第10話 嵐のような一日と、その翌日と

 実は、モリーさんをはじめとする、一部の給仕係は閉店までホールに残っていない。スカートが短い組は特殊接待の都合で抜けていくし、家庭の都合で遅い時間まで働けないという人だっている。

 この辺りはお客さんたちもわかってくれているようで、従業員が少なくなると自分でカウンターに向かったり、大人しくホール係が来るのを待ったりしてくれる。お客さんに負担をかけているようで、なんとなく問題がある気はしているけれど『大鷲亭』のホールはこのやり方でそれなりに上手く回っている。

 子供を寝かしつけないといけないモリーさんが帰った後も、わたしはブラムくんと二人でひたすら食材を洗ったり、切ったりしていた。


「少し、落ち着いてきたかな」


 厨房は相変わらず忙しそうだけれど、さっきまでとはなんとなく、空気が違う。 たぶん山場は過ぎたのだろうとわたしは包丁を置いた。


「そうみたいっスね。切るのはこのくらいまでにしときましょっか」


 言いながら、ブラムくんは食材を保管庫のほうに入れる準備を始めている。保管庫は厨房の地下にあり、広さは厨房の半分くらいだろうか。魔法的な仕組みと、地下という天然的な要素を使った冷蔵庫だ。冷凍庫までは、さすがにない。


「カウンター見てくるね」

「はい、ありがとうございました、ソフィーさん」


 カウンターに行く前に、わたしは通りすがりに寄っていく風を装いつつ、イーサンさんの所に向かう。イーサンさんはまだ調理場にいた。太い首や腕には一目でわかるくらい、すごい料の汗が浮いている。顔はこまめに拭いているのだろう、そこまでではなかったけれど。


 調理係の人数分、わたしはコップに水を汲んで、配って回った。最後にイーサンさんの隣に立つ。


 イーサンさんの肩にかけてあったタオルを取り上げ、汗を拭いてあげながら、わたしは水の入ったコップを差し出した。こんなに汗をかくなんて、熱中症が心配になってくる。

 本当は砂糖とお塩も入れておきたいところだけれど、体調が悪くないのに変わった味の飲み物を素直に受け入れてくれるかどうかはわからない。


「お疲れさまです」

「ああ、ありがとう。ソフィーのお陰で食材が足りなくならなくて済んだらしいな。………さすがにそろそろホールは落ち着いてきたか」


 わたしたちは調理場にある小窓越しに、ホールのほうを伺う。調理場はそもそもやかましい場所なので、あちらの騒がしさはわからない。ずらりと並んだ料理の保温器は、残りの少ないものがちらほらとあった。ジネヴラの、ちょっと暇そうにしている後ろ姿が見えた。


「そんな感じですね」

「売り上げが楽しみだ」


 にやっと笑う顔はまるで、くまさんが牙を向いてるみたいだった。対面にいた調理係の顔がひきつっている。確かになんとも凶悪な笑顔ではある。けれど、近頃イーサンさんをくまさんフィルター越しに見てしまうわたしにとっては、無邪気でかわいい笑顔だった。


「わたしが勝手に料金改定しちゃったから、そんなに期待しないほうがいいですよ。モリーさんとジネヴラには手当てもつける約束をしてます。調理場担当にも色をつけてあげないと」

「あ、そうだったな」


 うっかりしてた、という顔をしたイーサンさんの背中をわたしは軽く叩く。背中もかなり、汗ばんでいた。調理場自体をそこまで暑いとわたしは感じていなかったから、これは火の近くでとても忙しくしていたからだろう。


 ザッと鍋が振られる。とても良い香りのする肉と根菜の炒めものが、手際よく保温用の容器に移された。ほわほわ湯気が立っていて、やたらと色気のある艶が美味しそうだ。

 そこからほんの少しだけを小皿に取ると、イーサンさんはわたしに渡してくれる。


「ん」

「味見なら、鍋の中にいるときにしたほうがよかったんじゃないですか?」


 容器に移してからじゃ、味の調整は難しいだろうに。カトラリーを取りに行くのがめんどくさかったので、指先でつまんで美味しくいただいてしまう。楕円形で白っぽい色をした根菜は下茹でしてあるので、固すぎず、柔らかすぎずの加減がちょうどいい。お肉はぷりぷりで、期待どおりにとてもおいしかった。


「俺が料理で失敗するかよ」

「そんなこと言ってると、いつか失敗しても知らないよ?」


 お行儀悪いとは知りつつも、指についたソースまで舐めとってしまう。本当なら小皿に残ったソースも綺麗に舐めてしまいたいくらいだけれど、そこまではさすがに、成人女性としてやっちゃならんと洗い場に持って行ってそっと置く。ついでに手を洗った。


 振り返ると、フォークを片手にイーサンさんがわたしを見ていた。どうやらわたしはフォークを待てない系せっかちさんだったらしい。 あ、とは思ったけれど、無かったことにしてわたしはイーサンさんの手にあったフォークを置き場にそっと戻す。わたしは手掴みでお行儀悪く料理を食べたりなんてしていない。とても今、口の中に幸せの余韻を残しているけれど、決してそんなことはしていない。


「お金の管理だって、他人に全部を任せてると、損しますよ」

「信頼してる」


 だろうな、とわたしはにんまりしてしまう。裏口の鍵、あんな大金の入った金庫。イーサンさんはなぜか、わたしを疑ったりはしない。


「わかりました。こんど、売上まるっと貰っておきます」

「は、酷ぇ」


 軽口を交わしながら、今度はドリンクをひとつ作る。赤くて甘い、ほんの少しだけアルコールの入ったそれを持って、カウンターにいるジネブラの所に向かう。


「お疲れ様。これどうぞ」

「ありがと、ソフィー。………ね、今日の売り上げ、きっとすごいよ」


 カウンターからはホールが見渡せる。調理場からは見えないけれど、もう全席が埋まっているわけじゃなかった。


 お客さんの何人かが手を振ってきたので、軽く振り返しておく。その中にはあのカホトの人もいた。

 その時何が盛り上がったのか、違う方向から、怒声とも歓声ともつかない声が沸き上がった。酔っぱらい独特のあのうざいノリだろう。接客商売、接客商売、と呟いて、笑顔は絶やさないようにしておく。笑顔のままうるさくなったそちらを見たら、大したことではなかったのだろう、すぐに静かになった。


「わたしがここで働くようになってから、こんなに忙しいのは初めてだね」


 カウンターには三人くらいまでは入れる。今のうち、簡単に伝票をまとめてしまおうと手を伸ばした。今からこれを持って事務所に行ってもいいんだけど、ジネヴラの隣で済ませてしまってもいいだろう。


「なんかね、迷宮で新しいボスが見つかったんだって」

「………迷宮?」


 新しいボス? それに、迷路じゃなくて、迷宮?

 なに、そのゲームみたいな単語。脱出ゲームだろうか。


「そう。西の迷宮だったかしら」


 わたしは取ったばかりの伝票を一旦置いた。こそこそっとジネブラの耳に囁いてみる。


「もしかして………この世界って『魔物』とか『迷宮』とか『魔法』とか、もしかして『魔王』みたいなのがいたりするの?」

「いるよ?」


 何言ってるの、みたいな顔をされた。

 もしかして、あの、街をぐるっと囲む塀は、対人ではなく、対魔物用だったのだろうか。魔法っぽい道具が日常に溢れているので、なんとなくファンタジーの世界っぽいとは思っていたけれど、本当に剣と魔法の世界だったなんて。


「わたし、一生街を出ない………」


 頭を抱えたわたしに向かって、ジネヴラは笑っている。


「そうね、その方がいいかも。街を出るときは護衛がいないと誰だって怖いものよ」


 その日はそのままいつも通りに閉店作業をし、相変わらずやって来たエルレウムさんに送られてわたしたちは帰宅した。


 翌朝もまた、わたしは早めに出勤していた。

 昨日はあちこちの数字を勝手にいろいろ変えてしまった。あのままでは、イーサンさんが帳簿をつけるときにきっと困るだろう。


 鍵を使って裏口から中に入る。

 厨房では、上半身裸のイーサンさんがフライパンを振っていた。たぶん、朝ごはんでも作っていたのだろう。


「おはようございます」


 ………なかなか立派な胸筋をしている。腹筋は間違いなく割れている事を確信した。こっからじゃ角度的に見えないけれど。なるほどあれが上腕二頭筋。太もも筋も何かそれっぽい言い方があるのだろうか。なかなか、見事な足である。


 そして、イーサンさんはものすごく驚いた顔で固まっている。料理、焦げたりしないのだろうか。


「………ふ、服ぅっ!」


 ガンっと音を立ててフライパンが置かれ、イーサンさんは階段を駆け上がっていった。早かった。


「そうしてきてください」


 わたしは残されたフライパンの中身が焦げてはならないと、火を消して、フライパンは火が着いていなかったほうのコンロに置いておく。わたしがコンロと読んでいるこれが、この世界でなんと呼ばれるものか知らないと今気がついた。あとでジネヴラに教えてもらおう。


 さすがに、パンツ一枚は………ちょっと………。火傷的な心配が……。


 見上げた階段の上からはものすごく大きな音がしていた。棚とか倒していないといいんだけど。

 一応わたしだって配慮はする。コーヒーを入れて、のんびりいただきながらそのまま調理場の片隅で待ってあげた。


 しばらくしてから服を着て、階段を下りてきたイーサンさんの顔がなんだか赤い。顔は怖いけど、きっと心は乙女なんだろう。


 料理を運ぶのを手伝い、二人で事務所に向かった。パンツ一枚で料理はしても、厨房では食事をしない主義らしいと知った。


「………その、今日はもっと遅い出勤じゃなかったか?」

「お料理の値段とか、人件費とか、昨日のあれこれをいろいろ引き継がないと困ると思って」

「………そうか」


 それから、普通に事務をした。

 もう、かなりの部分の仕事は済んでしまっていたらしい。一応メモは残していたので、それでなんとかしてしまったようだ。有能なのかいい加減なのかまでは知らない。それがわかるほど、わたしはそこまで有能じゃない。


 二人で仕事をすれば、当然終わるのは早い。


 いつもより早くに事務仕事が終わり、開店準備が始まるまで中途半端な時間が空いた。早く来る人たちだって、まだ出勤しては来ない時間帯だろう。新しく飲み物を用意して、わたしはだらだらと過ごすことにする。娯楽小説の一冊くらい、わたしだって既に持ち込み済みだ。


「ソフィー」

「なんですか?」


 そろそろ、マリーが来るだろうか。ちょっと眠たくなってきた。あっちのソファーで寝てちゃダメだろうか。


「明日から、事務に専念しないか? お前が副店長ってことで、どうだ。どうせこの階の部屋は空いてる。もしもソフィーが良ければ、専用の部屋を用意する」


 ジネブラが結婚したら、それもいいかもしれない。

 ジネブラが結婚するのがいつなのか知らないけれど、家ではエマさんがジネブラの婚礼衣装を縫っている。


 ジネヴラの結婚に合わせてというか、それも準備の一環というかなんというか、ジネブラのお母さんのエマさんも近々、結婚する。相手は住んでいる家の大家さん。穏やかで、優しい人だ。


 エマさんがあの部屋から居なくなって、ジネブラも居なくなる。空いた部屋には他の街にいたお兄さんが家族ごと住むことになっている。


 その時、わたしはどうしよう?


 このままでは、エルレウムさんに同居を持ちかけられてしまう。奴ならきっとする。そして、日本と違って、ここで女の独り暮らしは無用心な気がする。未だに部屋は見つからないし、独り暮らしは却下だ。でも、信頼できる同居相手なんて、簡単に見つかるものじゃない。


 イーサンさんて、若返る前のわたしと同世代だと思う。本人にはっきり聞いたことはないけれど、そんな感じに解釈できるような世間話を以前、調理場で誰かとしていた。そしてわたしにとってはジネヴラとエマさんの次くらいに気安い相手だ。エルレウムさんは、わたしにとっては若すぎる。


 わたしはこの辺りの人間からすると、二十歳前後に見えているらしい。きっとイーサンさんとわたしはかなり歳が離れていると認識されていることだろう。逆に、見た目のお年頃だけでいうならエルレウムさんとわたしは釣り合ってしまう。

 しかしわたしは見た目が若返っただけの三十六歳。わたし目線で考えれば全くもってなんの問題もない話だ。


「………そうですね。ジネヴラが結婚するときは、お願いします」


 返事がない。


 なんだよ、一生懸命考えたのに、とイーサンさんを見たらなぜか頭を抱えていた。誘ったのはそちらでしょうに。


「まさか、からかってました?」

「………いや、本気だったけどこんなにすんなり頷かれるとは考えてなかった。事務は頼むぞ副店長」

「副店長になるのはジネヴラが結婚してからです」


 そうこうしているうち、リィン、と鈴が鳴る。

 追加注文の書かれた注文書を持って、わたしは階下に降りていった。


「おは………あれ、ソフィーさん!?」


 裏口にいたのは、昨日も来ていたエドモントさん。


「今日は早出の日じゃないですよね?」


 言いながら、エドモントさんはわたしに伝票を渡し、荷物を運んでくれる。


「昨日のお仕事の片付けみたいなものかな」

「ああ、昨日はカホトの皆さんたちがあちこちで大騒ぎだったらしいですね」

「うん。そうなの。追加発注かけるから、今日中に届けられるものだけでも持ってきてくれたら助かるな」


 エドモントさんの先回りをして、保管庫の扉をわたしは開く。保管庫の中はほとんどすっからかんに近い。このままでは、早めの閉店で対応しないといけなくなるかもしれないくらいだ。


「こんなにすっからかんじゃ、困りますもんね」

「ま、保管庫内の掃除が出来たし、いいんだけどね」

「前向きですね」

「でしょ」


 そんな話をした。それから、事務所に戻ってくつろいでいたら、掃除当番の子たちや、ブラムくんにも驚かれた。二日に一回は早く出勤して事務所にいるんだから、そんなに珍しがらなくてもいいじゃないか。













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