銀河はそれを愛と呼ぶのか その4

 焦土。

 端的に、それだけが残っていた。


「―――――鬱陶しいなぁ」


 ピョンティエン国立競技場。アリュゾホート・マグサリナス・ゴマ=ゴマフとウサギ氏族の命運を決する戦い。

 観客席は無事だ。決闘を見守るたちを死なせないため、ゴマ=ゴマフ自身がそのように計らったのだから。

 そして、競技場の全方位を取り囲む観客席を守った結果、ピョンティエンの街を焼き尽くすはずだった破壊の劫火は、その中心点へと圧縮され―――ジャーリス・アバウォッキ公爵ただ1匹に向けて解き放たれた。


 閃光と黒煙が晴れた後、民衆の目に飛び込んで来たのは、まさに悪夢だった。

 競技場の舞台一面が、巨大なクレーターに変貌している。CNT繊維製の耐衝撃壁面は、しかし既に用を成さないまでに損壊しており、未だに至る所で小さな火が燻っている。


「…………………………」


「ちょっと予想以上かも。君、僕よりよっぽど頑丈じゃない?」


 だが、何よりも悲惨だったのは、


「…………、―――ぅ……。……ぁ……」


 それほどの破壊を一身に受けておいて―――ジャーリス・アバウォッキは、未だ死ぬことを許されていなかった。

 神器「青薔薇の鎧」天獄鎧・ネサルフェリオはこれまで多くのウサギ、あるいは古代種ヤルダモの手に渡ってきたが、ジャーリスは歴代所有者の中でも最高の適合率を有する。青みがかった白という一見異様な毛皮は、まさに青薔薇の鎧と「兎鎧一体」となったことによる後天的な変異だ。

 青薔薇の鎧は比類なき癒しの魔力を宿し、装甲の欠損を自ら修復しながら、その使い手からもあらゆる傷と毒を遠ざける。

 どんなに強力な武器も、どんなに緻密な戦術も、一匹の兵士を同時に殺せるのは一度だけだ。如何なる強敵であろうと、突破の可能性を総当たりにして勝利する。それが青薔薇の鎧とその使い手の持つ真価だった。


「……ぁぁ……」


 しかし、と対峙した時、天獄鎧は使い手に無限の臨死を強いる苦痛の坩堝と化す。

 本来ならば、実現できる状況ではない。万物を断つ宝剣を携えた不死身の聖騎士、"静謐"の最強種ジャーリス・アバウォッキが、手も足も出せず敗北することなど―――ありえない。


「今更だけど、ヤルダモもとんでもないものを作ったもんだ。あぁ、いや……ネサルフェリオは昔からウサギ氏族のお宝なんだっけ。ヤルルカーンも元はシャチ氏族の刀だし、ヘトラキサキドル・ゼペルトリンデもヤルダモが作ったとは限らないんだったかな。そう考えると、思ったよりヤルダモのオリジナルって少ないね。七福神みたい」


 否。

 ありえない、などということはありえない。

 このあざらし、ゴマ=ゴマフの登場から、第11銀河は決定的に変わってしまったのだから。


「ぅ……うぅ……」


 白い毛皮も青い輝きも失い、血の紅と炭の黒にまみれて尚、ジャーリスは小刻みに動いている。いや、青薔薇の鎧の権能によって生かされ、無理矢理に駆動させられている。

 ゴマはグリスが最新のナノマシン技術を用いて"死者蘇生"を実行してみせたのを思い出したが、神器がもたらす異能の再生力はその比ではない。


「あぁ……ああぁぁぁ……」


「ジャーリス……?」


「ウゥ」


「!? お、おい、誰か倒れたぞッ。早く医務室へ!」


「アルミラージ様、嘘ですよね? こんな、あざらし如きに、私たちのジャーリスが負けるはずがない……」


「そんな……ジャーリス!? ジャーリスっ!!」


 混乱する民衆の声がめいめいに響き渡る。

 ジャーリスの惨憺たる有様を嘆く声。満身の怒りを込めて魔王ゴマ=ゴマフを罵る声。神獣アルミラージに祈りを捧げる声。

 ただ救いを求める、民の声。それが決定的だったのだろう。


「―――ゥ、ぐあぁああァァァッ!!」


 青薔薇の鎧に用いられている神鉄は、神獣アルミラージの祝福によって加護を施されている。

 神獣アルミラージは、民から捧げられる信仰によって、半ば無際限にその力を増していく。


「……ハァ……、ハァ……!!」


「―――つくづく、鬱陶しい」


 天獄鎧・ネサルフェリオ。損傷に対する自己修復機能が働き、それは使すら巻き込んで、戦闘開始時の"かたち"を取り戻させた。

 ジャーリスの四肢は今や血肉と鉱石の混合物へと、若草色の光の鎖が、破裂寸前の心臓を強引に繋ぎ止めてパッチワークしている。

 聖騎士が一歩、魔王へとにじり寄る。その度に膝と足の腱が捻じれ、脇腹に走った切断痕が開き、赤黒い液体と、ぶよぶよした肉の塊が零れ落ちる。

 若草色の光が立ち上って、それらは即座に縫い塞がれた。


「ウオオオオオオオオオオオ!! 立ったッ!! ジャーリスが立ったぞ!!」


「負けてない……! ジャーリス公はまだ負けてないんだ!」


「行けーっジャーリス!! その害獣の首を刎ねろォ!!」


「ジャーリス!!」


「ジャーリス!!」


「ジャーリス!!」


「ジャーリス!!」


「ジャーリス!!」


「「「「「ジャーリス!! ジャーリス公!! アバウォッキ公!! 聖公爵!! 聖騎士筆頭!!」」」」」


 魔王による悪夢じみた怒涛の攻勢に曝されて尚、聖騎士は見事に復活してみせた。

 奇跡の光景を前に民衆の熱狂は最高潮に達し、そうして膨れ上がった信仰心が、青薔薇の鎧ネサルフェリオの権能を極限まで増幅する。

 祖国を背負って立つ聖騎士に、民と神獣がそう望む。倒れず戦い続けることを。無限の戦場に生きることを。どれだけの艱難辛苦に打ちのめされようとも、ジャーリス・アバウォッキを取り巻く世界が、英雄を求めるウサギ氏族すべての祈りが、彼に敗北を認めない。

 希望と絶望の相転移、破壊と再生の循環参照。現在進行形で紡がれる神話そのもの。―――七星の最強種。


「……ハァ……。……申し訳……ありません。いささか、騒がしい、かと。しかし……、今はただ、私との戦いに……集中して、いただきたい」


「いいよ。気にしてない」


「痛み入り、ます。……聖騎士などとは申しますが。武技の他に、神の世に仕えるべき道を知らぬ未熟者です。ここに、武の極致と立ち会う栄誉と幸運を……民の目などとは関わりなく、享受したい」


「うん」


 心にも無い虚勢だ。「最悪の魔王にさえ礼を失さぬ最優の騎士」という幻想を演出し、彼らの信仰を繋ぎ止めるための、それは欺瞞の呪文にも等しい。

 神聖術が行使され、宝剣マルミアヴォーパルの折れ欠けた断面から、黄金色の光の刃が生じた。

 その柄に伸びる指は奇妙に捻じくれ、もはや剣を握るには適していない。だがジャーリスは、再生を経て奇跡的に原型を取り戻した左手で、砕けた右手を掴み潰した。たちまち天獄鎧が癒しの魔力を行使し、歪に膨張した肉と骨が剣の柄を固定する。

 ジャーリスは唇の端から血が滲むほどに奥歯を食いしばり、絞り出すような苦悶の声を漏らしながらも、堂々とした立ち姿でマルミアヴォーパルを構えた。


「―――来な」


「お……うぉおおぉああああぁぁぁぁぁぁッ!!」


 咆哮と共に、ジャーリスは駆け出す。

 剣は折れ、凄烈な傷を負い、朦朧とする意識の中では祈りの言葉すら上手く像を結ばない。神聖術による身体強化の出力も落ちている。

 にも関わらず、ジャーリスが放ったその一閃は、今日これまで見せた如何なる攻撃よりも鋭かった。

 それは、神器・青薔薇の鎧を通し、ジャーリスという聖騎士に、ウサギ氏族すべての祈りが託されたが故の奇跡か。

 あるいは―――――。


「おおォ―――ハアッ!! ふッ! ふん! ハァアァァ!!」


「わぁ。凄いな……、本当に。さっきより痛いや」


「ハァッ……!! ハッ……! ……、うおお!!」


 起死回生の反撃に見舞われ、それまで巨峰か大木の如く不動の姿勢を取っていたゴマが、ついに動いた。

 上体を逸らして逆袈裟をかわし、円の軌跡を描いて迫る面打ちをすり抜け、3連続の払いをヒレで弾く。剣が浮いた瞬間に鳩尾へ拳を滑り込ませる。

 ジャーリスはこれに怯まず、すぐさま高速の突きで反撃を試みるが、ゴマはそれを首の動きだけで避ける。そのままマルミアヴォーパルの砕けた刀身を、這いずり跳ねるあざらしの腹で踏みつけた。ジャーリスが体勢を崩したところへ、ゴマの打撃、打撃、打撃―――目にも止まらぬ連打。


 祈りの加護でどれほど速く力強くなろうが、ジャーリスが必死の形相で振るう刃には精細さが欠けている。

 阿修羅神刀斎には、どんな肉体の状態にも関わらず十全の技量を発揮するほどの経験、身体に刻み込まれた無限の鍛錬の記憶があった。

 グリス・ポラベラムには、最新鋭技術で得た膨大なタフネスと共に、敵対者を確実に殲滅する究極の火力があった。

 ゼドゲウスには、すべてがあった。戦士として、戦闘単位として、戦いに身を置く者に要求されるすべてが。竜王はただ膂力に優れ、ただ頑健で、ただ速かった。故に一切の穴が無く、ただ純粋に無双の強者たり得た。


 ジャーリス・アバウォッキには、青薔薇の鎧とマルミアヴォーパルがある。

 万物を断つ剣と、それを振るうに値する技巧を持ち合わせている。あらゆる傷を癒し、闘志の限り装着者を立ち上がらせる鎧を纏っている。


 だが、それだけだ。

 マルミアヴォーパルでゴマは斬れない。青薔薇の鎧でゴマの攻撃を防ぐことは出来ない。

 七星の最強種は、至高の強者であっても、無敵の超越者ではない。




――――――――――――――――――――――――――――――




 1000年以上前、それはラビメクト聖教世界に突然もたらされた。

 当時の聖王、及び枢機卿の数名が、日常の儀式の最中にトランス状態に突入。神獣アルミラージとの交信が成され、そして「最も不吉なる7つの予言」を授かった。

 彼らはその予言が指し示す破局的な悲劇を回避するために行動を始め、やがて一匹の枢機卿を除く全員が発狂し、破滅へと立ち向かう術を見出したのと引き換えに死んでいった。


 生き残った一匹の枢機卿は聖王の位を継ぎ、信徒たちを率いて、かつての同志が遺した予言への対処法を実践していく。


 第1の予言。血の色をしたひょうが、槍となって地上に降り注ぐ。


 第2の予言。多くの山が火を噴き、硫黄の火と熱い岩が地上を焼き、煙の雲が太陽の恵みを遮る。


 第3の予言。天空より降りきたる星が多くの川に落ち、水を穢して毒に変え、民の命を脅かす。


 第4の予言。空の星々の輝きがかげり、太陽と月もまた光を弱め、その恵みが地上に行き渡らなくなる。


 第5の予言。南西の大地が崩落し、その下に隠れ潜んでいた無数のいなごたちが現れ、あらゆる草木を薙ぎ倒し動物を喰らう。


 第6の予言。民の上に立ち地を治めている4匹の王が狂い、騎兵たちを率いて相争う。

 特に優れた戦士が2匹見出され、彼らはよく戦い、戦争を終わらせようとする。だが、戦争を始めた4匹の内で最も強欲な王に騙し討ちをされる。戦争によって隣兎を殺された民らは怒り狂い、すべての責任を2匹の戦士に被せて罵倒し、これを討った強欲な王を賛美する。

 然る後、2匹の戦士は深い憎しみによって復活し、すべての王とそれに付き従う民衆を殺戮して回る。


 予言は直接的な未来のビジョンであったり、訪れ得る危機の比喩であったり様々だった。

 しかし、予言を知る教会のウサギたちの尽力によって、時の当事者たちはいずれの危機も回避し、また耐え抜いた。

 結束と信仰の力により、ウサギ氏族は運命に定められた破局を退け続けてきたのだ。


 ―――ここに、努めて秘された第7の予言がある。


 最も不吉なる予言を授かった高僧たちの内、唯一最後まで正気を保ち、聖王となって民を導いた枢機卿。

 現聖王家の血筋の始祖、ミーレス・ハルパーズは、されど生前、自身が授かった予言の内容を誰にも明かすことはなかった。


 現聖王カドゥラス・ハルパーズ・ラビメクトが父クンフートより聖王位を継承した時、彼もまたミーレス以来伝わる第7の予言の内容を知った。

 ラビメクト聖教会の本部最奥、枢機卿以上の高僧のみが参拝を許される神殿の、さらに聖王のみが入ることの出来る領域。神獣アルミラージに直接拝謁するための祭壇で、カドゥラスはついに、ミーレスが創造したという特殊な祭具から、"最後の予言"を読み取る機会を与えられた。


 第7の予言。

 第6までの予言が覆され、すべての破局が退けられた時、この世の誰にも考えが及ばぬほどの恐ろしいものが現れる。

 永遠の王、全能の神、栄光の主は、天にあるべき善良な民の前に立ち、正しき怒りをもって、恐ろしく、悪しく、底知れぬものを打ち倒すだろう。

 そして地上は安寧に包まれ、もはやこの世の誰も死ぬことはない。神を信じるすべてのウサギが楽園へと導かれ、真の神を選ばなかったすべてのけものは地獄に落ち、以て永遠に続く幸福が約束される。

 恐ろしいものが現れる前には、兆しがある。それは最も優れた預言者が、妻を持ち、また赤い目の女児を得た時である。

 赤い目の女児は、地でなく、天でもない場所から現れた、恐ろしいものによって殺される。それが戦いの始まりである。

 備えよ。神の勝利のために。


 ミーレスは信仰厚く、またウサギ氏族には珍しく清貧を尊び、地位や名誉にはこだわりが無かったという。枢機卿の位もまた、彼自身の望みではなく、周囲の信徒たちからの強い推薦によって得たものであった。

 しかし、神託の予言がもたらされて数年後、予言を発端とする殉教者が現れ、やがて聖王位が空席となった時、ミーレスは誰よりも早くその座を射止めた。

 己が授かった予言にあった「最も優れた預言者」という一語。これをラビメクト聖教の頂点であり、信徒すべての規範となる者、すなわち聖王であると考えたミーレスは、自らその過酷な運命に立ち向かおうとしたのである。


 果たして、聖王家ハルパーズの一族の間でのみ、第7の予言は代々継承されていくこととなる。

 第6までの予言すべてを打ち破り、そののち始まる最後の「聖戦」に備え、ハルパーズ一族は聖王位を歴任し続けた。


 悠久の営みの末、カドゥラスの代にてそれは結実することになる。

 ハルパーズ一族は代々、白毛に黒瞳であり、それは他家の血を取り込んでも、そう大きくは変化して来なかった。

 だが、カドゥラスと妻レゥフィンの娘、レティシア・ハルパーズ・ラビメクトの瞳は―――紅玉ルビーめいた、鮮やかな赤だった。


 聖王とその妻に限って、不貞の類は有り得ない。彼らの親子関係はDNA鑑定でも明らかだった。

 ならば、「最も優れた預言者」聖王カドゥラスの娘が、赤目であったということは、レティシアこそが「予言の女児」だとでもいうのか。


 ―――それを証明するかのように、第11銀河アニマルバースを震撼させる事件が次々と起こった。

 アザラシ=シャチ集団暴行殺獣事件。10体の特に強力なあざらし「白き王たち」と、彼らをも上回る超抜個体ゴマ=ゴマフの出現。アニマルバース六英雄の戦死。あざらし天国の変。あざらし戦役。

 破滅の予感が近付きつつあった。カドゥラスは幾度となくアルミラージに拝謁し、加護を願ったが、神は決まって「備えよ。最後の日は近い」という短い思念を放射するのみだった。


 最も不吉なる予言に関して、重要な事実がもうひとつある。

 予言に示された破滅は、その後の努力次第で回避することが可能だ。

 しかし、のを未然に防げたことは、ただの一度も無かった。

 紅い雹も、大規模火山の一斉噴火も、隕石に付着していた宇宙細菌による水源汚染も、惑星直列による恒星のエネルギー放射の異常も、新種のバッタ型昆虫による未曽有の世界的蝗害も、野心の制御を失った僭主たちによる内戦も、確かに現実に起こってしまった。予言で定められた通りに。

 ゴマ=ゴマフによって銀河が破滅することは無いかも知れない。だが、その発端であるレティシアの死は、どこかの時点で必ず発生する。

 神によって宣告された、避けようのない運命を―――カドゥラスは、ひどく恐れた。


 大ウサギ民国は宗教国家であり、同時に経済大国でもある。

 カドゥラスは決してそうと悟られぬよう、これまで以上の寄進をウサギ氏族の皆に奨励した。

 そうして集めた俗世の資産を、惜しみなく工業や医療、福祉に投資し、ラビメクト聖教の権威を過去最高の水準にまで高めた。

 備えよ。すべては破局を覆すために。


「ジャーリスよ。いつの日にかお前は死ぬ。我が娘、レティシアの身代わりとなって」


 自身のDNAマップの内、約26%を占める範囲の提供者―――"最も父親に近い獣物"と初めて会った時、ジャーリスはそのように告げられた。

 カドゥラスとレゥフィン、レティシア当獣のDNAをベースとして、他にも優秀な僧兵や神学者の遺伝子を組み込まれた、レティシア・ハルパーズ・ラビメクトの似姿にして設計された子供デザイン・チャイルド

 それが、今日ジャーリス・アバウォッキ公爵として知られる七星の最強種、最優の聖騎士の正体だ。


 ジャーリスのパーソナルを知るけものは極めて少ない。彼、否、彼女が男装の麗獣であることを知る者さえ。それは当然、ラビメクト聖教の最高機密のひとつであるからだ。

 怜悧な容貌と洗練された振る舞いは、確かにある種の静けさを連想させるが、彼女は特に寡黙というわけではない。

 だが、敵対者には一切容赦せず対話の余地すら許容しない苛烈な戦いぶりと、の身辺を探ろうとしても必ずどこかで迷宮入りするという事実から、その二つ名は自然と定められた。

 過去を持たず、我を持たず、ラビメクト聖教圏を守る聖王の剣。民の願いにただ戦果で以て応える、「静謐」の最強種。


「―――はい。私の命は、聖女猊下のために」


 そして、「聖王の血を継ぐ赤目の女児」という条件に合致する、運命の目を欺くための代替品。

 レティシア・ハルパーズ・ラビメクトのために死ぬことを義務付けられた彼女は、この世の誰にも、自身の行く末を語ることはない。




――――――――――――――――――――――――――――――




 神聖術で形成した、光の刃を叩きつける。

 防がれた。反撃が来る。「ごま」という鳴き声と共に、霞むような超高速のヒレ

 身体中に鈍いショックが走る。もはやそんな程度にしか、肉体へのダメージを感知できない。


「ン、……ぐっ……。……おおォォォ!!」


 都合が良かった。

 堪えるのは、喉奥からせり上がる鉄の匂いだけで済む。


「ごまァ」


「がっ」


「ごまっ、ごまぁ! ゴォォォウ……」


「ぐ、く……、……ぁああぁぁあ!!」


「マアアアアアァァァァッ!!」


「あぁがあッ……!! ヴゥ、ああ……ああああああああっ!!」


 どうして自分が立ち上がっていられるのか、不思議なほどだった。

 視界は血の色にぼやけ、頭の中を薄靄が覆っている。神聖術の式句が咄嗟に思い浮かばない。私は最早、自力で祈りを捧げることすらままならず、信徒たちのそれが辛うじて私に必要な加護を引き出している。


 マルミアヴォーパルを振るう腕。痺れ続ける拳の内側に、剣の柄を握っているという感覚は既に無い。

 ならば、私が掴んでいるは何だ? 何が私をこうまでさせている? 


 私が、「聖王の血を継ぐ赤目の女児」が死ねば、予言の前提条件は達成される。ウサギ氏族は私という最強種を失うが、しかし、聖女レティシアという希望を残したまま「最後の聖戦」に臨むことが出来る。

 極端な話、私の生死には意味が無い。むしろ、私がアリュゾホート・マグサリナス・ゴマ=ゴマフに敗北することが、レティシアの命を守ることになる。


 最強種の肩書きなど知ったことか。青薔薇の鎧などくれてやる、マルミアヴォーパルの方はもう使い物にならないだろうが。

 私というウサギは、このどうしようもない脅威に敗北して初めて存在意義を完遂する。

 ウサギ氏族の存続と繁栄のため、神獣アルミラージによる楽園創造を現実とするため、私は、


「私、は」


 なんの、ために。

 何のために、私がこんな思いをしなくちゃならないんだ。

 痛い。苦しい。そのくせ、このくそったれな氏族伝来の神器青薔薇の鎧とやらが、自分で死に場所すら選ばせてくれない。

 死ぬために生まれ、命じられるがまま苦しんで来た。

 私の兎生は、一体、何のためにあったのか?


「わた、し、は」


 半ばから折れ砕けて尚、頼もしい光を放ち続けていたマルミアヴォーパルの輝きが、初めて翳った。

 もちろん、その隙を見逃すゴマ=ゴマフではなかった。


「―――チェストオオオオォォォォォ!!」


「もうやめてッ!!」


 そして、世界の停まる音がした。




――――――――――――――――――――――――――――――




「あなたが、私の妹?」


 その表現は不適切です。限りなく同一獣物に近い別獣、とするのが正しいかと。


「お父様から聞きました。私のために命を捨てようとしていると」


 猊下が気に病む必要は、何一つ御座いません。

 私はそのために生まれました。その使命に殉じることこそが私の使命であり、誇りであり、何より信仰の証明となります。


「……。……、そう、ですか。けれど私は……」


 猊下?


「でしたら……でしたら、せめて。一つお願いを聞いてくださるかしら、私の騎士様」


 無論。私に可能なことであれば、何なりとお申し付けください。


「よろしい。それでは―――、私があなたを愛することを、どうか許してくださいな。あなたを想い、あなたと共に傷つき、あなたの死に涙することを許して欲しいのです。……お父様は、私とあなたがこうして会うことにさえ反対のようでしたけど、とんでもない」


 ……。……猊下、それは……。


「ジャーリス。あなたが私に命をくれるというならば、私はあなたに命をあげます。つまり、あなたの命は私の命ということです。―――あなたは、"私"を死なせないために戦ってくれるのでしょう?」




――――――――――――――――――――――――――――――




「……げい、か」


 なんで。どうしてここに。


 錆びたブリキの玩具のようにしか動かない首を動かし、レティシアが現れた方を見やる。

 ゴマ=ゴマフによる先の熱球攻撃で破壊された競技場の壁面。控え室と直通の出入り口もまた、ごっそりと抉られて内部構造が露出している。


「おやめください、ゴマ=ゴマフ。絶対の一、あざらしたちの白き王よ。どうかその猛る御心を鎮め、この者、ジャーリス・アバウォッキの命をお救いください」


「猊下!!」


「危険です猊下! お下がりを!」


「いいえ、下がりません。我が騎士、ジャーリスを救うまでは!」


 ―――――あぁ。


「……、……目障りだ、失せろよ劣等。今ならその青ウサギ1匹の命で許してやる。一方的な展開にはなったが、こいつは一対一の真剣勝負だ。お前ら外野の出る幕じゃない」


「神聖なる決闘を穢してしまったこと、衷心より謝罪申し上げます。しかし、我が騎士ジャーリスはこの通り、もはやただ立つこともままならぬ深手を負っています。勝敗はついたのではありませんか?」


「馬鹿言え。それを決めるのはお前じゃないんだよ。まず、ジャーリスそいつは諦めていないし……お前以外の誰も、こんな決着を望んじゃいない」


「だったら、私が民草みんなを説得します……! ジャーリスはウサギ氏族の希望そのもの! こんなところで失う訳にはっ」


「警告はしたぞ。愚かなお姫様」


 強烈な力の渦動。

 加減はされていたが、ゴマ=ゴマフの苛立ちをそのまま表すように、その衝撃波は猊下のSPや審判のデルシフ枢機卿を巻き込んで盛大に吹き飛ばした。


「きゃあぁぁっ―――!?」


 ―――――知ってか……知らずか。

 それで、私の中から、冷たいものがすべて消えた。


「……お」


 足が重い。どうでもいい。腱が千切れるのを無視して立ち上がる。

 肩が重い。知ったことではない。鎧を破り捨てて腕を振り被る。


「おおッ―――」


 今は、ただ。

 今はただ、この剣だけあればいい。


「おお―――あああああぁああああああああああぁあぁァァァァァァッ!!」


 鞭のように伸び上がった光の刃が、ゴマ=ゴマフから右半身を奪い去った。

 それが、私がゴマ=ゴマフに与えられた最初のダメージになった。

 白皙の魔王が目を見開く。驚愕に。そして、歓喜に。


「ゴマアアアヒャハハハハハハハハァ―――――!!」


 足りない。右半身では、とてもこの怪物を倒し切れない。

 ゴマ=ゴマフの姿が目の前から消え、再び現れた瞬間、自分の腹に風穴が開いた。

 噴き出す鮮血。次々に露出し、脱落していく内臓。もう時間が無い。


「げぶ……ぐ、ガホッ!!」


「ゴマ……!?」


 痛みを堪える必要は無い。苦しみを我慢しなくてもいい。

 破滅的な内臓感覚に逆らわず、込み上げてきた嗚咽をそのままぶち撒けた。

 血と肉の目潰し。私を引き裂こうとしていたゴマ=ゴマフのヒレの勢いが、わずかだけ鈍る。


「絶対に……ッ、逃が、さん!」


 マルミアヴォーパルを逆手に持ち替え、満身の力を込めて振り下ろす。

 破砕されながらも未だ鋭く尖ったままの断面が突き刺さり、剣はゴマ=ゴマフの矮躯を真上から腹の下まで貫通した。


「ゴォォマアアアァァァァッ!!」


「う、ヴ、おおおおおおおォォォオオォォォォォ!!」


 万物を断つ神鉄の宝剣が、普通の生物なら心臓が存在するであろう箇所を抉っている。

 それでも、まだ死なない。反則だろうと思った。青薔薇の鎧を纏った自分と戦う敵の気分が、初めて理解できたような気がした。


「あああァァあああああ!! がああああァァァァアアアアァァァ!!」


「ゴマアアアアアアアアアアアア―――!!」


 勝利条件が見えない。ゴマ=ゴマフを殺し切るビジョンがまるで浮かばない。

 確かなのは、こうして突き刺したマルミアヴォーパルが、少しずつ、ほんの少しずつ、ゴマ=ゴマフの胴体へ沈み込んでいるということだけだ。


「あああぁァァぁぁ―――……、おおおおおおおおおおおお!!」


「ゴマッギャアーッ!! ゴマッ! ギャギャーッゴマアァアア!!」


 いや。迷うな。

 私は猊下の剣。レティシア・ハルパーズ・ラビメクトの騎士。

 不滅と不敗を謳われた、ウサギ氏族最優にして最強の聖騎士なのだから―――――!!


「おおおおォォォォおおおおおおッ、はああああああァァァァァァァァァッ!!」


「グル」


 ふっ、と。

 腹部に埋まり、そこから私の生命力を吸い出しているかのようだった魔王の左ヒレが、ごくわずかだけ圧力を緩めた。

 とうに絞り尽くしていた集中力をさらに割り振り、ゴマ=ゴマフの全身に意識を巡らせる。

 身体を捻っている。拳打の予備動作。しかし、右半身はまだ再生していない、否、箒星のような火花が瞬いて、


「GOッ」


 魔力で形成された、即席の右ヒレ。不安定だが充分な仮想質量を有する拳が、私の顔面へと吸い込まれた。

 同時に、電撃じみたエネルギーの放射が全身を駆ける。たちまち重力が反転し、それに運ばれるまま宙に浮く。

 握りしめていた剣は、しかし自ずとゴマ=ゴマフの身体から引き抜かれ、最早どれだけ振り回そうと届かない。

 喪失していた魔王の右ヒレが急速に再生する。天災と紛うばかりの絶大なエネルギーが、私という1羽の敵手に注ぎ込まれ、


「MAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA―――!!」


 ゴマ=ゴマフの両目が私を見ていた。

 宇宙の暗黒を凝縮したような双眸には、一分の遊びも油断もない。ただ純粋そのものの殺意が燃焼している。


「─────申し訳ありません、猊下。ジャーリスは、誓いを違えました」


 その結末を受け入れた刹那、私は光になった。




――――――――――――――――――――――――――――――




 無謬の静謐が、世界を沈黙させていた。

 耳に痛いほどの静寂の中で、それを作り出した当事者であるゴマだけが、声を発することが出来た。


「―――やられた」


 その呟きを聞いていた者が、果たしてどれだけ居ただろうか。

 また聞いていたところで、その意味するところを理解できただろうか。


 魔王が解き放った怒りの衝撃波が、静けさを打ち破ってどこまでも拡散した。

 ゴマは泣き喚く幼子のように地面を蹴りつけ、飛び跳ね、重力を歪曲させて飛翔する。その姿はたちまち競技場から遠ざかり、やがて誰にも見えなくなった。




 何がウサギ氏族最優の聖騎士だ。


 ―――七星の最強種、ではない。


 民の希望を一身に背負う英雄ではある。万物を穿つ矛と万象を防ぐ盾を併せ持つ、恐るべき戦士でもあるかも知れない。

 だが、ジャーリス・アバウォッキは、天獄鎧「ネサルフェリオ」の担い手では


 それは、「静謐」の最強種たらんと自らに定めて生きた、ただ1羽のウサギに過ぎない。

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