目指せスローライフ
第26話 またかよ
青い。
どこまでも青い、蒼い空間だった。
ちょっとうんざりした気持ちで、あまりにも何もなく、あまりにも美しい部屋というか、空間を眺める。水面を思わせるきらめきが、今回もゆらゆらと天井で光っていた。
「貴女は本当にわがままです」
背後からわたしは抱きつかれている。
良い声だ。それはもう百人女性がいたら、ほとんどの女が心を蕩けさせるような、甘く、低く、艶のある、それでいてちょっと鼻にかかったような癖のある、さらには粘っこくて吸引力のある、骨盤と尾てい骨にダメージを与えてくるような、そりゃもう色気に満ちた声。
「あの『保護者』は気に入りませんか?」
促すように引っ張られ、わたしは抵抗するのは無駄だとばかりに、体重を預ける。首の角度を変えただけで、あり得ない程に整った男の顔が視界に入ってきた。
確かに、ここならある意味安全だろう、違う意味で危険極まりないだけで。
わたしはなんかもう、どうにでもなれという気持ちで、ラピスラズリのような、壮絶なまでに美しい瞳の持ち主にお姫様抱っこされ運ばれる。目的地はやたらとでかいあのソファーだろう。
「お願いがあるの」
「なんでしょう」
キツムの街に戻りたい。この、訳のわからない腕輪を外して欲しい。自由を制限されたくない。知人の、友達の怪我を直してほしい。
綺麗な、綺麗な顔がわたしを見下ろしてきている。睫毛の生えかたまで完璧だ。髪の毛だってさらつやで、むしってやれたらどれだけ気持ちがいいだろう。本当にこいつは腹立たしい。
こいつが今どんな格好をしているのかを深く考えてはいけない。視界の隅の肩が肌色だとか、つい視線を落としたときの肌色だとか、余計な情報はシャットアウトだ。首から下を見てはいけない。
「そうですね、わたしに口づけをひとつくれたら、ひとつお願い事を叶えてあげましょう。ふたつくれたらふたつです」
どれだけ噛みちぎってやろうかと(略)。
………おそらく数日をわたしはその空間で過ごした。
「その腕輪を外すには、わたしだけの能力では残念ながら不足です。協力者を呼びましょう」
「今さら?」
さんざんもてあそばれ、わたしが耳掻き一杯くらいの分量だけれども世を儚み始めた頃、男はそんなことを言い出した。本当に噛みちぎってやれば良かった。どことは言わないけれど。
まばたきをする間に、わたしは軽やかなワンピース、男は初めて会ったときのような服装になっている。
だだっ広かった空間には、いつの間にやらテーブルと椅子が現れていた。ラムネの瓶みたいな色合いの宝石か何かでできた、しかし重厚な、というかものすごくお高そうなデザインのテーブルの上にはずらりとお菓子にお茶が並べられている。
チューリップに似た、花の形をした可愛らしいティーカップに入っているのは、赤から桃色、オレンジ、黄色、それから赤へと色を変えていく、魔法のような飲み物だ。葉っぱの形のソーサーには、コロンと金平糖が添えられている。レース編みのようなデザインの、淡い青緑の陶器の皿がいくつもあって、盛られているのはいろいろな形のクッキーに、カップケーキ、フィナンシェやマドレーヌ、フルーツタルト、プチケーキ。
宝石を切り出したようなあのお菓子はなんだろう。琥珀糖より澄んでいて、アメ細工よりは柔らかそうだ。綿菓子に似たお菓子はピンポン玉サイズで、風船のように浮いている。ぷるぷるキラキラとした虹色ゼリーに見えるお菓子は、時々固形化してはぽふっと本体と同じ色の、甘い香りの煙を吐き出していた。
「水のから声をかけてくるなんて、珍しいじゃない」
いつからいたのだろう。女の子がいた。
深い飴色の縁に、エメラルドグリーンの布が張られた椅子に、女の子が座っていた。さも当然のようにお菓子を食べている。
信じられないくらいの美少女だ。
「頼みがありまして」
「何かしら?」
声までかわいい。
女の子の髪は艶やかな黒。くりんとした長い睫毛に、くっきりとした二重。瞳は綺麗な茶色で、大きな目はアーモンド形をしている。
肌は滑らかな象牙のよう。唇はくすんだような、落ち着いた赤のリップを塗っているようだ。
一目見て、男と似たような存在だとわかってしまった。人並み外れて美しいだけじゃなく、ものすごい存在感があるのだ。
女の子はほっそりとした指で、優雅にミントグリーンの色をした、コロンとしたまるっこい、猫っぽい生き物の形をしたお菓子を摘まみながら、わたしのほうを見てくる。
「その子が? かわいいわね、確かに」
なんだろう。彼らの間でわたしが話題に上がるようなことがあったのだろうか。女の子は同じお菓子の、今度は葡萄色をぱくりと口に放り込む。
「………撫でても平気かしら? 撫でてみたいわ」
「どうでしょうね、わたしにもまだ、あまり懐いてくれていないんです」
ひょい、とわたしは男に抱き上げられる。わたしは幼児じゃないんだぞ、と言いたいが、いかんせんこいつはそもそも人間じゃない。いや、神様なのか悪魔かなのかもわからないけれど、確実に人間でないことは間違いない。
もしも相手がイーサンさんやエルレウムさん、ドミニクさんやケイレブ辺りだったら、きっと重いし恥ずかしいしそういうのはやめて、になるところだけれど、こいつ相手だとわたしは猫じゃないんだぞ、になってくる。
そのまま男は女の子の正面の席、空いていた椅子に座る。わたしはこいつにお膝抱っこの状態だ。
………さて、普通の感性で答えて欲しい。いきなり、親でも恋人でもない相手にそんなことをされたら、普通の女性はどう思うのかを。
「ちょっと、放してよ!」
そう、気持ち悪い。例えどれだけ美麗な男性であってもだ。
当然、わたしは暴れた。それを見た美少女が、微笑ましげに頬を緩めたのにちょっと、イラッとした。美少女だったら何でも許されるって訳じゃないんだぞ!
「あら。本当に懐いてないのね。そんなに存在を流しているのに」
「うむ。わたしは男性体で、これは大人だったからな。存在を流し込むのはそこまで難しくなかったよ」
今回は来客があったからだろう。
男の腕から逃れるのは簡単だった。でも、経験上、この場所自体から逃げられるものではない、とわかっているので、わたしは最後に残った椅子に腰かける。
見たこともないお菓子の数々に興味があったからというのも、ちょっとくらいはあったりなかったり実はあったりするけど。
「人間て、わたくしたちが触れれば触れるだけ、溢れた分で若返っちゃうでしょう? うちの子は若い子を連れてきたからかしら。まだ抱き締めてもいないのに、もう幼児になっちゃったわ。ねぇ、水の。若返りを止めるのにはどうしたらいいの? このままじゃうちのは赤ちゃんになっちゃうわ」
美少女はよほど、コロンとしたお菓子を気に入っているらしい。今度はピンク色のを摘まんでいる。というかものすごい食べている。どれだけ食べるつもりなんだろう。
「そこは存在を固めるんですよ。百年はこのままになってしまいますが、問題無いでしょう。どうせその前に寿命が来ます。その前に繁殖が上手くいけばいいのですが」
「あら、繁殖させるつもりなの?」
わたしは刻々と色を変えていくカップの中身を一口飲んでみる。香りの良いほうじ茶の味がした。
飲んだ分だけ減る筈の中身は、減る様子がない。美少女が際限なく食べているお菓子も、減る様子がない。
テーブルにティーポットがない理由がわかった気がする。
「ええ。自分の人間に子供が出来たら可愛いんじゃないかと思いまして。ただ、わたしの見つけた相手が気に入らないようで。困ったものです」
「この世界、どうせそこらじゅう人間だらけなんだもの。自由に相手を選ばせてあげれば?」
「………できるだけ、毛並みの良い相手をあてがいたいのです」
二人が話しているのはわたしのことなんだろう。けれど、内容はさっぱりだ(と思っていたい)。 わかってしまったことを、わかりたくない。
後で教えてもらい、解決してもらうためにわたしは何回の衣装替えを要求され、何回謎のポージングをさせられ、何回膝抱っこと添い寝を要求されるのだろう。もうやだこんな、犬猫みたいな扱い。
………そっか。ペットなんだ。
人が、ペットを抱き締めて、匂いを嗅いで、撫でて、頬擦りをして、服を着せて、可愛がる。食べ物を手のひらから与え、爪を整え体を洗い、住まいを用意し、場合によっては、繁殖相手を見繕う。
この男が行うことのほとんどは、人間が愛玩動物に対して行うことに似ている。そりゃ、神様だかなんだかよくわからない、ずいぶん高位な存在からしたら、人間なんて動物の一種でしかないだろう。
なんだかとても、空しくて、悲しくて、悔しくて、腹が立った。
高位存在らしいふたりはそれからも『人間の飼い方』について意見を交わしていた。わたしはたまに頭を撫でられたりしつつ、美味しいのにあまり味を感じないお菓子をもそもそと食べていた。
わたしがケイレブにつけられた、誘拐婚用の腕輪はここにいる美少女が作ったものらしい。彼女の手から受け取ったお菓子をいくつか食べることを対価に、腕輪は外された。わたしの心がやさぐれたのは間違いない。
どうせ、何かの質問をすれば、何かを対価に要求される。わたしは人間なので、耳の裏の匂いを嗅がれることにとても抵抗がある。これ以上はやめていただきたい。
わたしはひたすらお菓子を食べつつ、静かにふたりの会話に耳を傾けた。
会話の中でわたしが若返った原因はこの男にあること、わたしが何かしらの、フェロモンらしきものを発していることを理解した。なるほど、心当たりはある。
そしてわたしの若返りは見た目だけのことらしい。この若さのまま、年を重ねれば、寿命の頃になれば人間らしく、普通に死ぬようだ。
長生きにならなかったことを喜ぶべきか、嘆くべきかはわからない。ただ、知り合いが全員死に絶えて、それでも一人、生きていくのは辛そうだ。
………そして、男はペットの飼い主らしく、わたしの子孫の繁殖というか、繁栄を望んでいると。
厄介なことに、キツムの街にモンスターを溢れさせ、ケイレブとわたしを再会させたのもコイツらしい。本来の『導き手』として用意されていたのはケイレブだったのだ。
男の望みからわたしの行動があまりにもかけはなれると、修正のためにまたモンスターが街を蹂躙しかねない。とても怖い。どうにかならないものだろうか。ならないだろうな。いっそのこと、山奥にでも引きこもれないだろうか。
「でも、あんまり行動を強制したら、人間て簡単に弱っちゃうらしいじゃないの。ためしに十年くらい、その人間を自由にさせてご覧なさいよ。一人や二人、子どもを産むかもしれないわ」
わたしが世を儚んでいるといきなり、美少女がそんなことを言い出した。
十年。
十年あれば、さすがにわたしだって結婚したい相手に会える気がする。今なら美少女の手から直接クッキーを食べられる気がする。
「十年あれば、わたしだって好きな相手を見つけられそうな気がする………!」
言葉に出すのは重要だ。わたしは両手を組んで、おねだりのポーズで男を見上げた。全世界共通のおねだりポーズよ、是非に伝われ。
「弱るのは困ります………いいでしょう、しばらく自由にさせてみましょう」
「や………った………っ!」
わたしは歓喜した。
まばたきの間に、本来いるべきだったであろう、日本的アパートの一室にわたしは立っていた。窓からはケイレブの屋敷にある、わたしの部屋が見えていた。
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