19 誓い
目の前に佇む女は、安藤さんを見下すように、ひたすら微笑んでいた。
「お前……」
俺は握り締めた拳を震わせる。
「安藤さんが、どれだけ辛い想いをしたか、分かっているのか?」
すると、安藤マリナはサングラスを取った。
「ていうか、あんた誰よ? もしかして、ひよりの彼氏とか?」
「別にそういう訳じゃないけど……」
「けど?」
安藤マリナは穏やかな口調ながらも、こちらの喉元にナイフを突きつけるような威圧感を放っている。
「……一緒に暮らしている」
俺が言うと、安藤マリナは肩をすくめた。
「なるほどね……あなたが犯人か。ちょっと泳がせておいたら……全く、調子に乗っちゃって。パパが知ったら、また騒ぐわ」
「え?」
「この前、久しぶりに顔でも見てあげようと思って、ひよりのアパートに行ったら……もぬけの殻だったから。大家さんに聞いたら、もう退去したって……ねえ、私たち何も聞いてないんだけど?」
安藤マリナに言われて、けど彼女は黙っている。
「全く、せっかくあんたにふさわしいアパートを選んであげたのにねぇ」
「ふざけるな。花の女子大生が暮らすような場所じゃなかっただろ」
「ハッ、笑わせてくれるわね」
安藤マリナは言う。
「ていうか、勝手にアパートを出て、男の所に転がり込むなんて……さすが、あの男の娘ね……このクソビッチが」
奴が言うと、そばにいた取り巻きの連中が笑う。
「何あれ、ちょっと感じ悪くない?」
「マリナちゃんって、あんな人なの?」
「ていうか、家族って……昨日、ひよりちゃんが私たちに話してくれた……」
サークルのみんなが、小声で囁き合う。
恐らく、安藤マリナの耳にも届いているだろうが、奴は意に介した様子を見せない。
「まあ、良いわ。これ以上、こんな所で無駄話をしていたら、私のきれいな肌が焼けちゃう。モデルだから、気を遣って大変なのよ~」
奴は自分の長い腕を撫でながら言う。
「だから、とりあえず……ひより、いらっしゃい」
「えっ……?」
ようやく、安藤さんが声を発した。
「そんな風に好き勝手されたら、私らも迷惑なのよ。また、あんたにふさわしい住まいを見つけてあげるからさ。今度はちゃんと、ひとりぼっちで暮らすのよ?」
奴がせせら笑って言うと、
「ふざけるな! 安藤ちゃんは、秀次の嫁なんだぞ!」
「そうだ、そうだ!」
修也と伸和が言う。
「はぁ?」
「「うっ……」」
安藤マリナが睨みを利かせると、たじろいだ。
そして、奴の視線は、俺の服の裾をきゅっと握る安藤さんを捉えた。
「……なるほどね」
そして、何やら得心したように頷く。
「ケンヤ、いらっしゃい」
奴が言うと、取り巻きの一人が前に出る。
色黒でガタイの良い男だ。
「な、何だよ。暴力でも振るうつもりか?」
修也が怯えながら言うと、
「アッハハハハ! そんなことしないわよ、バカね~!」
安藤マリナは笑って言う。
「えっと、ひよりの彼氏くん? お名前は?」
「……松尾秀次だ」
「秀次ね。あなた、ケンヤと勝負しなさい」
「は?」
「ビーチフラッグでね」
◇
いつの間にか、俺たちはギャラリーに囲まれていた。
「決着は男らしく、1本勝負で良いわよね?」
砂に旗を立てながら、安藤マリナは言う。
「一つ確認させろ」
「何かしら?」
「この勝負、俺が勝ったら……大人しく引いてくれるんだな?」
「ええ。けど負けたら……ひよりは連れて行くから」
安藤マリナは言う。
「行っておくけど、ケンヤは筋トレが趣味で鍛えまくっているから。あなたもそこそこ、良い体をしているみたいだけど……きっと、負けるわよ?」
「それはどうかな?」
「何ですって?」
「良いから、さっさと始めようか」
俺が言うと、安藤マリナは小さく唇を噛む。
「ムカツク男ね」
そう言って、
「誰か、合図をしてちょうだい」
「あ、じゃあ、俺が」
取り巻きの一人が申し出た。
俺と相手のケンヤという男は、スタートの体勢に入る。
「お前に勝ったら、マリナにご褒美がもらえるからな。絶対に、負けねえよ」
ケンヤが言う。
「そうか」
俺は短くそう答えた。
「では、よーい……始め!」
そして、俺たちは同時に動き出す。
周りで歓声が沸く。
「秀次ぅ! 負けんなぁ!」
「ケンヤ、ぶっちぎれ~!」
俺のとなりで、屈強な体格を持つケンヤが猛スピードでビーチを駆ける。
確かに、身体能力は高いみたいだ。
けど……
「何っ!?」
俺の隣で、ケンヤが叫ぶ。
俺は奴を背後において、ヘッドスライディングしながらフラッグを勝ち取った。
「やったー! 秀次の勝ちだ~!」
サークルのみんなが盛り上がる。
「う、嘘でしょ……?」
安藤マリナが呆然としている。
「ちくしょう、何でだよ……」
ケンヤは悔しそうに砂浜を叩く。
「お前は、足腰が弱いな」
「あ?」
俺が見下ろして言うと、ケンヤが睨み返す。
「おおかた、見栄えの良い腕とか胸の筋肉ばかり鍛えているな? 脚も筋肉があるように見えるけど、結局は走り込みをしてないから、そうなるんだよ」
「テメエ! 調子に乗んな!」
立ち上がったケンヤが、俺に殴りかかる。
周りで悲鳴が飛び交う。
けど、俺は繰り出された拳を、片手で受け止めた。
「何っ!?」
「……遅えよ」
俺はケンヤの足を軽く払って、尻もちを突かせた。
「ぐっ」
奴は俺を睨むが、どこか警戒するようだった。
「あ、あなた、何者なの……?」
安藤マリナがたじろぎながら言う。
俺は奴を見据えた。
「一つ、言っておきたいことがある」
「えっ?」
俺は一度、見守ってくれていた、安藤さんを見た。
彼女に微笑みかけると、また愚かな女に目をやる。
「安藤さんは……」
俺は小さく、唇を噛んだ。
「――ひよりは、お前らのモノじゃねえ!」
その叫び声が、青い空へと吸い込まれて行くようだった。
奴を始め、みんなが目を見開いている。
「また、ひよりを悲しませるような真似をしてみろ……その時は、俺が許さないぞ」
安藤マリナはたじろぐ。
「あ、あなた……」
「俺がひよりを守る……絶対にな」
その場が一瞬、静まり返った。
「……何なのよ、この男は」
安藤マリナは顔をうつむけて、身を震わせる。
「……ケンヤ! いつまでボケっとしてるの! 帰るわよ!」
奴はヒステリックに叫んで、
「お、おい! 待ってくれよ~!」
ケンヤは慌てて立ち上がると、安藤マリナを追って行く。
最後に奴は一度、立ち止まって振り向く。
「松尾秀次……覚えてなさい」
そう言って、安藤マリナは去って行った。
「……ふぅ」
俺は小さくため息を漏らした。
「松尾さん!」
叫び声が聞えた。
安藤さんが俺に抱き付く。
「良かった、松尾さんが無事で……」
「俺は平気だよ。それよりも、安藤さんは大丈夫か?」
「はい、私は平気です」
彼女は涙に濡れた目で俺を見上げながら言う。
「そうか、良かった」
俺は微笑む。
「あの、松尾さん……」
「どうした?」
「さっき、私のことを、ひよりって……」
「あっ……いや、それは……」
俺は目の前で切実に見つめてくれる彼女を見て、
「……もう、ごまかしが効かないな」
小さく笑う。
「安藤さん……いや、ひより」
「は、はい」
「好きだよ、お前のことが……大好きだ」
ものすごく照れくさくて、恥ずかしいけど、俺はハッキリと気持ちを伝えた。
すると、彼女の目に涙が溢れ出す。
「あっ、ご、ごめん。いきなり、俺が変なことを言ったせいで……」
「……ち、違うんです。すごく、嬉しくて」
彼女は言う。
「わ、私も……ずっと、ずっと、好きでした……大好きでした……松尾さん……ううん……秀次さん」
「ひより……」
俺と彼女は見つめ合う。
と、周りの視線がメチャクチャ刺さっていることに気が付く。
「……おい、お前ら。何で泣いているんだよ?」
サークルのみんなは、大いに涙を流していた。
「ひ、ひでづぐぅ~! お前はやっぱり、やる時はやる男だな~!」
「感動ぢだぞ~!」
修也と伸和が鼻声で言う。
「秀次、ひよたん、おめでと~う!」
蛯名も少しだけ涙を浮かべて言うと、
「「「おめでと~!」」」
みんなが声を揃えて言う。
「み、みんな……ハハ、照れるな」
俺が言うと、ひよりもまた、恥ずかしそうに笑う。
「コホン……では、二人とも。誓いのキスを」
蛯名が言う。
「って、おい」
「秀次、もう遠慮する理由はないっしょ?」
蛯名がニコッと笑う。
他のみんなも、俺たちのことを温かく見守るように笑ってくれていた。
「お前ら……」
そして、俺はひよりと見つめ合う。
「ひ、秀次さん……」
そして、彼女はすっと目を閉じた。
その顔が、本当に愛らしくて。
「ひより……」
俺は彼女に、そっと口づけをした。
お互いの柔らかさを確かめる様にして。
それから、ゆっくりと離れる。
「……ひより、ありがとう」
「……私こそ、ありがとうございます……秀次さん」
俺たちは笑い合う。
そして、俺はひよりを抱き締めた。
「さっきの言葉、俺は本気だ。これから何があっても、絶対にお前を守る。だから……俺のそばにいてくれ、ひより」
「はい……秀次さん……大好きです」
それから、また周りが騒がしくなるけど。
俺とひよりは、しばらく二人だけの世界に浸っていた。
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