10 大好きです
コンビニのバイトを終えて帰宅する。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい」
エプロン姿の安藤さんが出迎えてくれる。
俺はつい、硬直してしまう。
「松尾さん、どうしました?」
「あ、ごめん。何でもないよ」
「うふふ。ごはん、もうすぐ出来ますから。それとも、お風呂にします?」
「あ、じゃあ、先に風呂に入ろうかな。汗臭いと、安藤さんも嫌だろうし」
「そんなことないです。私、頑張っている男の人の汗の匂いって、素敵だと思います」
「そ、そっか」
俺はぎこちなく笑いながら、脱衣所へと向かう。
そこで汗ばんだ服をポイポイと脱いで洗濯カゴに入れる。
風呂に入って、シャワーを浴び、髪の毛と体を洗うと、湯船に浸かった。
「はぁ~……」
その心地良さに、つい気の抜けた声を漏らしてしまう。
「……ヤバいな」
俺はある種の危機を覚えていた。
安藤さんとの同居生活を始めるにあたり、俺は密かに一つの決意を抱いていた。
それは、決して彼女に手は出さないということ。
もしそんなことをして、お互いに気まずくなったら。
安藤さんは本当に行く場所を失ってしまう。
前よりも笑ってくれるようになったけど。
それでもまだ、彼女の心の傷は癒えていない。
脆さもある。
だからもう少し、穏やかな日々を送る中で、彼女の心を癒す必要があるんだ。
けど、彼女の心が癒されて、落ち着いた時、俺は……
「……って、俺は何を考えているんだ」
仮にそうなったとしても、俺は彼女に手を出す訳にはいかない。
だって、俺のことを信じて、頼ってくれているんだ。
そんな子に、実は女として見ていて、性欲をチラつかせたら……また心に傷を負わせてしまうかもしれない。
だから、俺は彼女に手出しはしない。
その代わり、そばには居させて欲しい。
彼女が自分の力だけで、強く生きて行けるようになるまでは。
「……でも、あのエプロン姿は……ヤバいだろ」
俺は少しばかり、自信を失っていた。
◇
風呂から上がると。
「おっ」
テーブルの上に、缶ビールとコップ、それから枝豆と冷ややっこが置かれていた。
「安藤さん、これは……」
「あ、お風呂上がりの一杯って、美味しいんですよね? だから、と思って……あっ、余計なお世話でしたか?」
「ううん、そんなことないよ。ありがとう、安藤さん」
「えへへ」
彼女はニコリと笑う。
俺はテーブルの前に腰を下ろすと、プルタブを開けてコップにビールを注ぐ。
「じゃあ、安藤さん。お先に、いただきます」
「はい。すぐ、ご飯も持って行きますね」
「ありがとう」
俺はすっかりご機嫌な調子で、ビールとつまみを堪能することが出来た。
◇
相変わらず美味しい、安藤さんの手料理を食べた後。
「う~ん、ちょっと筋肉が張っているなぁ。ストレッチでもするか」
俺が言うと、
「あ、松尾さん」
「ん?」
「良ければ、私がマッサージをしましょうか?」
「え、良いの?」
「はい。あまり、気持ち良くないかもしれないですけど……」
「大丈夫だよ。じゃあ、お願いするね」
「はい」
俺はベッドの上に寝転ぶ。
(あっ、やべ……)
安藤さんの匂いがした。
この部屋は1Kでさほど広くないため、ベッドを二つ置けない。
だから、このベッドには、いつも安藤さんに寝てもらっている。
そのため、前まで男臭かったそれが、今ではすっかり可愛い女子の匂いに……
って、俺は何を考えているんだ。
さっき風呂で、安藤さんのこと、そんな風に意識しないって決めたばかりだろうが。
「どの辺りに張りを感じますか?」
「背中だね」
「分かりました」
安藤さんはそう言って、俺の背中をぐっぐと押してくれる。
彼女は小柄で華奢なのに、ちゃんと押す力を感じた。
「ど、どうですか?」
「あぁ、すごく良いよ。安藤さんって、何でも上手だよね」
「そ、そんなことないですよ」
「ていうか、俺マジで至れり尽くせりって言うか……このままじゃ、ダメな男になっちゃうよ」
「だ、大丈夫ですよ。松尾さんなら」
「はは、ありがとう」
「でも、松尾さん……筋肉ありますよね」
「ん?」
「そういえば、野球部だったんですよね?」
「うん、そうだよ。あの頃は、頑張って自分を鍛えていたからね。今でも、たまに体を動かすし」
「あ、そうだ。キャッチボール、してくれるって言いましたよね?」
「うん、そうだった。じゃあ、今度する?」
「したいです。松尾さんと一緒なら、何でも……」
「あはは、嬉しいこと言ってくれるね」
「あ、腕も凝っているみたいだから、揉んで良いですか?」
「うん、お願い」
安藤さんがしてくれるマッサージは本当に上手で、気持ちが良くて。
俺はつい、ウトウトしてしまった。
◇
静かに寝息を立てている。
「……松尾さん、寝ちゃいましたか?」
私がそっと声をかけても、返事がない。
胸がドキドキして来た。
「ありがとうございます、松尾さん」
私は言う。
「あなたのおかげで、今の私はとても幸せです。人生で一番……」
語っていると、自然と涙がこぼれてしまう。
「いつまで、松尾さんと一緒に居られるか分からないけど……」
私はそっと、彼の頬に触れる。
「叶うことなら、ずっと、あなたのそばにいたいです……」
そして、自分でも驚くほど自然と、彼の頬に口づけをしていた。
ゆっくりと離れて、ようやく我に返る。
「わ、私ったら、何を……」
「……安藤さん」
「ひぅ!?」
ま、まさか、聞かれた!?
「……もっと、俺のことを頼れ……むにゃむにゃ」
その声を聞いて、私はホッとする。
「もう、松尾さんってば。驚かさないで下さい」
私は微笑みながらそう言って、先ほど自分がキスをした彼の頬を、ツンと指先でつついた。
「いつか、言えると良いな」
大好きですって。
私を、あなたの……ダメ、恥ずかしすぎて、胸の内でも言えない。
しばらくの間、私は大好きな人の匂いを感じながら、一人で勝手に身悶えをして、まともに動けなかった。
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