ピアノ弾いてるメガネの人
昼間が短くなり始めたある日の夕方。
ある高校の正門前では、守衛の男性が一人の青年の対応をしていた。
「卒業生ね。ちょっと待って、今、卒業生リスト見るからね」
守衛の男性はパソコンを操作して、卒業生リストからその青年の名前を探し出した。
「さ……さわ……さわぐち……。ああ、あった。じゃ、身分証ある?免許証とか学生証とか。通学用の定期券でもいいよ」
守衛の男性にそう言われたメガネの青年は、いつも通学時に駅でそうするように、上着のポケットに手を入れる。
「……あれ?」
「どうかしたのかい?」
「いや……」
(いつもここに入れてるはずなのにな……。別の場所に入れたっけ?)
メガネの青年は、慌てた様子で別のポケットや鞄の中をさぐる。
(なんでどこにもないんだ?!)
「おかしいな……。今朝はあったのに……」
「決まりだからねー。身分証ないと、入れてあげられないんだよねぇ」
「それは困る……。あ、じゃあ
「そうかい?じゃあ、職員室に電話してみようか」
守衛の男性は電話の受話器を持ち上げ、職員室に連絡を取り始めた。
(先生が来てくれたら問題ないはず……。しかしどこにしまったんだろう?)
メガネの青年がまたポケットや鞄のあちこちを探っていると、守衛の男性は受話器を置いた。
(あ、先生と連絡ついたんだな)
ホッとしたのも束の間、守衛の男性は気の毒そうにメガネの青年を見た。
「残念だねぇ……。浅井先生、急な出張でいらっしゃらないみたいだよ」
「えぇーっ?!」
(オレ呼び出しといてほったらかし?!)
メガネの青年がガックリと肩を落とした時、後ろで誰かが上着の裾を引っ張った。
(……ん?)
振り返ると、そこにはこの学校の制服を着た女の子が立っていた。
ツヤのある長い髪と、少し大人びた顔立ち。
短めのスカートからスラリと伸びた足。
見るからにモテそうな、男がほっとかなさそうな、大人っぽい雰囲気の女の子。
リボンの色から、3年生の生徒らしい。
(キレイな子だけど……オレに何の用だ?)
「
「ハ、ハイ……」
(え?なんでオレの名前知ってるんだろう?)
見知らぬ女の子に突然名指しで呼ばれたハヤテと言うその青年は、驚いて目を丸くした。
その様子を見た女の子は、ニコリと笑って、手に持っていた物を差し出した。
「良かった。これ、ちょうど届けに行こうと思ってたとこだから。ハイ」
受け取るとそれは、先程までどこを探しても見つからなかった、通学用定期券の入った学生証だった。
「あ……これ、オレの……。どこで?」
「今朝、駅でサラリーマン風の人とぶつかったでしょう?」
「ああ、そう言えば……」
「その時に、ポロッと落ちたのが見えて」
「そうなんだ……。全然気付かなかった……」
たしかに、いつものように学生証に入れた定期券をポケットにしまおうとした時、サラリーマンらしき人とぶつかった。
でも、これを落としていた事にはまったく気付いていなかった。
「拾って声掛けようとしたら、もう姿が見えなかったから。放課後、大学に届けようと思ってたの。ここから近いし」
「ありがとう。これがないと入校許可証、出してもらえなくて……。助かりました」
「どういたしまして。役に立てたみたいだし、会えて本当に良かった」
女の子は嬉しそうに笑うと、手を振って去って行った。
(随分かわいい子だった……)
自分の母校にあんなにかわいい女の子がいるのかと思いながら、ハヤテはその後ろ姿を見送った。
無事に入校許可証を出してもらったハヤテは、職員室に寄って、不在の浅井先生からの伝言を別の教師から受け取り、音楽室へ向かった。
音楽室では合唱部が発声練習をしていた。
ハヤテの姿に気付いた合唱部の顧問が部員たちを呼び集め、ハヤテを紹介する。
澤口 颯天、21歳。
この高校を卒業後、近くの音大のピアノ科に進学した。
高校時代の担任の浅井先生から、合唱部のピアノ伴奏をしていた教師が産休に入るため、代わりの伴奏者が見つかるまで臨時で来てくれないかと頼まれ、最初は渋っていたのだが、合唱部の練習がない木曜日の放課後は音楽室とピアノを自由に使わせてもらう事を条件に引き受ける事にした。
母親が自宅でピアノ教室を開いていて、生徒がレッスンに使うピアノとは別に、ハヤテと弟の練習用のものがあるのだが、家では自分の弾きたい曲を好きなように弾く事ができない。
母のピアノ英才教育で幼少の頃からピアノを弾いてきたが、ここ数年、自分が弾きたい曲は親や学校に求められているものではないような気がして、それまで弾いた事のなかったクラシック以外の曲も弾いてみたいと思い始めた。
しかし、家では常に母親がいて、あまりいい顔をされない。
そこで、自由にピアノを弾ける場所はないものかと考えていたところに、高校時代の恩師から伴奏者の話が舞い込み、条件付きで引き受けたのだ。
合唱部の顧問の
「澤口くん、頼んだよ。浅井先生から、君のピアノの腕前はスゴイんだって、耳にタコができるほど聞かされてるんだ」
「はぁ……耳にタコ、ですか……」
なかなかレトロな言い回しをするなと思いながら、ハヤテは譜面を広げる。
普通なら、年頃の女生徒ばかりの合唱部に、歳上の男、しかもピアノの上手な音大生が来たともなれば、黄色い声のひとつも上がるのだろうが、部員たちは至って冷静だ。
(すみませんねぇ。イケメン音大生じゃなく、地味で目立たないメガネの音大生で……)
何も言わなくても部員たちの落胆ぶりは、その雰囲気で痛いほど伝わってくる。
見た目が残念と言うわけでもないのだが、ハヤテは大人しい性格で、昔からピアノを弾く場面以外で目立つ事はなく、いつも『ピアノ弾いてるメガネの人』だった。
ピアノを弾いていなければ『地味で目立たないメガネの人』だ。
幼い頃からピアノばかり弾いていて、最近の流行や恋愛にも疎いハヤテは、当然の如く、21歳になった今に至るまで、恋をした事も彼女ができた事もない。
女の子が嫌いなわけでも、興味がないわけでもないが、自分にまったく自信がないハヤテは、かわいい女の子を見ても『かわいいな』と思う程度で、自分から女の子を好きになったり、付き合いたいと思った事もない。
『どうせ自分みたいな地味で目立たないつまらない男なんて、好きになってくれる女の子がいるはずがない』と、ハヤテの中で恋愛はいつも他人事だった。
たまにピアノを弾いているハヤテを見て『勘違い』をした女の子が、後日、教室にその姿を見に来る事も何度かあったが、普段のその地味で目立たない姿に落胆して去って行くのが、お決まりのパターンになっていた。
ピアノを弾くのは嫌いじゃないし、むしろ好きなのだが、ピアノ以外になんの取り柄もない地味で目立たない自分の事が、ハヤテは嫌いだった。
(ヘンに期待されても困るんだよな……。これがオレなんだからしょうがないじゃん。むしろ、オレ自身が一番残念だと思ってるよ!)
ハヤテは合唱部の部員たちの落胆ぶりに心の中でため息をつきながら、その日の練習での伴奏者としての役目を淡々とこなした。
ハヤテが合唱部の伴奏者を引き受けてから、初めての木曜日。
誰の目も気にせず好きなようにピアノが弾けると、ハヤテは軽い足取りで音楽室へ向かった。
(何弾こうかなぁ……)
楽器店をまわって見つけたり、友人から譲り受けたりして集めた譜面を入れたバッグを手に、ハヤテが音楽室に足を踏み入れた時。
ピアノのそばの窓際の席で、一人の女の子がうつむいて座っている事に気付いた。
(あれ?誰かいる……。先客?でも今日は部活もないはずだし……)
よく見るとその女の子は、肩を小さく震わせ、時折しゃくりあげるようにしている。
(え?泣いてる……?どうしようかな……)
少し迷ったものの、この時間は自分が自由に音楽室とピアノを使用する許可を得ているのだからと、ハヤテはピアノに向かった。
そして、ピアノの前に座り譜面を広げる。
「あのさ……お取り込み中、悪いんだけど……」
ハヤテが声を掛けると、その女の子はポケットから取り出したハンカチで涙を拭きながら顔を上げ、潤んだ瞳でハヤテの方を見た。
(あ……この間の……)
それは、先日、駅で落とした学生証を拾ってくれた女の子だった。
「この時間、オレがピアノと音楽室の使用許可もらってるんだよね。勝手に弾いてるから、気にしないで。気にならないならいてもいいし、もちろん出てくれても全然構わない。オレも気にしないし」
女の子が小さくうなずくのを見てから、ハヤテはピアノを弾き始めた。
普段は家や学校で弾く事のないポップスや、洋楽の『名曲』と言われる曲などを、思うままに弾いた。
ハヤテがピアノに没頭している間、女の子は机に頬杖をついて、目を閉じてその美しい音色と旋律に耳を傾けていた。
ひとしきりピアノを弾いたハヤテは、音楽室の壁に掛けられた時計に目をやった。
(6時半か……。時間ちょうどだな。今日はこれくらいで終わりにするか)
譜面を片付けかけたハヤテのそばに、女の子が歩いてきて微笑んだ。
「もうおしまい?」
「あぁ……うん。6時半までの約束だから。あの……この間はありがとう」
ハヤテがお礼を言うと、女の子は笑ってうなずいた。
「3年前、文化祭の合唱コンクールでピアノ弾いてたでしょ?」
「ああ、うん……。あったね、そんな事」
ハヤテが高3の時、文化祭の合唱コンクールでピアノを弾くはずだった女の子が、当日急病で欠席してしまい、代役がいない事でクラス中が大騒ぎになった。
ハヤテは合唱コンクールではなく、別の出し物の担当になっていたのだが、困り果てているクラスメイトを放っておくわけにもいかず、仕方なく急遽、伴奏者の代役を引き受けたのだ。
もちろん練習などする暇もなかったが、初見で見事に代役をこなした。
「3年前……って、なんで知ってるの?」
「私、この学校受験しようと思ってたから、校内の雰囲気とか見てみたくて、文化祭に来てたの」
「そうなんだ」
ハヤテは、3年も前の事なのに自分の事なんかよく覚えているなと思いながら、譜面を片付ける。
「その文化祭の日にね、おしゃれしてイヤリングつけてたんだけど、いつの間にか落としちゃって……。それに気付いて探してたら、今度は友達とはぐれちゃって泣きそうになってたんだけど……。あの時、助けてくれたでしょ?」
「……ああ、なんか困った顔して何か探してる女の子がいて……。あれ、君?」
「うん。あの時はありがとう」
「いや、たいした事は……」
逆にお礼を言われて、ハヤテは照れくさくなる。
「一緒になってイヤリング探してくれて、友達と会えるまで一緒にいてくれて、すごく心強かったし、嬉しかった。お礼言おうと思ったらもういないし……。あの後、探し回ってたら体育館でピアノ弾いてるの見つけて」
「そうなんだ」
「あの時は結局話し掛けられなかったから、絶対にこの学校に入ろうって。でも、頑張って入学したら、もう卒業した後でがっかりした」
「オレ3年だったからね。入れ違いだ」
「うん。入学してから上級生に聞いてもみんな知らなくて、担任の先生に聞いてやっと、卒業した事と名前がわかって」
(オレ目立たないからな……)
「担任って……」
「浅井先生」
「やっぱりな……。3年の時の担任なんだ」
「同じ先生だったんだね。この間、駅で学生証拾った時、この人だ!!って思ったんだけど見失っちゃうし……。でも、会えて本当に良かった。ずっと会いたかったから」
「え?ああ……そう……」
(そんな事言われたの、初めてだよ……)
妙に照れくさくなったハヤテは、譜面をしまったバッグを手に立ち上がる。
「とりあえず、出ようか。もう随分時間過ぎちゃったから」
「あ、ごめんなさい」
女の子も慌てて鞄を手に取り、一緒に音楽室を出た。
音楽室の鍵をかけ、職員室に鍵を返しに行く間も、女の子はハヤテの後をついてくる。
(なんでついてくるんだろう?)
ハヤテが不思議に思っていると、女の子は昇降口に向かって走り出した。
(ああ……ただ単に、行く方向が同じだっただけか)
妙に納得して職員室前の玄関でハヤテが靴を履き替えていると、女の子は靴を持って小走りに戻ってきた。
(戻ってきた……?)
「ハヤテ、一緒に帰ろ」
(ハ……ハヤテ?!)
『ハヤテ』なんて女の子から呼ばれた事のなかったハヤテは面喰らってしまった。
しかも、相手は3つも年下の女の子だ。
(ハヤテなんて、男からも滅多に呼ばれた事ないよ!!)
とりあえず駅に向かって歩きながら、ハヤテは女の子に話し掛けた。
「あのさ……」
「ん?」
「ハヤテって呼ぶの、やめてくれる?」
「どうして?」
「名前、気に入ってないから」
「なんで?」
「似合わないから」
「……そんな事ないよ?」
「あるよ。『ハヤテ』なんて、名前だけ聞いたら、どんな颯爽としたカッコイイヤツが現れるかと思うけど……実際のオレは『地味で目立たないメガネの人』だから」
ハヤテがボソボソと呟くと、女の子はおかしそうに笑う。
「笑ってるし……」
「だって……ヘンな事言うんだもん」
「ヘンって……」
(オレにとっては、一生続く大問題なんだけどね……)
「名前もカッコイイけど、私はハヤテ、カッコイイと思うよ?」
「はぁ?!」
(カッコイイなんて、名前以外言われた事ないんですけど!!なんだこの子?!ものすごーく目が悪いのか?むしろ腐ってるのか?!それともいわゆる社交辞令ってヤツなのか?!)
思いがけない事を言われたハヤテは、軽いパニックを起こしそうになりながら、ぐるぐると頭の中で思いを巡らせる。
「私、
(いやいや、呼ばないから……)
さっきまで泣いていたはずなのに、今は楽しそうに笑って話すメグミを不思議に思いながら、ハヤテは首をかしげる。
(最近の高校生ってみんなこんな感じ?いや、少なくとも、合唱部の子たちとは全然違うような……)
「また、ピアノ弾きに来る?」
「あぁ……木曜日は好きに使っていいって言われてるから。他の曜日は合唱部の伴奏やってるけど」
「そうなんだ。じゃあ、放課後、音楽室に行けばハヤテに会えるって事だよね」
「……まぁ……いるけど」
「また、聴きに行ってもいい?」
「邪魔さえしなければ別にかまわないけど……。おもしろい事なんてないと思うよ?」
「そんな事ないよ。さっきまですごく落ち込んでたのに、ハヤテのピアノ聴いたら、すごく元気出た」
「それはどうも」
(結局ピアノかよ)
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