盟友よ、朋友よ!/曇りなき宿業の剣 その3
シャチ氏族『義鯱衆』はかつて、アニマルバース最強の戦闘集団の一つだった。
それはきっと、今でもそうだ。剣術にて軍刀の振り方に通じ、槍術にて銃剣の扱いを覚え、柔術にて近接格闘に長じ、麒麟馬術にて乗騎の何たるかを解し、弓術にて長距離射撃の要諦すら知る『侍』たちは、時代と共に変化していく戦争の形態にもずっと対応してきた。
銃が生まれ、大砲が生まれ、戦車が生まれ、地雷が生まれ、軍艦が生まれ、航空機が生まれ、重金属荷電粒子砲が生まれ、自律兵器が生まれ、戦場が陸海空宙のどこに移っても、彼らは生き残り続けた。
銃の前に刀剣は届かず、大砲が槍衾を正面から吹き飛ばし、戦車に蹂躙され、地雷に大地を侵食され、軍艦に海を征服され、航空機が空に君臨し、荷電粒子の奔流が世界を焼き尽くし、自立型無獣兵器が命の価値を限りなく貶めても、彼らはずっと戦い続けた。
故に、ある意味で。彼らにとってアリュゾホート・マグサリナス・ゴマ=ゴマフの存在は、天啓とすら呼べるものであった。
尋常の物理法則に囚われない"異能のけもの"の実在は世間にも知られているところだった。が、如何に傑出したけものあろうと所詮は単独の生物でしかなく、十全に統率された組織と最新鋭のハイテク兵器こそが『最強』の戦力であると、誰もが――たとえ『七星の最強種』に列せられている当獣たちであっても――疑っていなかった。
しかし、究極の生物兵器たる『あざらし』の台頭と、その中でも最大の脅威を誇るアリュゾホート・マグサリナス・ゴマ=ゴマフという個体の出現が、すべてを変えた。
力。暴力。武力。威力。破壊力。
個我のけものが持つ"力"を、想像を絶する領域にまで極めたならば、これほどのことを為し得るのだと。
数の利を飲み干し、兵器を超越し、同様の異能者でさえも打ち砕く真に最強の力を、ゴマ=ゴマフは証明した。
移ろいゆく時に取り残され、次第に衰退していくばかりだったシャチ氏族は―――自分たちが目覚めさせてしまったその災厄に、一筋の光を見出した。
常世の徒花と散ったはずの
英雄の時代をもう一度。血の誉れに満ちたあの戦場を、もう一度。
――――――――――――――――――――――――――――――
ネオシャチントンは、あのゴマトピアが人気のリゾート地に思えるほどに治安の悪い街だ。警察は一応存在するが、当然の如く上層から末端まで腐敗し切っており、裏金を流してくれるごく一部の"上級市民"にしか力を貸すことは無い。
当然、その手の集会が取り締まられることも無く、浮浪者や傭兵くずれに小金を渡して焚きつければ即座に反社会的勢力を組織できる。各星系に潜伏しているボンゴマ・ファミリーの下級幹部――多くは兵器や麻薬の一次生産者で、自身で
「……。まぁ、順調か」
通信機から銃声と悲鳴が聞こえてくる。目標である『神器』を持つ最強種・阿修羅神刀斎鯱光と、彼が率いるシャチ氏族の戦術機動部隊『義鯱衆』との交戦は既に始まっている。
刀槍の類で武装し、麒麟を駆る異様の兵団―――義鯱衆。装備については徐々に近代化されているようだが、やはりその真骨頂は麒麟による雷速での切り込みと、圧倒的な白兵戦能力にある。有象無象のならず者の群れが相手では準備運動にもならないだろう。
(だから僕の所在を隠した。こっちの雑魚と向こうの雑兵が食い合っている間にも、まだ沈黙を保っている部隊。そこに阿修羅神刀斎が居る)
ゴマの目的は義鯱衆と決着をつけることではなく、あくまで阿修羅神刀斎が所有する『
神刀斎を含む義鯱衆全員を正面から叩き伏せるという選択肢もあったが、何であれ無闇な消耗は避けるに越したことはない。まして、敵の本命はあの『七星の最強種』が一角なのだから。
(どこだ―――阿修羅神刀斎鯱光。銀河最強の剣聖、"星団斬り"の鬼神)
ネオシャチントンの物流の4割を牛耳るバッファローの男が経営する自動車小売店を襲撃、強奪してきた最新のホバークラフト・バイクを走らせながら、ゴマは周囲に目を光らせている。
行きで乗ってきた改造クラシックカーは非戦闘員であるウーノとリンに任せてあった。最強種との戦闘に巻き込まれればさすがに無事では済まない。地上を進むだけなら通常の車や航空機でも不便は無いが、宇宙航行とワープ航法に対応した乗り物となるとかなり入手が手間になる。
(街の中央にある時空の穴の周りでは通信機がダメになる。特異点の影響で電磁波も量子波も乱れまくってるからな。いま交戦している部隊の布陣からして、司令部を置くとするなら、候補になりそうなエリアは―――――!?)
それは、ネオシャチントンの居住区や採掘場などに分かれた各セクター同士を繋ぐ、長大で複雑な高速道路ジャンクションに入った瞬間だった。
後方へと流れていく景色より速く、ゴマの脳裏を電光が掠める。空が赤く染まる錯覚。
ホバーバイクのハンドルを引き絞り、加速して、ブレーキに手をかけて車体を跳ね上げた―――1秒後、さっきまでゴマとバイクの姿があった地点が、びょうという風切り音と共に消し飛ばされた。
「ッ! ……テールランプ5回点滅させ『愛してる』のサイン、からのっ、AKIRAブレェェーキ!! やっほー僕カッコいい!」
突如として飛来した謎の破壊が襲った場所には、車線2つ分を優に超える大きなクレーターが出来ていた。
その中心でアスファルトに放射状のヒビを刻んでいるのは、斜めに突き立ったごく細い棒だ。先端部は楔状で、反対側には飾り羽のようなものがついている。ゴマがホバーバイクを止めた位置からでは材質までは見て取れないが、超音速で飛翔して道路を穿っても原型を保っているのだから、相当に頑丈であるのは間違いない。
(……弓矢か)
改めて周囲を見渡す。この短時間に確認できる範囲で、ではあるが、少なくともこの広く長い高速道路ジャンクションに怪しい影は無さそうだった。
弓矢という原始的な武器で超長距離狙撃というだけでも異常だが、それが射った地点を爆散させるような威力を持っていることもまた異常だ。空気抵抗による減衰や重力による落下がどうとか、そういったレベルの話ではない。
ゴマは第二射に備えて全神経を動員し、警戒の網を張り巡らせ、そして。
大気が啼く。
すさまじい破裂音が連続する。二度、三度、四度、もっと。
今度は不意討ちではなく、故に迫りくる矢の軌道がゴマにも見えた。ミサイルじみて空気の層を断裂させ、白んでうねり飛ぶ死の運び手。着弾地点どころか、射線に掠められただけでも骨肉が抉られそうな破壊力だった。
「よっ、ほっ、はっ、それっ、ハハハ存外大したことなもっふあぁぁ!?」
矢の来る方向を認識し、ある程度は射線を読めるようになったゴマを、上空からの一閃が強襲する。
狙いは大雑把だが高速で繰り出される直線の軌道の矢と、それを回避しようと逃げ込んだ先へ打ち込まれる曲線の軌道の矢。速度そのものにはわずかずつ緩急を付けながらも、矢の弾幕は全く途切れることがない。
それは敵手の意識の間隙を的確に撃ち貫く、鮮やかなまでの殺戮の技巧だった。
「クソがっ……マシンガンかよ! ……ふざけやがって!!」
しかし、これだけ一方的に射掛けられては、ゴマの方も弓手の陣取る位置に見当がつく。
白き魔獣はその矮躯からは想像もつかないほど強烈なオーラを現出させ、正面からの矢を3本殴って落とし、上空からの矢を2本尻尾で薙ぎ払って食い止めた。そして次に放たれた計7本の矢が、弓の弦に弾かれて加速の頂点に達するより速く、一目散に中空を疾駆する。
目指したのは高速道路のジャンクション、西側の出入り口のさらに向こう。小高い雑居ビルがまばらに建つエリアの一画。
闘気を纏い、高速移動に入り、超反応の世界の住民となったゴマには見える。最新鋭のスナイパーライフルですら困難な超長距離射撃を為した恐るべき弓取りは、ビルの屋上に立っていた。
今も手元が霞んで見えるほどの速度で矢を番えている。同時に3本。あの速度で、しかも同時に複数本の矢を操れるとなれば、あの異様な連射にも説明がつくというものだ。
だが何にせよもう遅い。弓の間合いは既に、ゴマの遥か後方だ。
ヒレを固め、拳を形作る。あらゆる敵を打ち砕いてきた必勝の鉄槌。
距離が詰まっていく。高速道路の上空を通過し、扇状にばら撒かれた12本の矢をくぐり抜けて。
敵が弓を手放す。代わって、腰に佩いた刀の柄へと腕を伸ばす。何もかも今さらだ。一撃で殺す。
腕を振り被る。
「天誅」
あるべき手応えは無く、ゴマの右ヒレが根元から吹き飛んだ。
驚愕に目を見開くゴマを、迎撃したけもの―――老いたシャチが冷ややかに見つめている。
右ヒレがビルの屋上にぼとりと落ち、残った方も数秒遅れてアスファルトへ叩きつけられた。
「ヌゥーッ……!!」
「お初にお目にかかる。
―――七星の最強種、『星斬』。
星団斬りの鬼神。阿修羅神刀流開祖。零子刀『ヤルルカーン』の担い手。
剣聖、阿修羅神刀斎鯱光。
「
神刀斎は神妙な面持ちで一度だけ血振るいし、居合術にて抜き放った愛刀を鞘に収めた。
続けて、先刻放った弓を悠々と拾い上げ、背中へと掛ける。刀を仕舞って空いた右手には、傍に立てかけてあった長槍を握る。
ゴマへの追撃は無かった。片
「ど……ドーモ、シャチミツ=サン。アリュゾホート・マグサリナス・ゴマ=ゴマフです。ケッ、言ってくれるじゃねーの。道理であんな激しい攻撃なのに殺気が読めなかったはずだ。最強種ならもう少し骨のある気配がするもんだけど、実力を見誤った」
「我らは『意』の極意、と呼びます。拳法にせよ武器術にせよ、あるいは商売にせよ賭博にせよ……あらゆるけものの営みは、動作に先んじて『意識』を生ずるものに御座います。然らば、敵の意を読み、或いは此方の意を欺くことが叶えば、先手を取るも後手を討つも一切自在という寸法にて」
「覚えとくよ。ところで」
ようやく息を整えたらしいゴマが、少しばかり身をよじった。
右半身を落として腰溜めの構え。奇妙だった。何故なら、ゴマは右ヒレを失っている。いくら規格外の超進化生命体でも、存在しない右腕を振るうことは出来ない。
「そいつは……こういうやり方で合ってるかな!!」
否―――違う。そんなことはない。あざらしに既知の常識は通用しない。
神刀斎の思考がわずかな逡巡から復帰する直前、分離したゴマの右ヒレが独りでに虚空を走り、大きな弧を描いて彼を打ち据えた。
拳の周囲に浮かび上がる陽炎の範囲の広さは、そのまま込められた魔力の大きさを示している。老シャチの年齢不相応に絞り込まれた肉体が容易く宙を舞い、さっきまでゴマの居た高速道路へと弾き出される。
重量があり、関節の可動域を制限する数々の武具と甲冑で装っていても、鍛え上げられた侍の身体の頑強さと柔軟性は損なわれない。
柔術の受け技で落着の衝撃を殺し、即座に起き上がった神刀斎は見た。確かに切り飛ばしたはずのゴマの右ヒレとその断面が、まるでビデオの逆再生のようにあっさりと接合されていく様子を。
「
「ぬ……これが、ゴマ=ゴマフの練氣闘法……!! 何たる御業かッ」
「ハハハ! んじゃ、いっちょ
右ヒレの修復を完了したゴマが、再び空を駆ける。
砲弾じみた突進、一瞬で神刀斎の下へと到達したゴマが尻尾を振るう。鉄製の鋼線で出来た鞭を思わせる、半ば斬撃にも似たしなやかで力強い一撃。
神刀斎は十字槍を両手で握り込み、素早く刺突を返す。1.5秒間に3回、これもまた機関銃を思わせる速攻だった。
放出する魔力量をさらに高めたゴマの尾は槍の穂先にも切り裂かれはしなかったが、3箇所への突きによって狙いを外され、神刀斎の眼前のアスファルトを砕くに留まった。淀みなく尾を引き戻したゴマと、油断なく次の攻防を見据える神刀斎の視線が交錯する。
3度突き、2度払い、ゴマは全て避けて弾いて無効化する。6段目の踏み込みを追い越して、ゴマの拳が神刀斎の鳩尾を打つ。
浅い。己の踏み込みよりも先にゴマの拳打が届くのを見越して、攻撃のためではなくダメージを地面に逃がすように腰の使い方を変えた。
膨大な鍛錬と戦闘経験の結実。先の先、読みの極致である。神刀斎の身体はもはや機械じみた精妙さで、あらゆる攻撃に対し自動で最適な防衛反応を実行する。銀河最強の剣聖は、荷電粒子砲から放たれる亜光速の熱線でさえ――彼自身の主観において――発射の瞬間を見た後からでも回避することが出来る。
が、ゴマは懐に潜っている。神刀斎が槍の間合いを取り返すには後ろへ跳ぶしかないが、防御のための重い足捌きを選択した今、ゴマが次の一撃を繰り出す方が早い。
仕掛ける。左のアッパー。神刀斎の顎先に突き刺さる―――寸前で、跳ね上がる左手に阻まれた。
スナップの利いた、捻るような、しかし最低限の動作。ゴマの視界が空転する。
「ごまっ!?」
「合気にて
その術理は一般的な体格のけものを想定している故に、二手二足から大きく外れた姿のゴマには不完全にしか機能しなかったが、致命の鉄拳から神刀斎を防御するには充分以上の効果を示した。
地面に投げ落とされたわけではない。まだ中空で姿勢を崩しただけだ。ゴマは諦めず攻勢を続けるが、神刀斎もまた、ゴマに対する理解を深めつつあった。
先刻は合気道の技を用いたが、神刀斎はそれ以外にも
直接に徒手空拳を交わし、神刀斎はゴマの呼吸を吸収していった。体格のために普通の投げと絞めが真っ当に通じないゴマだが、残された拳と足の応酬の末、神刀斎はついに決定的な一打を見舞うことに成功した。
距離が開いた。しかし槍の間合いではなく、神刀斎もクロスレンジで手放した十字槍を回収しようとはしていない。
然して、神刀斎の右手が次に選んだのは。
「相済まぬ」
「は?」
佩刀の反対、右側に差された火縄銃が抜き放たれると同時に、ゴマの左肩と右目に激痛が走った。右腕の大仰な動作を隠れ蓑に、左手で2本のクナイを投げつけていたのだ。
当然、右の銃も飾りではない。また、外見こそ古めかしい火縄式小銃だが、それは敵手の油断を誘うため――本来はただの、神刀斎の感傷に過ぎなかったとしても――装われた欺瞞に過ぎない。その銃口から吐き出されるのは、分厚い鉄板すら穿つ対戦車用徹甲弾である。
閃いた砲火は狙い過たずゴマを捉え、闘気の防壁を貫いて左胸を抉った。その威力はあざらしのもふもふを以てしても表皮で食い止めるには至らず、内側の肉を破壊して背中へと抜ける。
超進化生命体・あざらしの細胞は、脅威的な分裂速度とそれに見合う超攻撃的な代謝要求を有する。
よってあざらしの、ゴマ=ゴマフの再生力であれば五体や外部器官の欠損程度は大したダメージにはなり得ないのだが、それでも痛打は痛打である。
ゴマはふらふらと起き上がった。片手に火縄銃を、もう片手に新たに持ち替えた
「……ふ……っ、へへ」
「―――何が可笑しい」
「見えた。わかったよ、あんたは『意』なんて操れちゃいない。最初の弓術で僕を仕留め切れなかったのは、単純に殺す気が無かったからだ。殺意を隠してたんじゃなくて、そもそも殺意が無かったんだ」
「戯言を……」
「自分でも気づいてない? そんなに難しい話かな」
ゴマは左胸の貫通孔の応急修理を終え、魔力を練り直して静かに宙へ浮いた。右目の再生はまだしばらくかかるだろうし、ハッタリのために外見だけ優先して治したに過ぎないが、神刀斎には悟られていない。
神刀斎の銃を握る力が増す。殺意を手繰る腕が震える。ゴマの再生力は想像以上だった。もっと速く、着実に殺し切らなくてはならない。次はどうする。銃、弓、槍。まだ見せていない暗器もいくつかある。殺さねば、あれを。あのあざらしを。でなければ。
―――――でなければ?
「当ててやろうか。あんた、怖がってるだろ」
「……!?」
「ま、何を怖がってるのかは知らないよ。実は殺しが嫌いだとか……もしくは逆に、イケナイことであるはずの殺しが楽しくて堪らなくて、そんな自分の本性が怖いとか……ありきたりなのはその辺かな。もしくは」
銃口の震えはどんどん大きくなる。反対に、頭の芯はすっと冷えていく。
剣の達人として無念無想をこそ是とする阿修羅神刀斎鯱光の精神に今、この数十年で最大の波紋が現れつつあった。
「……あぁ、うん、そうだな。これが一番しっくり来る。あんたさ……要するに、斬りたいけど殺したくはないんだろ、僕のこと」
「黙れ!! 世迷言を……敵は斬る! あざらしは殺す!
「剣術が好きで、強くなって成り上がるのが好きで、命の奪い合いが好きで好きで仕方ない。根っからの侍、根っからの修羅だ。けれど、あんたは強すぎた……。殺意なんて抱くまでもない。ほんの戯れ程度でみんな死んでいく。刀を封じて弱くなってみても同じだった。あんたにとって他者の命は脆すぎる。たまに多少デキる奴が居ても、本気を出したら壊しちまうから、程々のところで妥協してる」
「黙れえぇぇぇッ―――!!」
ほとんど絶叫して、神刀斎は引き金を弾いた。
こんな精神状態の時ですら、老いた武人の狙いは正確だった。徐々に回復しつつあるゴマには脅威とはならず、闘気の拳にてあえなく防がれてしまったが、もしも彼が棒立ちであったなら脳と心臓をそれぞれ射抜いていたはずだ。
「違う!! 儂は……そ、
「あぁそうだよ。だから、ナメてんじゃねぇぞクソジジイ」
―――雷が落ちた。
魔力を空間に固定して圧縮、臨界させ弾け飛ばす大熱波だ。弁を弄して時間を稼いだ甲斐はあった。現在の体力であれば、このレベルの魔術の行使にも耐えられる。
だがそれ以上に、今のゴマを動かしているのは―――海のギャングにして頂点捕食者、あのシャチ氏族の長へと、あざらしである自分が挑戦しているというのに、その相手に侮られているという屈辱。生態系の位階を書き換えんとするこの一大決戦の折に、己が天敵はまだ自分が本気を出すまでもないと思っているという、筆舌に尽くし難い失望であっただろう。
「僕は弱いか? あざらしは弱いか? 違うだろう、負けたんだろうお前たちは! 僕らは強いぞ、最強だ。この僕が相手なんだ本気を出せよ!! あざらしに良いようにされて悔しくないのかよ、僕は悔しいぞ! 僕らをずっとボコボコにして来た海のギャングは、こんなもんだったのかよって!!」
炸裂する雷の火。阿修羅神刀斎鯱光は、無抵抗だった。
甲冑が砕ける。槍が折れる。弓が千切れる。銃が。暗器が。必勝を誓って手に取ったすべてが壊れていく。
「…………殺す価値も無い。神器は貰っていく」
破滅が訪れる。
白皙の体躯、深紅の眼光。おぞましき悪夢、災禍のあざらしが。
"星団斬り"を為した阿修羅神刀斎の愛剣、零子刀『ヤルルカーン』は今、最悪の超進化生命体あざらしによって簒奪されようとしている。
彼は―――――。
「まだじゃ」
引き締まった腕と足が濃灰色の路面を叩き、身体が跳ねて5m近くも浮き上がった。
そしてシャチは事も無げに着地し、たっぷりと10秒以上はかけて顔を上げた。左目には十文字の古傷が刻まれている。
縦に裂かれている方は、ある弟子と立ち会った折に付けられたほんの些細な傷だ。見てくれは派手だがそれだけで、医者によれば痕も消そうと思えば消せるらしい。
横に裂かれている方は、第32次あざらし討伐作戦の折、追い詰めていたはずのある個体から受けた不覚の傷だ。今でこそ自分が残心の構えを怠ったものと解釈しているが、それにしても気骨のあるあざらしだったと、敵ながら感心したことを覚えている。
「まだ死ねぬ。儂との稽古を待っている弟子が居る。生きて帰り、必ず立ち会うと契ったのじゃ」
あの時、あのあざらし。
返しに一太刀浴びせ今度こそ沈黙させたが、死骸を検分する余裕は無かった。まだまだ敵の数は多く、その個体だけに構っている場合ではなかったからだ。
「嗚呼―――決めたぞ。あれは斬る。師としてまだ勝ちは譲れぬなぁ。さすれば次は、あの白熊の若造よ。あれも斬る。シロクマどもは皆殺しじゃ。あの国は儂が貰う」
最後の装備を取り出す。遮智堀守尾所松家の印籠。
この中には、在りし日にかの若き王子より賜った品が格納されている。ライオン王家の秘薬であり、溢れる癒しの魔力があらゆる傷病を消し去り、若返りの効果すら見られるという伝説の薬草だ。
それを煎じて作った丸薬は、下賜されてから20年は経つというのに全く劣化の兆候が無く、その効果が本物であることを証明しているようだった。
「……そしてお主も、儂は斬らねばならぬ。斬らせてくれるな? 猛きあざらしよ」
貪るように丸薬を喰らう。水は無いのでよく噛み砕いて飲まねばならない。
良薬口に苦し、との原則はライオン王家の秘宝と言えどしっかり適用されているらしく、健康的な緑の香りが極限まで圧縮され、大量の苔と腐葉土を一緒に飲み干したかの如き青臭さだ。そのうえ先の熱波ですり切れた口の中の傷に沁みる。
だが、そんなつまらない感覚は一瞬だった。
まず初めに、汗が噴き出た。血液が灼熱し、内臓が獅子舞を演じているようだった。
皮膚が剥がれる。爪が折れる。歯が落ちる。全身の関節がバキバキと音を立て、手足の長さすら変わり始めた。
左目がゆっくりと開く。視界は澄んでいる。
「明るい」
あまりに急激な変化だった。アニマルバースの進化を象徴する超生命体であるゴマですら、丸薬を飲んだ後からの鯱光の変貌に言葉を失った。
「煩い。臭う。空気……舌に風……。何だこれは。どう考えても過剰だ、鬱陶しくて敵わん。こんな環境で生活していたのか、俺は?」
老爺にしては引き締まっていた体躯は――若返ったにも関わらずかえって――年輪の数を増した古樹のように大きく隆起している。
白い豊かな髭は代謝が増してごっそりと抜け落ち、往年の精悍さを取り戻したその容貌は、まさしく北海の覇者に相応しい気迫を湛える。
「だが……そうか。見える、見えるぞ。其方、斯様な面をしておったのだな」
「……もっかい挨拶した方がいい?」
「佳いさ。構わん」
男はその場で幾度か右手の五指を開閉し、身体の調子を確かめるよう首を回すと、凄絶な微笑を浮かべてゴマを見た。大胆不敵にして獰猛無比、それは紛うことなき頂点捕食者の表情である。
深く、深く腰を落とし、左の佩刀の柄に手を添える。ゴマとはそれなりに距離がある。たとえ何らかの剣術的な足捌きで間合いを詰められるにせよ、攻撃の初動は丸見えだ。
―――しかしながら、戦闘の序盤でゴマの右ヒレを落としたあの斬撃は、今と同じ刀の居合抜きだった。
「我が名は
「……ゴマアァァ!!」
「―――――勝ォォ負ッ!!」
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