フライングしちゃおうか
(いつもより少し早く着いたな……)
期末テストが無事に済んだ翌日。
いつもより早い時間に着いたハヤテは、たくさんの生徒たちとすれ違いながら音楽室に向かった。
渡り廊下を歩いていると、その先で掃除道具を手に楽しげに話していた男子生徒と女生徒が、ハヤテに気付き手を振った。
「ハヤテ!!」
「ハヤくん!!」
「あ……メグミ……と、ソウタ……」
メグミとソウタは同時にハヤテの名前を呼んだ事に驚いている。
「あれ?梶本くん、知り合い?」
「川嶋こそ『ハヤテ』って……」
ハヤテは二人のそばにたどり着くと、メグミとソウタを交互に見た。
「あれ?知り合い?」
ソウタは何かを思い出したようにポンと手を打つ。
「あっ、兄ちゃんが言ってたハヤくんのすっげーかわいい彼女って、川嶋の事か!!」
「『すっげーかわいい』彼女?」
ソウタの言葉に、メグミがハヤテの方を見る。
「ソウタ……。デカイ声で余計な事言うな……」
ショウタに話した事がソウタに筒抜けになっている事に気付き、ハヤテは恥ずかしくて右手で顔を覆った。
(ショウちゃん……まさかこの間の事とか、ソウタには話してないよな……?)
「梶本くん、ハヤテと知り合いなの?」
「うちの兄ちゃんとハヤくん、同級生で幼馴染みだから、オレもよく遊んでもらった。もう一人の兄ちゃんみたいなもんだよ」
「そうなんだ」
ハヤテはソウタが余計な事を言わないうちに話題をすり替えようと、メグミとソウタに話を振った。
「二人は友達?」
「うん、中学から一緒なの」
「梶本と川嶋だから、同じクラスになるたびにいつも出席番号が前後になる」
「へぇ」
(随分仲良さそうだけど元カレとかじゃないよな?ソウタ、メグミの事、狙ってないよな?)
ハヤテがメグミをチラッと見ると、ソウタがニヤニヤしてハヤテを見た。
「ハヤくん、心配ないから」
「え?」
「ただの友達だから、安心して」
(人の心を読むんじゃないよ!!)
「……別に心配なんかしてないから」
ハヤテがなんともなさそうな顔で呟くと、ソウタは更にニヤニヤして冷やかす。
「ホントにぃ?」
「ソウタ、しつこい。早く掃除しろ」
「ひどっ!!川嶋にも言えよ!!」
「うるさいソウタ。そのモップで、あっちの方拭いて来い」
ハヤテはソウタを軽くあしらって、メグミの方を見た。
「今日はどうする?先帰る?」
「図書室で勉強して待ってる」
「無理しなくていいよ?」
「家だと集中できないもん」
「そっか」
ハヤテとメグミが会話しているのをジーッと見ていたソウタが、不服そうに呟いた。
「ハヤくん、川嶋には甘いんだな。オレには散々なのに……。オレ、なんか寂しい……」
「気持ち悪い事言ってないで早く掃除しろよ。じゃあメグミ、また後で」
「うん」
メグミの頭をポンポンと優しく叩いて、ハヤテは音楽室に向かった。
ハヤテの後ろ姿を微笑みながら見送るメグミにソウタが話し掛ける。
「ハヤくん、なんか感じ変わったなー」
「そうなの?」
「うん。何て言うか……年下のオレが言うのもアレだけど、大人っぽくなったと言うか……男らしくなったと言うか……。なんか、堂々としてカッコよくなったような」
「ハヤテは前からカッコいいでしょ」
「顔とか見た目はな。オレが言ってんのは、雰囲気の事だよ。内からにじみ出るやつ」
「昔から知ってる梶本くんが言うなら、そうなのかもね」
「ハヤくんって、二人の時とかどんな感じ?」
「嘘つかないし、すごい真面目。ピアノだけじゃなくて、勉強教えるのもすごく上手。それに……ものすごく優しいよ」
「ふーん……。ベタ惚れだな」
「うん」
「あー、川嶋の雰囲気も変わるわけだな」
「私の?」
「うん。最近、なんか穏やかになった」
「そうかな……」
「ハヤくんに大事にされてんだ」
「うん」
「良かったじゃん」
まだ合唱部の部員が誰もいない音楽室では、ハヤテがピアノの前に座って一人ぼんやりしていた。
(昨日の今日で、ちょっと照れくさいと言うか……なんか緊張した……)
期末テスト最終日の昨日、合唱部の練習が休みだったので、ハヤテは学校帰りにメグミのお気に入りのプリンを買い、メグミの家に寄った。
部屋で一緒にプリンを食べながら、肩を寄せ合って街遊びの雑誌を一緒に見た。
プリンを食べ終わって、雑誌をめくりながら、メグミが入れてくれたコーヒーを飲んだ。
しばらくすると、メグミがハヤテの肩に寄りかかり、猫のように頬を擦り寄せて甘え始めた。
ハヤテはメグミの肩を抱き寄せて、優しく頭を撫で、何度もキスをした。
いつもの優しいキスが、どちらからともなく次第に深くなり、甘く長いキスの後、ハヤテはメグミをギュッと抱きしめた。
『入試に合格したらって言ったけど……フライング、しちゃおうか』
ハヤテが照れくさそうに耳元で呟くと、メグミがコクリとうなずいた。
それから、また何度もキスをして、メグミの首筋や胸元に唇と舌を這わせた。
ハヤテは長い指でメグミの体の柔らかい部分に触れ、愛しそうに何度も口付けた。
切なげにハヤテを呼ぶ吐息交じりの声。
甘い疼きを求める熱く滑らかな素肌。
ハヤテの指の動きや舌の感触に震える艶かしい表情と、耳に響く湿った音。
メグミのすべてに欲情を煽られて、理性が吹き飛びそうになるのを堪え、ハヤテは宝物を扱うように優しく、愛情を込めて大切にメグミを抱いた。
生まれて初めて、無我夢中で自分のすべてをさらけ出した、砂糖菓子より甘い体験。
夢の中にいるような、頭の中が真っ白になりそうなほどの快感と、湧き上がり溢れるメグミへの愛しさ。
大好きなメグミが、この腕の中にいる幸福感。
お世辞にも大人の男みたいに『上手に抱いた』とは言えない。
だけど、大好きな人とようやく体も重なり合えた事で、二人の心はとても幸せな気持ちで満たされた。
「自分でした約束、破っちゃったな」
ベッドでメグミを腕枕しながらハヤテが照れくさそうに呟くと、メグミは嬉しそうに笑った。
「私がちゃんと入試に合格できるように、勉強教えてね」
「もちろん」
「ねぇハヤテ。私、今、すごく幸せ」
「オレも幸せ。メグミ」
「ん?」
「大好きだよ」
それから二人は幸せそうに額を寄せ合って、何度も甘くて優しいキスをした。
合唱部の練習が終わると、ハヤテは譜面を片付けながらメグミを待っていた。
昨日のメグミとの甘い時間を思い出すと、まだ恥ずかしいような気もする。
(オレ……ついに、やっちゃったんだなぁ……)
歯止めが効かなくなるのが怖くて、ずっとメグミの体に触れるのをためらっていた。
どうしていいのかわからなかったと言うのも事実だが、思いきってしまえば、後はなるようになるものだ。
誰に教わったわけでもないのに、体が自然に動いていた。
(案ずるより産むが易し……か?それともやっぱり、習うより慣れろ……?)
いつかもこんな事を考えていたなと思いながらハヤテは鞄を持って立ち上がる。
「ハヤテ、お待たせ」
タイミング良くメグミが音楽室に顔を出した。
「ちょうど今、帰り仕度終わったとこ。帰ろうか」
「うん」
いつものように音楽室の鍵を掛け、二人で並んで歩いている間も、ハヤテは以前とは違う二人の関係にドキドキしていた。
(なんか、ヘンに緊張するな……)
学校を出て、ハヤテはメグミの手を取り、いつものように指を絡めた。
「勉強、はかどった?」
「うん」
「そっか。良かった」
いつもは何も話さなくても当たり前のように手を繋いで歩いていたのに、ちょっとした沈黙がなぜかぎこちなく感じてしまう。
(何か話す事、なかったかな……?)
話題を探しながら歩いていると、メグミがポツリと呟いた。
「あんなにダメって言ってたのに、どうして昨日は、良かったの?」
「え?いや……。何て言うか……」
まさかの問い掛けに、ハヤテはしどろもどろになって視線を泳がせた。
「慌ててる?」
「いや……。なんか、照れくさいな……改めてこんな話するのも……」
どう話していいのかとあれこれ考えて、ハヤテは言葉を選びながら答えた。
「大事にしたいって思ってるのは、今も同じだけど……その、大事に仕方が違ったのかなって思ったから」
「どういう事?」
「うん……。メグミが不安になってケンカになるなら、意味ないかなって。オレだってホントはずっと……」
「ホントは、何?」
メグミに尋ねられて、ハヤテは恥ずかしそうに目をそらした。
「ずっと……メグミに触れるの、我慢してたから。馴れ合いみたいな、体ばっかりの関係になるのも嫌だったし……」
「うん……」
「でも、一緒にいるだけでも幸せだって思ってたのも嘘じゃない」
「私も、ハヤテといると幸せ。でも……昨日は……すごく嬉しかった」
「……初めてだったんだけど」
「うん、だから余計に嬉しかった」
「なんか、やっぱり立場が逆って言うか……。なんで嬉しいの?その……慣れてないから、全然良くなかったんじゃ……」
恥ずかしそうにハヤテが呟くと、メグミはハヤテの腕にギュッとしがみついて笑った。
「全然そんな事ないよ。私、あんなに優しく大事にしてもらったの初めてだし……ハヤテの初めての相手になれて、嬉しかったの。私の事、一生忘れないでしょ?」
「忘れないとか……そんな、今は一緒にいるけどいつかは別れるみたいな言い方するなよ。オレは……一緒にいたいと思ってるよ。……これから先もずっと」
「ありがと……すごく嬉しい……」
「そう思ってるのオレだけ?メグミは思ってない?」
「思ってるよ。だから、嬉しいの」
「ずっと先の将来の事とか……今はまだ、約束はできないけど……」
「うん。わかってる。今、ハヤテと一緒にいられるだけで……私は幸せ」
「オレも」
ハヤテはメグミの手をしっかりと握り、このままメグミとの幸せな時間が続けばいいと思いながら歩いた。
メグミを送り届けた後、ハヤテはショウタの家に寄り、バンドの練習のためにショウタの車でスタジオへ向かった。
「今帰りか?」
「合唱部の練習が終わって、彼女送ってきた。今日、学校でソウタと会ったんだけど……彼女と中学からの友達だって言ってた」
「そうなのか?」
「ショウちゃん、ソウタに余計な事言ってないよな?」
「すげーかわいい彼女ができたらしいとは言ったけどな。彼女とはまだしてないとかは言ってない。それからハヤテ自身がまだ……」
「もう違うから」
ハヤテがショウタの言葉を遮ると、ショウタは驚いて助手席のハヤテの方を見た。
「えっ?!それってまさかの初……」
「いいから、前向いて運転して」
ハヤテがたしなめると、ショウタは慌てて前を向いた。
「ああ……。ってか……ハヤテ、ついに……」
「……フライングしちゃったよ」
ハヤテが照れくさそうに呟くと、ショウタは興奮気味に左手でハヤテの肩を叩いた。
「やったじゃん!!男になったんだな!!ハヤテもやるときはやるな!!」
「なんだそれ……。ショウちゃん、ソウタには余計な事言うなよ」
「わかってるって。この間はあんなに頑なに、今はまだダメみたいな事言ってたのに、どういう心境の変化があったんだ?」
「ショウちゃんの言う事も、一理あるかなと思って……」
「ふーん……。で、どうだった?」
「どうって……。言わないよ、そんなの」
「なんだよ……聞きたいじゃん。ハヤテのそういう話、今まで全然聞けなかったんだから」
「ショウちゃんと違って、オレは全然モテなかったからな。まぁ……でも、それでもいいって、今は思ってるよ」
「彼女がいるからか?」
「うん。オレを想ってくれる大事な人が一人いれば、それだけでじゅうぶんだ」
「ハヤテが幸せなら、それが一番だな」
ハヤテの幸せそうな横顔を見て、ショウタは嬉しそうに笑った。
スタジオに着くと、ハヤテはメンバーのみんなに紹介された。
ベースのタイチ、ドラムのレン、ボーカルのコウ、そしてギターのショウタ。
その後、時間が限られているので、挨拶もそこそこに早速練習を始めた。
(バンドでやるのは初めてだけど、こういうのもおもしろいなぁ)
普段は一人でピアノを弾いているせいか、周りに同じ曲を作り上げる仲間がいると言う事が新鮮で、自分には意外と合っているのかなと思ったりもする。
(父さんもこんな事やってるのかな?)
ピアノ奏者として活躍している父は、たくさんのミュージシャンと音楽をやっている。
普段はあまり会う事も、ゆっくり話す事もないけれど、こんな生き方も有りかも、とも思う。
(なんか、楽しいかも……。今度ゆっくり、父さんに話聞いてみたいな)
同じようにピアノを弾いているとは言え、ハヤテはどこかで父親に距離を感じていたが、自分からその距離を縮めてみたいと初めて思った。
ピアノを弾くのとはまた違った楽しさに、ハヤテは新たな世界を垣間見た気がした。
練習の後、スタジオを出てメンバーと一緒にファミレスに寄った。
「ハヤテ、普段は相変わらずクラシックばっかり弾いてるのか?」
ショウタがカツ丼を掻き込みながらハヤテに話し掛ける。
「学校とか家ではな。最近、もっといろいろ弾いてみたいと思って、いろんな譜面集めて弾いてみたりしてる」
「ふーん。クラシック飽きたのか?」
「飽きたと言うか……なんか、オレが弾きたいものとは違う気がした」
「弾きたい曲を作ればいいじゃん」
「なるほどな……。考えた事もなかった」
他のメンバーたちも、ハヤテとショウタの話に興味津々の様子だ。
「ハヤテくんはピアノやり始めて長いの?」
「物心ついた時には弾いてたから。あ、ハヤテでいいよ」
今まであまり積極的に友達を作らなかったハヤテは、ショウタ以外の人に『ハヤテ』と自然に呼ばれる事がなかった。
(普通に名前で呼ぶんだな。メグミは最初から当たり前みたいに呼び捨てだったけど……)
メグミと知り合って間もない頃、メグミに『ハヤテ』と呼ばれるのが恥ずかしくて、名前で呼ばないでくれと言った事を思い出した。
(今はお互いを名前で呼び合って、それが当たり前になってるって、なんか不思議だな)
目の前にいない時もメグミの事を考えている自分に気付き、ハヤテは少しくすぐったいような気持ちになりながらも、幸せだと思った。
「ライブに彼女呼べば。惚れ直すんじゃね?」
「惚れ直すって……。ピアノ弾いてるところはしょっちゅう見てるよ」
「ピアノとバンドは、また違うじゃん」
「でも、受験生だから」
「息抜きだよ」
「ハヤテの彼女、受験生なんだ?まさか、高校受験じゃないよな?」
タイチの言葉にハヤテは思わずむせそうになりながら、慌てて否定する。
「そんなわけないじゃん!!さすがにオレも、中学生とは有り得ないよ」
「それこそ手ぇ出せないよなぁ」
「ショウちゃん、余計な事言うなよ!!」
「えー、ナニナニ?聞きたい!!」
ショウタからもっと話を聞き出そうと、レンが身を乗り出す。
「なんにもないから!!」
「ハヤテはすげーかわいい彼女とラブラブで、幸せ驀進中なんだよ。な!」
「ショウちゃん……そろそろ黙らないと、その口縫い付けるよ?」
「怖っ!!」
「オレ、割と裁縫得意だよ?クロスステッチで縫おうか?」
「ハハハ、おもしろいなぁ、ハヤテは」
ハヤテとショウタのやり取りを見て、コウがおかしそうに声を上げて笑った。
ハヤテが初めて会ったメンバーとも自然に会話して楽しそうにしているのを見て、ショウタは穏やかに笑みを浮かべた。
「初めてバンドのメンバーと合わせたけど、どうだった?」
帰りの車の中で、ショウタがハヤテに話し掛けた。
「楽しかったよ。今までのオレにはない経験だったから新鮮だったし」
「みんな、いいヤツらだろ?」
「うん」
楽しそうにうなずくハヤテを見て、ショウタはしみじみしている。
「やっぱり、ハヤテ変わったな。初めて会うヤツらとあんなに楽しそうに話してるハヤテ、オレ初めて見たよ。なんか嬉しかった」
「そう言われてみればそうかな……。たしかに、人と話すのはあまり得意じゃなかった」
「ハヤテ、彼女と付き合いだして、人としても男としても、自信がついたんじゃないか?」
「自分ではよくわからないけどな」
「自信なかったら、彼女とフライングなんかしないだろ?」
その言葉に思わず赤面したハヤテは、冷やかすショウタを横目で見て、低く呟いた。
「ショウちゃん……マジで口縫い付けるよ……?」
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