第2話 その日は朝から暑かった 1
……とても、とても暑い日だったことをよく覚えている。
近頃は仕事が本当に忙しくて、深夜に帰宅しては、朝五時台に家を出るような状態が続いていた。
睡眠不足、積み重なる疲労。なんだか踏切がとてもやかましい。昨日は仕事を早く切り上げられたものの、中途採用された新入社員の歓迎会だった。二日酔いの頭にこのけたたましさはきつい。いっそのこと、堂々と遅刻宣言をしておけばよかった。
六時前なのだから、早朝と言ってもいいだろう。だというのに、バス停までの道のりでは蝉がやかましく鳴いている。まだまだ涼しくいてくれたっていい時間だろうに、外はもう汗ばむような気温だ。今日は特に意識して水分補給をしないとまずい、という予感がひしひしとしている。
先で何かあったのか、道はやたらと混んでいる。バスの中はさすがにエアコンが効いていて、心地よく涼しい。あまりの快適さにまぶたが落ちそうだ。
電車は混まないといいな、駅から会社まで走ったらまた滝汗だろうな。いっそのことシャワーを浴びてしまいたい。シャワーといえばプールに行きたい、海よりはプールのほうがわたしは好きだ。
景色がゆっくりと動き出したところだった。この調子じゃ、どのみち遅刻は確定だろう。始業時間には相当早いのだけれど、それでも遅刻扱いになるこの状況ってブラックが過ぎやしないだろうか。そろそろ、開き直って誰かに連絡を入れたほうがいいかもしれない。
そんな時だった。
乗客のひとり、まさにわたしの隣に立っていた女が、日傘を片手に奇声のような叫びをあげ始めた。なんとか聞き取れる範囲で判断するのなら、彼女はどうやら、渋滞に焦れたらしい。運転手に文句を言ったところで、この渋滞がどうにかなる訳じゃないと思う。
ああ、いやだな、変な人がいるな、怖いな、やっぱり今日は堂々と遅刻するべきだったんだ。
バスの中、なんとか距離を置けないものかと首を回したところで、横道から猛スピードでこちらに向かって走る黒い、大きな影が見えた。一瞬だったっていうのに、ハンドルに突っ伏した運転手まではっきりと認識してしまった。
息を飲んで、まばたきをひとつ。
なぜだかわたしは深い、深い海の底のような空間にいた。
わたしは驚きすぎて何も、反応らしい反応ができなかった。ここはどこだろう。ただ、辺りを見回すので精一杯だ。
テレビでも水族館でも、もうこうなったらポスターだって構わない。南国の、澄んだ海の底。そこを、悠々と大きな魚が泳ぐ姿を見たことがあるだろうか。
ずっと上で、水面がきらめいている。射し込む光は風に吹かれたカーテンのように揺れ、チラチラと時折眩しく輝く。ずいぶん遠くまで見えるような澄んだ、静かな、そして青い、どこまでも青い世界。青だか、蒼だか、碧だかはわからないけれど、ひとつの色をしていて、ひとつの色はしていない、静かな世界。
わたしはいつの間にか、やたらと安定のよい椅子に深く座っていた。とても美しい男性の形をした人形がある。わたしと同じような椅子に座らされていた。そういえば、いつの間にやら二日酔いの頭痛はよくなっていた。
それにしても、よくできている。
インターネットなどで、美しいお人形……ドール、などと言うのだったか。そういうものを画面上で見たことがある。大きいものもあるらしいとまではなんとなく知っていたけれど、まさか、人間サイズのものまであるとは知らなかった。実物を目にするのは初めてだ。本当によくできている。
作り物だから当然、キメやシミ、毛穴なんてものは存在しない。いやあるのもあるかもしれないけれど、目の前の『ドール』にそんなものはなかった。
長く、さらさらとしていそうな、うらやましいほどの美髪はつやつやと輝いていて、とても柔らかそうだ。絹糸のような髪、の見本はこれなのだろう。
柳眉とはこういうものを指すのだろう。通った鼻筋、完璧な形の、けれど少し薄めの唇。きわにほくろがあるのがまた色っぽいというか、リアリティがあるというか。あ、光の角度で見えちゃったよ、うぶ毛。すごいな今時のお人形って、うぶ毛まで再現されているのか。
そして、宝石を濡らしたような、透き通った輝きを持つ瑠璃色の瞳。命を感じずにはいられない。今にも瞬きをしそうに完璧に美しい『ドール』を作り上げた、どこかの誰かさんの努力やら労力やらに感動する。
「はぁ……すごい……」
今の技術というものは、こんなに美しく、精巧な人形を可能としたものか。美の理想形がここにある。
「何が、どうすごいのでしょう?」
わーぉ。しゃべったよ。
いや。
わーぉとか言ってる場合じゃない。
恥ずかしい。
何が恥ずかしいって、てっきり作り物だと思っていたから、すごい勢いで観察してしまっていた。ものすごく前のめりだった。失礼にも程がある。
「いえ、えーと、こんな、海の中みたいなお部屋って、すごいなぁ……と思いまして」
誤魔化せただろうか。
下手な誤魔化しだとは自分でもわかっている。スルーして欲しい。察してください。お願い、ここは無かったことにするのが優しさというものだと理解していただきたい。
あまりの気まずさに視線をずらした。とたんに青が目から侵食してくる。自分が青い色に染まっていくような錯覚。
………でも、実際、ここはどういった部屋なのだろう。青、蒼、碧、どの文字が相応しいのだろう。
ここは海を押し退けてできたような空間じゃないかと、そんなあり得ないことを考えてしまう。
だって、壁のようなものや、柱のようなものが一切見当たらないのだ。そしてずいぶん広い。しかも耳がおかしくなりそうなくらいに静かだ。
どのくらい広いのだろう。どうやって天井や壁を支える構造なのだろう。ドーム的に空気で支えているのだろうか。
「そうでしたか」
わたしの答えにふわり、と目の前の人物は微笑んだ。花咲くような笑みとはよく言ったものだ。………微笑みの威力が半端ない。息が止まるかとヒヤヒヤした。
「実は、貴女にお詫びを申し上げねばならないことがありまして、それで貴女をここにお連れしました」
彼は、………ここまで美しいと彼女か彼か、判別する自信はないけれど、女性にしては指とか頬とか骨ばっているし、声だって低い。だからきっと男性なのだろうと判断する。これで女性だったらごめんなさい。欧米にそういうお顔立ちの女性いるよね、雑誌のモデルさんで見たことあるわ。
「お詫び?」
はい、と男性は神妙な顔でうなずいてみせる。
お詫びだなんて、一体何を言い出すんだ。わたしは一体何をされてしまったのだろうか。
さらり、と肩から長い髪が滑る様子もやはり、芸術品のようだ。これだけ美しく生まれて育てば、あれこれそりゃもう、いろんなことが有利に違いない。羨ましい。化粧品はやっぱり高級なんでしょうか。こういう人に限って、笑いながら『特別なことはなにもしてない』とか言い出すんだ。
「実は、私の手違いにより、地球における貴女の存在がつい先ほど消滅してしまいまして」
「………………はい?」
何を言われたのかわからない。
さっぱりわからない。
「いえ、ですから、銀河という世界の、地球という星に存在していた、貴女という人間が、たった今、跡形もなく消えてしまったのです」
いい声だ。声までイケメンだ。表情の作り方までイケメンだ。イケメンって変顔させてもイケメンって聞いたことがあるけど、きっとこういう人がそうなんだろう。本当にイケメン。美しい。美麗だ。存在がもはや罪レベルの美しさといってもいいだろう。
………で、この人は一体、何を言っているのか。冗談にも程があるってものだろう。
わたしは自分の手足を確認した。首に触れれば脈もある。わたしはしっかり、ここにいる。
わたしはここにいて、わたしには産まれてから今日までの、三十六年という年月がある。記憶がある。
それこそ、幼稚園から今日まで、わたしにはたくさんのことがあり、いろいろな人々と関わってきた。……だというのに、そんな、わたしの存在がある日突然消えてなくなるなんてこと、あるのだろうか?
存在がある日突然消える、というのは話のネタにはありがちだ。けれど、わたしがしていた仕事は引き継ぎなしでいきなり他人ができるものではない。会社の社員名簿、在籍していた大学の記録、住民票、戸籍。どんな権限で、どれだけの手間をかければそれらを消せるというのか。それに、顧客や同僚はともかくとして、友人や家族に残る記憶や、記録の全てをだなんて、絶対消せるものじゃない。
……つまり、わたし、もしかして、
「わたし、死んじゃったってこと?」
死因はもしかして過労死? いや、事故死? それともまさか、あの傘で刺された? なにかの病気? いやいやわたしは五体満足なかたちでここにいる。死んでない死んでない。今抱えている仕事はどうしよう。あ、冷蔵庫の中のプリンの消費期限、今日までだった。
「今の設定ですと、貴女は地球にはもともと存在していないので……死んでいないと言いますか……産まれていない、という状況です」
さらりと長い髪を片耳にかけながら、男性は困ったように笑う。耳の形まで整っているとか嫌味だろうか。耳の穴に指とか棒状スナック菓子とか突っ込んでやろうか。
いや、笑い事じゃないよね!? 冗談にしちゃたちが悪いよね!?どんなドッキリよ!?ていうかこれ、誘拐されてない? そもそも拉致されてない? ここ、どこよ!?
「えっと、まったく、さっぱり、おっしゃられている意味がわからないんですけど、これだけは確認させてください。………わたし、帰れるんですよね?」
とりあえず、いちおう、聞くだけは聞いてみる。髪を片耳にかけていたその指が、そのまま滑らかな頬を撫で、おとがいをつまむような形で止まる。おとがいって言葉、今初めて使った。
謝罪を述べられているんだったら、目の前のイケメンに悪意はなく、善意の人と信じてみたい。
「わたし、元の場所に戻れるんですよね?」
沈黙。
え? なに、この沈黙。
「元の生活に、家に、わたし、これから帰らせてもらえるんですよね?」
男性の美しい眉がひそめられている。やばい、さすが美形。ちょっと罪作りな美しさだ。写真撮りたい。
「申し訳ありませんが、難しいです。代わりと言ってはなんですが、どこか、似た異世界に貴女をお送りすることでしたら可能ではないかと。……そうですね、貴女が無事に生活できるよう、補助できるような人物のところにお送りしましょう。あとは……何か……私からお詫びとして、何か特別な贈り物をひとつ差し上げましょうか」
いや、良いこと言ったぞみたいなキメ顔されましても。今、めちゃくちゃわたしの存在がかかった話の最中だから。
「そんなことより、わたしを家に帰らせてください」
だいたい、違う異世界ってなんだ。そもそも『異世界』に違うも同じもあるのだろうか。同情するなら家に帰らせて欲しい。仕事、そう、会社に連絡を取らないと。
………そうか!異世界ってセレブか。セレブ界か。それとも梨園的な芸能界的なやつか。結局セレブ界じゃないか。それとも政界か。やっぱりセレブ界じゃないか。
そんなところにわたしは行く気なんて毛頭ない。過労気味のちょっとしんどい毎日だったけれど、わたしの日常はそんなに悪いもんじゃなかった。やりがいがあったし、職場の人間関係だって悪くなかった。あんなでも仕事は楽しかったんだ。
「ですから、それは………元の世界はもう、無理なのです。申し訳ありませんが諦めてください」
『どっきり』かもしれない。ふとそんなことを思う。こんないきなり突然ひょっこり、異世界だなんて物語のような話が出てくるのはおかしい。どこかにカメラがあって、モニターの向こうで誰かが笑っているんでしょう?
そうだ、そうに決まってる。きっと、友達だとか、上司だとかが戸惑うわたしを見て、腹を抱えて笑ってるんだ。
わたしはどこかにあるに違いない壁を、カメラを、出口を求めて走り出した。
カメラさえ見つけられれば、こんなたちの悪い冗談は終わる筈だ。カメラさえ見つけられれば。そう、ここはきっと、よくできたセットだ。あの社長のことだ。きっと遊び心を大暴走させて、どこかからこういう部屋を見つけてきたに違いない。モニター料金として手当てはバッチリつけて貰おう。でなければ大学卒業以来会えていない誰かだろうか。それとも………きっと、どこかに、どこかで、誰かがわたしのことを見ているに違いない。
「……ですから、諦めろと言ったのに」
息が切れ、ついにへたりこんだわたしを愉快そうに見下ろしているのは、先程の男性だ。
ここは常識の及ばない変な場所だと、それだけをわたしはやっと理解した。どれだけ走っても、跳ねても、あばれたところで、わたしは一歩分の距離さえ移動できなかった。
「……それとも、このままここで消滅しますか?」
なんと表現したらいいのかわからない。
その時、美しい男性の目が妖しく光ったように見えた。それでわたしはやっと、この人も普通の人間でないと察したのだ。
この頃にはなんとなくだけれど、これが『どっきり』なんかじゃないのだと、そちらも理解しはじめていた。
わたしはきっと、もとの日常には帰れない。家に帰れないだけじゃなくて、友達にも会えない。今夜のドラマを見ることは永遠に無いのだろう。最終回がどうなるのかだけでも知りたかった。今わたしが関わっているプロジェクト、上手くいけばいいな。
………わたしが消えてしまったとして、お父さんもお母さんも、誰も悲しまないらしいことだけは救いだけれど、わたしを誰も覚えていないなんて、それはあまりにも寂しい。
「私に可能なことは、貴女を地球と似た世界の、似た生き物が暮らす惑星に送り届けることだけですからね」
喉が熱い。泣きそうだ。こんな初対面の人の前で泣くのは嫌だから、わたしは意識して深呼吸した。
「それとも」
手が伸びてきて、わたしの頬に触れた。
「ここで私と暮らしますか?」
男性らしい大きな手は、わたしと同じ体温があった。
「私は貴女を、この空間の生物として受け入れることもできる」
低すぎもなく、高いわけでもなく、耳に心地よい甘い声。触れられているのは頬だけなのに、背筋を撫で上げられているような錯覚に陥る。
妖しく光る目に吸い込まれそうだ。
どこまでも整った笑顔は芸術品のようで、わたしの思考を鈍らせる。
作り物めいた造形の、けれど強い生命力を感じさせるとても、とても美しい生き物。ここは、得体のしれない空間。
「それって、今小説で流行りの『異世界転生』……?」
「いえ、この場合は『転移』になりますね」
以外と突っ込みは早かった。
冷静になれ、わたし。
思考を働かせろ。
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