メグミがピアノのそばに座って待っていた。


「あれ?待ってたの?」

「うん。ハヤテのピアノ聴きたい。聴きながら勉強してるから、ここにいていい?」

「いいけど……気が散らない?」

「大丈夫」


 メグミはテキストやノートを広げ、ペンケースからシャーペンを取り出した。


「じゃあ……メグミの好きな曲、弾こうかな」

「うん!」


 ハヤテがヒロの曲『Darlin'』を弾き始めると、メグミは幸せそうに微笑んで、勉強を始めた。

 大好きなメグミのためにメグミの好きな曲を弾いて、幸せそうなメグミの笑顔を見られる事は幸せだとハヤテは思う。

 いつか、誰かをほんの少しでも幸せな気持ちにできるような曲を作って弾けたらな、とおぼろげに思いながら、ハヤテはピアノを弾いた。

 人のために弾いてきたピアノを、自分のために弾きたいと思っていたはずなのに、やっぱり人のために弾きたいと思っている。

 それは、ピアノを弾く事で自分以外の誰かを幸せな気持ちにできたら、自分も幸せな気持ちになれると気付いたからだ。


(オレのピアノで誰よりもメグミを幸せな気持ちにしたい……。これからもずっと、メグミのためにピアノを弾けたら……幸せだろうな……)



 1時間ほど経った頃、メグミは問題集に落としていた視線をハヤテに向けた。

 ピアノを弾く穏やかなハヤテの顔を見つめて、メグミは幸せそうに微笑んだ。

 その曲の最後の一音を弾き終えたハヤテが、メグミの視線に気付いて笑った。


「なんでそんなジッと見てんの」


 ピアノを弾いている時にハヤテから話し掛けてくれた事が嬉しくて、メグミは満面の笑みを浮かべた。


「ピアノ弾いてるハヤテは、やっぱりかっこいいね。ハヤテ、どんどんかっこ良くなってくから……嬉しいけど、ちょっと複雑」

「なんだそれ」


 ハヤテは少し照れくさそうに笑って手招きした。

 メグミは立ち上がって、ハヤテのそばに行く。


「ここ、座って」


 ピアノのイスの左側に寄って場所を空け、ハヤテはメグミに、隣に座るよう促した。

 メグミが隣に座ると、ハヤテはもう一度『Darlin'』を弾いた。

 メグミはハヤテのピアノを聴きながら、大好きな曲を大好きなハヤテがすぐ隣で弾いてくれる幸せに浸る。

 弾き終わると、ハヤテはメグミにそっと触れるだけの短いキスをした。


「オレ、メグミのために弾いてる時、すっごい幸せなんだ。ずっとピアノ弾いてきたけど、こんなふうに思った事なかった」

「ホント?嬉しいな……」


 メグミが肩に寄りかかると、ハヤテはメグミの肩を抱き寄せて、優しく頭を撫でた。

 ピアノの影に隠れるようにして、二人がもう一度唇を重ねた時、音楽室のドアが開いて、誰かが近付いてくる足音がした。

 二人は慌てて顔を離し、メグミはイスから立ち上がった。


(あぶなかった……。この時間に音楽室に誰かが来るなんて珍しいな)


 ハヤテがさりげなく譜面を並べるふりをしていると、その人はピアノのそばに来て、ハヤテに話し掛けた。


「澤口、久し振りだな」

「あっ……浅井先生!お久し振りです」


 ハヤテが高校3年の時に担任だった浅井が、笑ってハヤテの肩を叩く。


「頼んどいて、なかなか顔も出せなくて悪かったな。元気だったか?」

「見ての通り元気ですよ」

「澤口、雰囲気変わったんじゃないか?いくつになったんだっけ」

「21です。先生はあんまり変わらないですね。いくつになったんですか?」

「今年、とうとう30の大台に乗るんだよ」

「あ、先生まだ20代だったんですね」


 ハヤテが浅井と話していると、メグミは居心地悪そうに席に戻り、帰り仕度を始めた。


「川嶋……こんなところで何やってるんだ?受験勉強はしなくていいのか?」

「……帰って勉強します。さよなら」


(あっ……メグミ……)


 卒業生のハヤテと二人きりでいるところを元担任の浅井に見られて気まずかったのか、メグミはハヤテに声も掛けないで、慌てて音楽室を後にした。


(入試直前の大事な時に、在校生でもない彼氏と校内で二人きりで会ってるとか……なんかまずかったかな?)


「澤口、川嶋と知り合いなのか?」

「まぁ……。たまにピアノ聴きに来るんです」


 ハヤテは、メグミと付き合っている事はあえて伏せておこうと、曖昧に言葉を濁す。


「ピアノ?ああ……そう言えば、川嶋が入学してすぐの頃に聞かれたな、澤口の事」

「そうらしいですね」


 浅井は何か少し考えるようなそぶりを見せてから、ハヤテの肩を軽く叩いた。


「ふーん……そうか……。いや、邪魔したな。白川先生が知り合いに次の伴奏者の件、お願いしてるみたいだから、もうしばらくの間頼むな」

「ハイ」


 浅井が音楽室を去った後、ハヤテは一人で先に帰ってしまったメグミの事が気になり、上着のポケットからスマホを取り出した。

 スマホにはメグミからの着信も、メールの受信もなかった。


(メグミ……やっぱり帰ったのかな?)


 ハヤテが【今どこにいる?】とメールを送信してすぐに、【もうすぐ駅に着く】とメグミからの返信があった。


(えっ、もう駅のそば?!メグミって、随分歩くのが速いんだな……)


 二人でいる時は手を繋いで歩いているからゆっくりなのかなと考えながら、ハヤテはまた【スタジオに行くまでの少しの間だけど、後で家に行こうか?】とメールを送る。


 すると、少しの間があった後、メグミからの返信が届いた。


【今日はハヤテに会えたから、

 あとは一人で勉強頑張るね。

 ハヤテも忙しいんだから無理しないで。

 久し振りにハヤテのピアノ聴けて

 すごく嬉しかったよ。

 私のために弾いてくれて、ありがとう】


 ハヤテはメグミからのメールを読みながら、どことなく違和感を覚えた。


(ホントに行かなくていいって思ってる?)


 いつもは少しでも長く一緒にいたいと言って甘えたり、会えないと寂しいと素直に言うのに、メグミがどこか無理をしているようで、ハヤテはいてもたってもいられなくなった。


(無理してるのは……メグミじゃないのか?)


【今から音楽室出る。

 オレがメグミと一緒にいたいから行く】


 メールを送信してすぐに、ハヤテは急いで譜面を片付け、音楽室を出た。

 電車を降りて、駅前のパティスリーでメグミのお気に入りのプリンを買い、急いでメグミの家へ向かった。

 メグミの家へ着いてインターホンのボタンを押すと、すぐにメグミが玄関のドアを開けた。


「ハヤテ……。来てくれたの?無理しないでって言ったのに……」

「無理なんかしてない」


 玄関に入りドアを閉めると、ハヤテはメグミを抱きしめた。


「メグミこそ……無理してない?」

「えっ……?」

「オレは、少しでもメグミと一緒にいたいと思うから来た。長い時間はいられないけど……」

「ありがとう……」


 ハヤテの腕の中で、メグミが小さく呟く。

 ハヤテがプリンの入った紙袋を差し出すと、メグミは笑ってそれを受け取った。


「ハヤテは優しいね」

「優しいかどうかはわからないけど、ただメグミが好きなだけ」

「うん……」


 ハヤテはメグミにキスをして、もう一度抱きしめた。


「オレはメグミが好きだから、一緒にいたいとか、会えなくて寂しいとか言ってくれたら、すごく嬉しいって思ってる」


 ハヤテの言葉に、メグミは顔を上げて、ハヤテの目を見つめた。


「ホント?」

「うん。オレも同じ気持ちだから」

「嬉しい……。ハヤテ、大好き……」

「オレもメグミが好き」


 二人は玄関で抱き合ったまま、何度もキスをした。


「ピアノ……途中でやめて良かったの?」

「うん。自分のためだけに弾くピアノより……メグミといる時間の方が大事」


 ハヤテはメグミを抱きしめて髪を撫で、もう一度キスをした。


「でもごめん、そろそろ約束の時間だから行かないと……」

「うん。来てくれてすごく嬉しかった」

「プリン食べて、勉強頑張って」

「ありがとう、ハヤテも練習頑張って」


 ハヤテが玄関を出ようとした時、メグミがハヤテの服の裾をつまんだ。


「ん……?」

「ハヤテ……先生に何か聞かれた?」

「知り合いかって聞かれたな。時々ピアノ聴きに来るって言っといた。付き合ってるとかは言わなかったけど……」

「そう……」

「何かまずかった?」

「ううん」


 メグミは小さく首を横に振って、ハヤテの服から手を離した。


「今日はすぐに手ぇ離しちゃうんだ」

「えっ?」

「いつもはなかなか離さないから。あんまりあっさり離されると、なんとなく寂しい気がするな」

「だって……ハヤテ、困るでしょ?」

「うん。困るけど……嬉しいんだよ?」


 ハヤテはメグミの手を握って体を引き寄せ、もう片方の手で抱きしめた。


「ホントはオレだって、メグミと離れたくないから」

「ハヤテ……」


 メグミはハヤテの胸に顔をうずめて小さく呟く。


「そんな事言われたら……余計に離れたくなくなっちゃうよ……。我慢してたのに……」

「ごめん。今日はオレがメグミを困らせちゃったかな」


 ハヤテはメグミの頭を撫でながら、嬉しそうに笑った。

 メグミはハヤテの胸に顔をうずめたまま、なかなか顔を上げようとしない。

 メグミの肩が、上下に小さく震えている。


「メグミ……泣いてるの?」

「どうしよう……。ハヤテの事、好きになり過ぎちゃったみたい……」

「え?」

「離れたくない……」


 明らかにいつもとは違うメグミの様子に、ハヤテは困惑して首をかしげた。


「それ……どういう事?好きだから一緒にいるんだよ?何か困る事でもある?」

「……うん。好き過ぎて、困る。それに……ハヤテが私の事、こんなに好きになってくれるって思ってなかった」

「なんだそれ。最初に好きになって欲しいって言ったのメグミだろ?たしかに……オレもこんなに好きになるとは思ってなかったけどさ……」


 ハヤテはメグミの頬を両手で包んで上を向かせると、長い指で涙を拭って口付けた。


「オレもメグミの事好き過ぎて、困るかも。このまま置いて行けなくなりそう」

「もう行かないと……ダメでしょ?」

「うん……。ホントにそろそろ行かないとな。メグミが手のひらに乗るくらい小さくなれたら、どこ行くのもずっと一緒にいられるのに」

「さすがにそれは無理だよ……」


 メグミが笑うと、ハヤテは少しホッとして、メグミから手を離した。


「だよな。じゃあ、行くよ」

「うん、気を付けてね」



 小さく手を振るメグミに見送られ、ハヤテは急いで待ち合わせのコンビニへ向かった。


(ヤバイ……。時間少し過ぎてる……)


 普段ハヤテは時間にきっちりしていて、待ち合わせに遅れた事などない。

 むしろ、少し早めに着いて相手を待つくらいなのに、今日はメグミと離れ難くて、自分からメグミの手を取った。


(メグミのあんな寂しそうな顔見たら……離したくなくなっちゃうよ……)


 いつの間にかメグミ無しではいられなくなっている自分に気付き、ハヤテの胸にほんの少しの不安がよぎる。

 でもそれは、まだ『気のせいかも知れない』で済ませられるほどの小さなものだった。




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