アフターエピソード 『母の温もり』

 潮の香りが心地良い。


 目を閉じて、耳を澄ませる。


 その時、ガタンと船が揺れた。


「きゃっ」


 そばに居た小柄な彼女の体が揺らぐ。


「おっと」


 俺はとっさに彼女を支えた。


「ひより、大丈夫か?」


「あ、はい。秀次さん、ありがとうございます」


 そう言う彼女を見て、俺は微笑む。


『潮の影響で船体が揺れてしまいました。誠に申し訳ございません』


 船上のアナウンスが流れる。


「あ、ひより。見えて来たよ」


 船が進む先には、島があった。


 俺たちの目的の場所。


 そこに居るのは――



『探偵?』


『そうそう』


 とある日。


 俺とひよりは、久しぶりに光と彩香と食事を楽しんでいた。


『まあ、自分で言うのもなんだけど、俺ってスターじゃん?』


 光は言う。


『そうだな』


 俺は苦笑しながら頷く。


『まあ、みんなに愛されている訳だけど。中には行き過ぎた人も居てさ。トラブルになりかける時もあるんだよ。そういった時は、基本的には警察を呼ぶんだろうけど。どうしても、大きな組織だと小回りが利かないからさ。そう言った時に頼りになるのが、探偵だよ』


『へぇ~、スターは苦労するな』


『まあな』


『秀次、あまり調子に乗らせないでちょうだい』


 彩香が言う。


『この男の右腕に、球団の未来が掛かっているんだから』


『そういえば、彩香は光が所属する球団の職員になったんだよな』


『うん。ほら、あの時、みんなで宴会したでしょ? それで、また野球熱に火が点いちゃってね~』


 彩香は少しいたずらな笑顔を浮かべる。


『光も、敏腕な彩香がチームに入ってくれて、助かっている感じか?』


『まあ、そうだね。彩香は仕事の評判も良いし。けど……』


『けど、何よ?』


『いや、チームメイトがみんな、彩香の話題で夢中だから。おっぱいに夢中で試合に負けたとか、情けないだろ』


『大丈夫。その時は、私がしごいてあげるから』


『たぶん、彩香は監督やコーチよりも怖いよ』


 光は楽しそうに笑って言う。


『ああ、ごめん。話が逸れたね……で、ひよりちゃんはどうかな?』


 光に目を向けられて、ひよりは少し戸惑う。


『探偵を雇うって、ちょっと抵抗あるかな? あ、料金なら心配しないで。友人価格で安くしてもらうから』


『あ、あの……その探偵さんに頼めば、私の……お母さんに会えますか?』


 ひよりは切実な瞳で訴えかける。


 俺はそっと、彼女の背中に触れた。


『きっと、会えるよ。な、秀次?』


『ああ』


 俺が頷くと、ひよりはホッとしたように微笑んだ。




「……さて、上陸っと」


 俺たちは船から降りた。


「ひより、疲れてないか?」


「はい、秀次さん。大丈夫です」


 ひよりはニコリと微笑む。


「じゃあ、行こうか」


 俺が手を差し出すと、彼女は照れくさそうに手をつないでくれた。




      ◇




 一軒の花屋がある。


 初夏の日差しを浴びて、優しく輝いて見える。


 少し遠めにその店を眺めながら、ひよりは立ち止まった。


 俺は黙って、彼女を待つ。


「……行きましょう」


「うん」


 俺はひよりと共に歩いて行く。


 花屋の前にやって来た。


「きれいだな」


 色とりどりの花を見て、俺は言う。


「本当ですね」


 ひよりもまた、感慨深げに言う。


 その時、


「あら、いらっしゃいませ」


 奥の方からパタパタと音がした。


「すみません、奥の方で作業をしていましたので」


 小柄で愛想の良い、美人な女性がやって来た。


 エプロン姿がよく似合っている。


「あっ……」


 ひよりは口から気の抜けた声を漏らす。


 黙ったまま、花屋の女性を見つめる。


「えっ……」


 彼女もまた、ひよりを見た。


 その目が、次第に大きく広がる。


「……ひより?」


 小さく震える声で、呼んだ。


「……お母さん」


 ひよりも声を、肩を震わせて、彼女の下に歩み寄る。


「ひより……!」


 花屋の女性は、ひよりを抱き締めた。


「ひより……本当にひよりなの?」


「うん……そうだよ」


 久しぶりに再会した温もりに包まれて、ひよりは涙をこぼした。




      ◇




「お母さん、紹介するね。この人が私の夫の、秀次さんです」


「初めまして、松尾秀次です」


「まあまあ、素敵な相手を見つけたのね」


 ひよりのお母さんは言う。


「私、嬉しいわ。そんなこと言う資格は無いかもしれないけど……」


 目元に浮かんだ涙を、ハンカチで拭う。


「ひよりには、辛い思いをさせちゃって……まだ小さいあなたを置いて、私は逃げてしまったのだから」


 涙ながらにひよりのお母さんが語ったこと。


 当時、ひよりの実父、安藤仁太の女グセがひどかった。


 他にも色々とダラしなかったせいで、離婚することになった。


 ひよりのお母さんは、ひよりを引き取りたかった。


 けど、体がさほど丈夫ではなく、経済力にも乏しい。


 何より、夫に散々な目に遭わされたせいで、精神的に参っていた。


 一刻も早く逃げたかった。


 だから、何もかも放棄して、愛する愛娘さえも残して、一人で逃げ出した。


 そして、色々と巡って、この島にたどり着いたのだそうだ。


「お母さん……」


 ひよりは母の話を聞いてから、少し迷って、これまでの自分の境遇を話した。


 ひよりのお母さんは大分ショックを受けて、また泣き出してしまう。


 けど、今は俺がそばに居ますと、力強く言ってあげると、涙も収まった。


「秀次さん、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、ひよりは……救われました」


「俺こそ感謝しています。こんな素敵なひよりと出会えて、結ばれて。そして、こんな素敵なひよりを産んでくれたお義母さんにも、感謝します」


 俺が微笑んで言うと、お義母さんはまた泣いてしまう。


 ひよりは微笑みながら、お母さんを見守っていた。


「おーい、詩織しおりさーん!」


 すると、店先から声がする。


「あ、お客さんかな? 私が代わりに出ようか?」


 ひよりが言うけど、


「ううん、違うの」


 そして、足音がこちらにやって来る。


「おや? お客さんかな?」


 やって来たのは、メガネをかけた優しそうな男性だ。


「あ、まことさん。お帰りなさい」


 お義母さんは言う。


「ん? あれ、こちらのお嬢さんは何か……」


「あのね、娘なの」


「もしかして……ひよりちゃん?」


 男性はメガネの奥で目を丸くする。


「あ、はい。松尾ひよりと申します」


「いやいや、会えて嬉しいよ。僕は詩織さん……君のお母さんの夫である、竹村誠たけむらまことです」


「えっ……えぇ!? お母さん、結婚していたの?」


「うん、そうなの」


 お義母さんは照れくさそうに言う。


「私が前の夫と別れて色々と悩んでこの島に来た時、誠さんが営むこの花屋で働かせてもらってね。それで、誠さんの優しさに触れて……結婚したの」


「あはは、恐縮です。島のみんなには大分からかわれましたよ。こんなべっぴんさんを囲って、嫌らしい男だって」


「そんなことないわ。誠さんはいつだってその名に恥じぬ誠実な人で……素敵よ」


「詩織さん……」


 二人は見つめ合う。


「……って、娘さんたちが見ているから!」


「あはは、そうね」


「うふふ、お母さんってば、ラブラブね」


「それは、ひより達だってそうでしょ?」


「あ、申し遅れました。松尾秀次、ひよりの夫です」


「あ、これは、どうも、どうも」


 と、お互いに少し照れ臭いやり取りがあった。




      ◇




 この晩は、竹村さんのお宅にお邪魔することになった。


「いや~、今日は良い日だなぁ。まさか、詩織さんの愛娘に会えて、おまけにその娘さんにこんな素敵な旦那さんがいるなんて」


「それはこっちも同じですよ」


 ひよりは微笑みながら、誠さんにお酌をする。


「お、ありがとう」


「じゃあ、私は秀次くんに」


「あ、どうもです」


 俺はお義母さんにお酌をしてもらう。


「ところで、ひよりちゃんと秀次くんは、結婚して何年目なんだい?」


「3年目です」


「良いね~」


「お母さんたちはどうなの?」


「私たちは……まだ10年は経ってないくらいかしらね。誠さんが、奥手だから」


「し、詩織さん……」


「うふふ、本当に仲良し」


「それは、ひより達もでしょ? ねえ、子供は?」


「あ、えっと……まだなの。お母さんたちは?」


「私はもう歳でおばさんだから。誠さんと二人で、静かに老後を送れたらそれで良いわ」


「いやいや、詩織さんはまだ若いよ」


「やだもう、誠さんったら」


 と、仲睦まじい二人の様子を見て、ひよりは本当に嬉しそうだった。


 俺もまた、ビールを飲みながら、そんな幸せな光景に酔いしれていた。




      ◇




 二つ並ぶ布団に寝ていた。


「ひより、来て良かったな」


「はい。私、秀次さんをお母さんに紹介出来て、本当に嬉しいです」


 俺たちは見つめ合う。


「なあ、ひより。もっとお母さんに、親孝行したいよな?」


「あ、秀次さん……」


「ひよりはきっと、素敵なお母さんになるから……」


「秀次さんこそ、素敵なお父さんになりますよ……」


 お互いに手を繋ぎ、体を寄せ合う。


 至近距離で見つめ合うと、キスをした。


「お義母さんたちに聞えちゃうかな?」


「その時は……仕方ありません」


「今日のひよりは、大胆だね」


「だ、だって……嬉しいことが重なって……興奮しているから」


「俺もだよ」


「えぇ?」


「ひより、可愛いよ」


「秀次さん……あっ」


 俺は、強く優しく、ひよりを抱き締めた。




      ◇




 翌朝。


「おはようございます」


「おはよう」


 俺たちがリビングにやって来ると、既にお義母さんと誠さんがいた。


「あっ、お、おはよう」


 お義母さんがぎこちなく言う。


「どうしたの、お母さん?」


「いや、その……やっぱり、二人とも若いのね。私たちも、影響を受けそうだったわ」


「し、詩織さん。朝からやめなさい」


「じゃあ、二人が帰ったら、私たちも励んじゃう?」


 そんな風におどけるお義母さんを見て、誠さんはすっかり赤面してしまう。


「えっと、その……何かごめんなさい」


 ひよりもまた、赤面しながら頭を下げる。


「うふふ、良いのよ、気にしないで。秀次くんもね?」


「お、お母さん! やめてよ~……」


「あはは……ありがとうございます」


 何とも気恥ずかしく、照れ臭く、幸せな朝なのだろう。


 俺は心の底から、そう思った。







 fin







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コンビニバイト仲間の女子が辛い境遇だったので俺の所に来いと言って同居したら嫁力が素晴らしかった 三葉 空 @mitsuba_sora

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