34 安藤家

 その日の天気は快晴だった。


 だから、少し憂鬱な目的に対しても、あまり躊躇することなく一歩を踏み出せそうだ。


「ひより、大丈夫か?」


 俺はとなりを歩く彼女に声をかける。


「はい、大丈夫です」


 ひよりは俺を見て、ニコッと微笑む。


「安心しろ、俺がそばに居るからな」


「ひ、秀次さん……ありがとうございます」


 そして、俺とひよりはついに、その家の前にたどり着く。


 表札には『安藤』と記されている。


 俺はひよりに目配せをすると、チャイムを鳴らす。


 しばらく、その場で待っていると、玄関ドアが開いた。


「……ちっ」


 開口一番、舌打ちをされた。


「よっ、安藤マリナ。来てやったぜ」


 俺はあえて、不敵に笑いながらそう言ってやった。


 すると、意外と効果てきめんだったようで、安藤マリナは頬を歪める。


「ウッザ……ていうか、フルネームで呼ぶなし」


「でも、お前のことを名前で呼びたくないし」


「はぁ~!? いきなり超ムカツクんですけど~!?」


 俺と安藤マリナが言い合うとなりで、ひよりが小さくワタワタとする。


「――こら、マリナ。あまり失礼なことを言うもんじゃないぞ」


 すると、男性の声がした。


 目を向けると、廊下の方から恰幅の良い男性がやって来た。


「あ、徹おじさん……」


 ひよりが声を漏らす。


「いやいや、うちのバカ娘がすまないね」


「はぁ? ちょっと、パパ。こいつらの肩を持つの?」


「お前は少し黙っていろ。えっと……松尾秀次くん、だよね?」


「ええ、お邪魔します」


「それから、ひよりも久しぶりだな」


「お、お久しぶりです」


 ひよりは小さく頭を下げた。


「まあ、こんな所で立ち話もなんだから、入ってくれ」


 ひよりのお義父さんに招かれ、俺たちは安藤家に足を踏み入れた。


 そして、リビングに通される。


 俺とひよりがお義父さんと向かい合う形で座り、安藤マリナは不機嫌そうにソファーでふんぞり返っていた。


「おい、マリナ。お客さんの前で失礼だろうが」


「はぁ? ていうか、パパ。今日はやけに張り切って父親ぶってない? いつもはもっと、私にヘコヘコしているくせに」


「ヘ、ヘコヘコなんてしてないぞ!」


 お義父さんは声を張り上げて、それから俺たちを見て、コホンと咳払いをする。


「すまないね」


「いえ。あ、これお土産です。つまらない物ですが」


「おお、すまんね」


「それで、話というのは……」


「ああ、君たちを招いた理由だけどね。まずは、ひよりの件だ」


 お義父さんは言う。


「マリナから聞いたが……私たちが知らぬ間に、アパートを出て、松尾くんの所で一緒に暮らしているそうだね?」


「はい。勝手を承知の上で、そうさせていただきました。あのアパートは、とても花の女子大生が暮らす所では無かったので」


「出た、またそれ」


 安藤マリナが言う。


「おい、マリナ。いちいち横やりを入れるな」


「パパ、うざ」


 どこまでも不遜な態度を崩さない安藤マリナにお義父さんは苛立つ顔を見せるが、また俺たちに笑顔を向けた。


「まあ、それについては少し問題だと思うが……結果として、良かったと思っているよ。ひよりも、何だか元気になったみたいだしな」


 お義父さんは笑顔で言う。


「ええ、そうですね。この家に居た頃は、随分と辛い思いをしていたみたいですから。俺と同居を始めた当初は、そのことを思い出して泣いてばかりでしたよ?」


「うぐっ……そ、それは……すまない」


「まあその主な原因は、きっとこちらの安藤マリナさんのせいでしょうけど」


「はぁ!? ちょっと、秀次! あんた調子に乗らないでよ!」


「お前に秀次なんて呼ばれる筋合いないって、言っただろうが」


「この~……どこまでもムカツク~……」


 立ち上がった安藤マリナが、俺に詰め寄ろうとするが、


「やめろ、マリナ。松尾くんは素晴らしい男なんだぞ」


 お義父さんが言う。


「ちっ」


 安藤マリナは舌打ちをして座り直す。


「松尾くん、実は私は野球が好きでね」


「あ、そうなんですか?」


「ああ。だから、君と高杉くんの黄金バッテリーのことも知っていた。あの決勝戦は痺れたよ~」


「まあ、負けちゃいましたけどね」


「いやいや、最後の最後であの男気ストレート勝負は……っと、すまん。つい、熱がね」


「いえ」


 野球の話題を出されたせいか、俺も少しだけ心が緩んだ。


「だから、何て言うか、その……嬉しかったんだ。ひよりの彼氏が、君だと聞いて」


「なるほど、そうだったんですか……」


「松尾くん、どうして野球をやめてしまったんだい? 君はプロからもスカウトされていたんだろ?」


「ええ、まあ……やはり、あの甲子園を超えるモノは、今後の野球人生で無いと思ったので」


「そうか……」


「だから、次は平凡でも温かい家庭を作ることが夢だと思って……そんな時に、ひよりと出会ったんです」


「秀次さん……」


 俺とひよりは見つめ合って、小さく手を繋いだ。


「ふん、バカみたい。そのままプロになっていれば、今頃もっとお金持ちになっていたのにね~。高杉くんみたいに」


 安藤マリナが嫌味ったらしく言う。


「ていうか、高杉くん紹介してよ」


「は? 誰がお前みたいなクソビッチに親友を紹介するかよ」


「こ、この……!」


「マリナ、やめろ」


 お義父さんに言われて、安藤マリナは歯噛みをしながら、またドカッとソファーに座り直す。


「コホン……ひより」


 お義父さんが言う。


「あ、はい」


「まあ、その何だ……すまなかったな」


「徹おじさん……」


「私も兄からお前を引き取った時、困り果てたんだ。ただでさえ、マリナみたいなクセの強いワガママ娘がいるのに」


「はぁ?」


「それに、こいつの性格を思えば、絶対にひよりにイジワルをすることは分かっていたのに……けど、施設に入れるのは……」


「世間体が悪い、ですか?」


 俺が言うと、お義父さんは軽く呻いた。


「それはまあ、仕方ないとして……自分でひよりを大学に入れておきながら、仕送りもなく、あんなボロアパートに住まわせるのは……義理とはいえ親として、どうなんですか?」


 俺が問い詰めると、お義父さんは黙ってしまう。


「まあ、しょうがないっしょ。パパ、万年課長だし」


 安藤マリナが言う。


「うるさいぞ! というか、お前も少しは家に金を入れろ」


「やだし~。私の稼いだお金は、ぜんぶ私の物だから」


「このバカ娘が……」


「じゃあ、充希みつきに頼めば良いじゃん。あいつも、結構稼いでるっしょ?」


「ああ、充希は……」


 その時、リビングのドアが開く。


 現れたのは、メガネをかけた細身の青年だった。


「おお、噂をすれば充希。というか、今日はお客さんが来るから、お前もリビングに来いと言っただろうが」


 お義父さんが言うと、彼は眠たそうな目をこちらに向けて、


「あ、ひよりさんだ……と、彼氏さん?」


 彼が言うと、


「あ、充希くん。久しぶり」


「うん、そうだね」


「初めまして。ひよりの彼氏の、松尾秀次です」


「あ、どうも」


 彼はペコリと頭を下げて、冷蔵庫を開けた。


「いや~、すまんね。引きこもりで愛想がないんだよ、あいつは」


 お義父さんが言う。


「えっと……弟さんですか?」


「ああ、そうだよ。おい、充希もこっちに来い」


 彼はコップに牛乳を注いでいた。


 それをコクリと飲んでから、


「あ、ごめん。俺、人見知りだから、ここで良いや」


「はっ、さすがはネクラゲームオタク」


 安藤マリナが馬鹿にするように言った。


「えっと……充希くん。お邪魔して、ごめんね」


 俺が言うと、


「良いですよ。どうせ、この二人が呼んだんですよね? ワガママな二人でごめんなさい」


 充希くんはまたペコリと頭を下げる。


「誰がワガママだ。父親に向って」


「姉に向って、ぶっ殺すわよ」


 そんな風に二人に攻められる充希くんだけど、


「1,000万」


「「は?」」


 ふいに言われた数字に、お義父さんと安藤マリナは目を丸くする。


「まだ確定じゃないけど、今年の俺の年収」


「う、嘘だろ……?」


「ちょっ、あんた、いつの間に……?」


 それまで騒がしかった二人が驚愕に目を丸くして声を漏らす。


「すごいね、充希くん。え、ていうか、年齢と職業は?」


 俺が言う。


「19歳の大学一年生で……プロゲーマーです。この前、たまたま大きな大会で優勝できたんで、毎年のアベレージじゃないですけどね」


「おい、充希。それだけ稼いでいるなら、お前の家に金を入れろ」


「入れているでしょ?」


「もっと入れろ。そうすれば、ひよりにだって、ちゃんと仕送りが出来ただろうに」


 そう言いつつ、お義父さんはチラっとこちらに目配せをした。


「簡単に言わないでよ」


「は?」


「父さんはたかだかお遊びのゲームって思うかもしれないけど、こっちは常に命をかけた真剣勝負なんだ。そして、必死に稼いだお金を……そんな風に軽々しく言わないで欲しいな」


 充希くんの語り口は静かだけど、凄みがにじみ出ていた。


 お義父さんはまた呻いて、押し黙ってしまう。


「でも、そうだね……」


 そう言って、充希くんはリビングから出て行く。


 俺たちが少しポカンとしている間に、また戻って来た。


「一つ聞いても良いですか?」


 充希くんは俺とひよりに目を向けて言う。


「何かな?」


「二人は将来、結婚するんですか?」


 充希君の言葉に、お義父さんと安藤マリナが目を丸くした。


「ああ、そうだね。そのつもりだ」


 俺が答えると、二人はますます目を見開くが、割とどうでも良かった。


「じゃあ、これ。早めのご祝儀ってことで」


 手渡されたのは、厚い封筒だった。


「これは……悪いよ、そんな」


「そんなきれいなものじゃないですけどね。罪滅ぼしの分もありますから」


「えっ?」


 充希くんの目が、ひよりに向けられる。


「ごめん、ひよりさん。あの頃の俺には、このバカ二人を制御するだけの力が無かったから」


「「なっ……」」


「充希くん……」


 ひよりはじっと彼のことを見つめる。


「ああ、そうだ。もう一つ、言っておきたいことがあるんだ」


 そう言って、充希くんは指先で頬をかく。


「まあ、その……ひよりさんが作ってくれたごはん、いつも美味しかったよ」


 彼が言うと、ひよりは目を見開く。


 そして、ポロポロと、涙がこぼれた。


「あ、ごめん。泣かせた……」


「いや、これは……良い涙だよ」


 俺はひよりの頭を撫でながら言う。


「そうですか……」


 充希くんは、軽くそっぽを向いた。


「ていうか、姉さんは謝ったの?」


「はぁ?」


「一番の戦犯なんだから、謝りなよ」


「な、何で私が……」


「ていうか、姉さん。その性悪っぷりが露呈して、炎上してちょっと仕事が減っているでしょ? もう少し、謙虚になったら?」


「うぐぐっ……!」


 安藤マリナは、まるでお義父さんと同じように呻き、


「…………ちっ、ごめんなさい」


「舌打ちするな」


 弟に強めに言われて、軽くビクッとした。


「ごめんなさい……」


 また舌打ちしたい衝動を堪える様に、安藤マリナは歯噛みをしていた。


「まあ、性根が腐った姉さんだから、心底反省はしてないと思うけど。とりあえず、これで手打ちってことで良いですか?」


「十分だよ。ありがとう、充希くん」


 俺が笑って言うと、彼はまたそっぽを向いた。


 心なしか、その頬が赤らんで見えた。


「……はぁ、ゲームしよ」


 そう言って、ゆっくりした歩調でリビングから出て行った。


「……コ、コホン。まあ、そんな訳で、松尾くん。これからも、ひよりをよろしく」


 お義父さんが少しぎこちなくも、笑いながら言った。


「はい、ありがとうございます」


 俺は深めに頭を下げた。


「秀次? あんたがひよりと結婚するなら、私は姉になるのよ? だから、あまり偉そうな口を……」


「ていうか、お前ダサかったな~」


「はぁ!?」


「それに比べて、充希くんは良い奴だった。今度、キャッチボールしたいな」


「おお、それは良い。あいつ、小さい頃は野球少年だったからな。私の勧めで」


「え、そうなんですか?」


「ちょっ、あんたら……私を無視するな~!」


 そんな風に、いつの間にか会話が賑やかになる。


 その様子を、ひよりは少し目に涙を浮かべながら、微笑んで見つめていた。







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