第14話 それはある日、唐突に

 今日も今日とて出勤中。


 昨日の雨はすっかり止んで、絵に描いたような、気持ちの良い青空が広がっている。昨日の雨で、花壇の花はとても瑞々しい。水滴はまだ残っているし、土は湿っているし、とても良い雨上がりの風景だ。


 帰りは三人で歩く道を、行きは一人で歩くことが増えた。ジネブラよりも、女の子たちの管理も手伝うことの多いわたしのほうが、どうしても家を出るのは早くなってしまう。


 近いし、明るい時間帯は親子連れなんかも普通に出歩いている道なので、身の危険を感じたことはない。今日もいつもの空き地で、幼い子供たちが走り回り、数人の大人が見守っている様子が伺えた。ああして交代で子供を預かり、その間にお母さんたちは用事を済ませているらしい。


 ふと、何かに違和感を覚えて、わたしは立ち止まった。


 「なんだろう………?」


 けれど、その違和感が何なのか、よくわからない。

 気を取り直して、わたしはいつも通り『大鷲亭』に向かうことにする。歩きながら、違和感の原因を探そうとしてみる。


 天気………空は普通。変わったものが浮いていたりなんかもしない。気温も普段とそんなに変わらない。どこかだけ不自然に温かいとか、どこかだけ冷たいとかもないと思う。

 全体的に今日はちょっと暖かい気温のような気がするけれど、寒い日があれば、暖かい日があるのは当然だ。


 風はない。人の動き………も、いつも通りな気がする。変わった人だとか、不審な人だとかも見当たらない。


 じゃあ、なんなのだろう。


 少し早足で『大鷲亭』の裏口に着き、妙な胸騒ぎに不安を抱きながら、わたしは早く中に入ろうと鍵を取り出す。


 その時、誰かが遠くで逃げろと叫ぶのが聞こえた。


 わたしはそちらに向かって目を凝らす。遠くで、悲鳴が上がっていた。違う方向からは、けたたましく鳴りだした鐘の音。それから、低い地鳴りのような音。どのみち、正面玄関からでないと見ることは難しかっただろう。


「………地震?」


 震度にしたら、きっと大したことはない。ただ、このあたりに地震てあるのだろうか、という疑問はある。地震が多発するのなら、石造りの家ってどうなんだろう。そんなことを思いながら、わたしは扉を開いた。


 目の前に、槍を構えたイーサンさんがいた。


 ひっ、と息を飲んだのは、わたしだ。


 だって、イーサンさんがとても怖い。

 もともとガタイがいいし、区分するなら強面グループに分類される顔のイーサンさんだけれど、そういう怖さとは何かが違った。

 殺気って、こういうことなのかと頭のどこかでぼんやり思う。息が苦しくなって、しゃがみこんでしまいたい。

 槍の先端はギラギラと光るようで、武器というものの圧を、わたしは生まれて初めて知った。


「………ソフィーか」


 はぁ、と息を吐いたイーサンさんは、もう、いつも通りのイーサンさんだった。手を貸してもらってなんとか立ち上がれたのは良いけれど、足はまだ震えているし、なんだかめまいがする。きっと、これって、お上品な淑女であれば気を失うところだったのかもしれない。しかしどっこい、わたしは案外図太かったようだ。


「施錠してくれ。二階に上がろう」

「うん………はい」


 地鳴りはまだ、続いている。頼りになりそうな背中が目の前にある。


「イーサンさん、何があったのか、知ってる?」

「魔物の暴走らしい」


 事務所を通りすぎて、イーサンさんに連れられてプライベートエリアに向かう。生活感のない、どちらかといえば妙に洗練された部屋はこの前一度入ったばかりだ。まだ見慣れない。違う意味でも落ち着かない。


 「………魔物」


 わたしは見たことがないけれど、どうやら『大鷲亭』で食肉として扱っているものの一部は魔物の肉らしい。いたんだ、本当に、魔物。


 わたしには、あまりピンと来ない生き物だ。そんな生き物がいたなんて、まだ本当は信じられないでいる。


「でも、あんなに高い塀があったよね?」


 高いだけで、あの塀は薄いのだろうか。上に展望台があるのだから、そんなに薄っぺらく造られてはいないはずだ。塀って、そんなに簡単に破られてしまうものなのだろうか。もろすぎやしないか?


「門に勤めている知り合いからさっき、鳥が飛んできた。門が破られそうだと」


 あーそりゃ仕方ないわー、とか、

 魔物ってモンスターだよね? とか、

 ここにいれば平気なのかな? 避難所とかあるのかな?とか、

 少なくともここにいれば、しばらく食料には困らなさそうだ、とか、

 あーそういや最近使ってなかったから存在忘れてたけどあの袋があればなんとかなるんじゃない? とか、


「ジネブラ………エマさんも家にいるのに………」


 ジネヴラだけじゃない。そろそろ出勤時間で、他のみんなは大丈夫なのか、とか、

 イーサンさんはもしかして強いのかな説、とか、ただの地震ならよかったのに、とか、ここにいれば安心なんじゃないかな、とか、恐怖、不安、気分の悪さ、こんな世界にいきなり連れてこられた怒り、知り合いといられることの多少の安心、


 それはもう、いろいろな事が頭の中を駆け巡る。


 あ、《袋》、家だ。

 取りに帰らないと、と思った時のことだった。

 どぉん、ごぉん、ととにかく大きな音がした。建物が揺れている。


「ついにこの辺まで来ちまったか」


 イーサンさんが舌打ちして、槍を手に持つ。もしかしてこの部屋まで、来るのだろうか、魔物が。魔物って、ゲームなんかだと、勇者にはなんてことなくても村人その一みたいな存在にはものすごい脅威だったりしていなかっただろうか。


 ………待ってよ。

 あたし、ここで、死にたくない。


 バキバキ、とか、メリメリ、とかどぉん、とか、とにかくいろんな音があちらこちらからした。足元が崩れる。二階が崩されて、それってつまり、建物が崩壊したに違いない。


「ソフィー!」


 イーサンさんがわたしに手を伸ばすのが見えた。

 次に瓦礫、それから、黄緑と紫がまだらになった牛、巨大なネズミ。衝撃があって、あとはもうわからなくなった。痛いんだか、痛くないんだかもわからないし、どうやったら立ち上がれるのかもわからないし、どんどんと体にぶつかってくる、生臭かったり、獣臭かったり、ぬるっとしていたり、ざらざらしているものが何かもわからない。


 もう、いやだ。


「走れ!!」


 ぐいっと強く手を引かれた。訳がわからないまま、いや、魔物が波のように押し寄せて『大鷲亭』の建物が倒壊したらしいとはうっすら把握してたんだけど、知らない人に手を引かれ、わたしは走って、走って、気がついたときには馬車に乗っていた。


 当然、その馬車に知ってる人なんて、一人も乗っていなかった。

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