5 私を……好きにして下さい

 今までの俺の生活は。


 大学で勉強して、コンビニでバイトして、友人と遊んだりして、と。


 至って平凡なものだった。


 けど最近、そこに変化が生じた。


「ただいま」


 俺が玄関ドアを開けると、


「あ、松尾さん。お帰りなさい」


 TシャツGパンというラフな姿でキッチンに立つ、安藤さんが言ってくれた。


 今日の彼女はバイトが休みのため、大学が終わってから先に家に帰って、夕飯の支度をしてくれていたのだ。


「ありがとう、安藤さん」


「へっ?」


「いや、夕飯の支度をしてくれて。これ、みそ汁の匂いだよね? すごく、良い感じだな」


 俺は笑って言う。


 けど、安藤さんは……


 また、目に涙を浮かべていた。


 彼女はよく泣く。


 けど、それには理由がある。


 彼女がこんな風に、ことあるごとに、涙を浮かべてしまう訳が。


 俺は最近、彼女と知り合ったばかり。


 こうして、同じ家に暮らしているとはいえ、まだ何もかも気を許せるような関係ではないかもしれない。


 けど、それでも、少しでも彼女の傷だらけの心を慰めてあげたいから。


「……あっ」


 俺は彼女の頭に、そっと手を置く。


「安藤さんは良い子、安藤さんは偉い子」


 俺はまるで子供をあやすような口調になってしまう。


 けど、


「……ありがとうございます」


 安藤さんは嬉しそうに微笑んでくれる。


「はは……んっ?」


「どうしました?」


「いや、ちょっと気になっていたんだけど……安藤さんって、美容室とか行く?」


「あ、えっと……ずっと、行っていないです」


「じゃあ、この髪の毛はもしかして……」


「は、はい。自分で切りました」


 なるほど、どおりで。


 大まかに見ると、さほど違和感はないけど。


 近くで見ると、毛先に少々乱れがある。


 安藤さんは料理も家事も完璧にこなせるくらい器用だから、セルフカットも上手なのかもしれない。


 それでもやはり、素人だからどうしても、ムラが出来てしまうのかもしれない。


「……よし。今度、髪を切りに行こうか」


「へっ?」


「あとついでに、服も買おう」


「で、でも私、そんなお金は……」


「大丈夫、俺が出すから」


「そ、そんな、申し訳ないです! こうして、一緒の部屋に住まわせてもらっているだけでも……」


「安藤さん」


「は、はい」


「遠慮しないで、俺を頼れ」


 俺はニカっと笑って言う。


「……な、何で、私にそこまで優しくしてくれるんですか?」


 安藤さんがまだ涙に濡れた目で、じっと俺を見つめて言う。


「そ、それは……」


 俺は少し、答えに迷った。


 どう答えるべきか、迷った。


「……安藤さんが、良い子だから。放っておけないんだ」


「良い子……ですか」


「う、うん。今どき、珍しいくらいに」


 俺は安藤さんの繊細な心を傷付けないよう気を遣うため、少し言葉がぎこちなくなってしまう。


「……あの、松尾さん」


「ん?」


「私、松尾さんのご好意に甘えます」


「うん、そうして」


「でもその代わりに、何かしらお礼がしたいです」


「え? いや、良いよ。いつも、美味しいご飯を作ってくれているし」


「で、でも、それは当たり前のことだから……もっと、松尾さんのために、してあげたいんです……」


 そう言って、安藤さんはコンロの火を止めた。


 改めて、俺の方に振り向く。


「あ、あの、松尾さん」


「うん?」


「そ、その……わ、私は、体も貧弱で、何も楽しいことなんて、ないかもしれないですけど……」


 安藤さんは赤面してうつむきながら言う。


「よ、良ければ……好きにして下さい」


 俺は一瞬、彼女の言うことが理解できなかった。


「……えっと、安藤さん?」


「わ、私、処女ですけど、がんばりますから!」


 そう言って、Tシャツを脱ごうとする。


「わー、ちょっと待って!」


 俺は慌てて止めた。


「落ち着こう、安藤さん」


 俺は呆ける彼女をリビングに連れて行き、座らせる。


「良いかい、安藤さん?」


「は、はい」


「俺は君に対して、そんなことは求めていない」


「はうっ!……や、やっぱり、私ごときの体じゃ……」


「そうじゃなくて……そんなことをしなくても、俺は君を助けるよ」


「松尾さん?」


「ていうか、君のその気持ちは嬉しいけど……でも、女の子に対して何かの対価として体を要求するなんて、最低の奴がすることだからさ」


「あっ……ご、ごめんなさい! 私は、松尾さんがそんな最低だなんて思っていないです……!」


「うん、分かっているよ」


 俺は微笑む。


 そしてまた、安藤さんの頭を撫でた。


「よし、ご飯にしようか。俺、もうお腹がペコペコだよ」


「あ、はい。あとは盛り付けだけなので」


「じゃあ、俺は配膳をしておくよ」


 俺たちは立ち上がり、それぞれの仕事をする。


 そして、テーブルの上には、今日もまた美味しそうな料理が並ぶ。


「おぉ、ロールキャベツ……相変わらず、見事なお手前で」


「そ、そんなことは……」


「あ、これって、ケチャップと黒コショウ、どっちが良いかな?」


 俺は言う。


「そ、そうですね……まずは、そのままを味わってもらえると、嬉しいかも……です」


「ああ、そうだね。じゃあ、食べても良い?」


「ど、どうぞ……」


 なぜか、安藤さんは赤面したまま顔をうつむけてしまう。


 こんなに料理上手なんだから、もっと堂々としていれば良いのに。


 やっぱり、謙虚で慎み深い、良い子なんだな。


 絶対、幸せになるべき子なんだ。


「……うん、美味い!」


「ほ、本当ですか?」


「これはもう、ケチャップとか、黒コショウはいらないかもね」


「う、嬉しいです……で、でも、せっかくなので、色々と試してみて下さい」


「そう? じゃあ、試しちゃおうかな。味変ってやつ?」


「そ、そうです」


 安藤さんは頷く。


「あ、そうだ。髪を切りに行く日だけど、いつにしようか?」


「そ、そうですね……」


 俺と安藤さんは、温かい夕ご飯を食べながら、ゆっくりと話し合った。







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