白と黒のパーカー

第1話 空

 それは何も持ってはいなかった。

 何も知ることはなく、また何も教えられることはなかった。

 ただあるのはエンプティというそれを指す記号のみ。

 

 エンプティは何もない空間で生きることを義務付けられていた。

 誰がそれを義務付けたのかは、知る必要のないことだった。

 知ったところで何もない自分には、特に意味のあるものだとは思えなかったのだ。

 だが、問えば教えてくれたのか。

 この疑問だけは唯一自分に意味のあるものだとエンプティは考えていた。

 とは言え、その問いに答えてくれるものはもういない。

 

 何もない空間で過ごし始めてから、気の遠くなる程の時間が経つころ、エンプティは疑問を持つことを放棄していた。

 いくら考えたところで答えの無い、または答えてくれるものの無い疑問を持つことは無駄なことだと受け入れたからであった。

 これからは無駄な時間を過ごす事もあるまい、それは確かに喜ばしい事なのだろうと思う。

 ふと、何もない自分が喜びを感じたことに微かな驚きを覚えた。


 エンプティには何もないが、決して感情の類が存在しない訳ではない。

 楽しければ笑うし、悲しければ泣くのだろう。

 ただそれに見合うだけの出来事に出会うことが今までなかったのだ。

 故に、自分が今感じているものが喜びだということをエンプティが理解するのは少し難しいものだった。

 ただ、心の中が少し弾んだだけ。

 それだけに過ぎない事ではあるが、確かに感情の揺らぎは起こっているのだ。

 これは不思議な事だ。そう考えてしまえば、放棄したはずの疑問がまた降って湧いてくるのが分かる。

 エンプティは頭を抱えた。


 喜びと悩みを同時に知覚してからまた随分と時間が経った。

 そんな折、誰も、何もないこの空間にもう一つの存在が現れる。

 自分にエンプティという記号があるように、それにはヌルという記号があった。

 そこで初めて、自分につけられた記号がヌルと自分を区分するものだったことを知る。

 自分以外のものが存在しなかった世界に新たな存在が現れた。

 そこで初めて興味を持つということを知る。


 ヌルは白い癖のついた髪の毛を弄りながら、こちらをじっと見つめては微笑むことを繰り返す。

 微笑むことで自分は敵ではないということを伝えて来るほどの知能があることを理解した。

 次は会話が出来るのかを試みようとしたが、何もないこの空間では話しかける内容など、また何もありはしない。

 口を開いて閉じてを繰り返していくうちに、心に虚しさを感じて、ヌルとの意思の疎通を図ることを諦めた。

 虚しさと諦めは近い感情なのだと知る事ができたことは大きい。


 ヌルとの会話を断念してから暫くして、自分たちがここに居続けることを義務付けた存在が、ここに居る二人を纏めて“空”と呼んでいることを知った。

 それがどういった意味を持つのか、そして読み方を持つのかは分からない。

 だが、それが“空”という文字であるということだけは間違いなかった。

 

 また暫くして、自分はヌルと接触を試みていた。

 それは透き通るような白い肌の色をしていて、そして実際に触れることができなかった。

 そこにあるにもかかわらず、触れることができない。

 突こうが、撫でようが、一向に感触がない。

 ふぅっと、息を吹きかけてみれば霧消してしまいそうな程に脆いものだと理解した。

 ヌルの瞳を見つめてみれば、その奥には少しだけ寂しそうな色を潤ませているような気がする。

 

 どれだけ時間が経っただろうか、引き込まれるように見つめ合っていた自分とヌルの関係は、ヌルの伸ばした手によって終わりを迎える。

 ヌルの手はか細く、頼りないものだったが、確かにそこに存在し、自分に触れることが出来た。

 暖かい。

 初めて自分以外の他人を実感することができた。

 この時をもって自分は、僕という自称を持った。


 僕はヌルと出会う以前から少しずつ感情を学んでいた。

 何もないこの空間で、何も教えられず、何も知らず。

 それでも僕は知らず知らずのうちに拒むこと

もなく、受け入れることもなく。

 ただ当然のように、感情を身につけていた。

 その速度はヌルが来てから、より早くなっていたように感じる。

 

 僕は成長していても、未だヌルには何もない。

 相変わらず僕から触れることはできないし、あの時以降ヌルが僕に触れることもない。

 それでも僕は白く霞がかったヌルを愛おしく思うし、ヌルもまた僕に優しく微笑み続けている。

 

 ある日僕たちをここに閉じ込めた存在が目の前に現れた。

 どうやら名前をゼロと言うらしい。

 他にも呼び名は沢山あるらしかったが、僕たちの前ではそう名乗ると決めてあったみたいだ。

 ゼロは僕たち二人を暫く眺め、満足そうに頷いた。

 どうやら僕たちは今日をもって“空”として完成するらしい。

 いてもたってもいられなくなり、僕はゼロに問いかける。

 “空”とはなにか。

 文字は理解できるけれども意味が、読み方が分からない。

 分からないは恐い。

 それはそうだと、深く頷いたゼロは今度は僕たちにも解るように話してくれた。


『君たちはこれから“そら”になる』


 ゼロはそう言って説明を続けてくれる。

 エンプティ、つまり僕は何もなかった状態から沢山の感情をこの場所で吸収する事がここでの存在理由だったらしい。

 そしてヌルは、それが“下”へと流出してしまわないように覆うカバーの様なものだと言う。

 あえて言語化するならばそれを“雲”と言うらしいが、よく分からない。

 つまり、世界を包み込む“そら”と言う存在には、その世界に住む存在のお手本となるような感情が必要であり、それが僕の役割。

 そして、それがお手本の域を超えてしまわないように守る役目がヌル。

 二人で一つの存在。

 だから僕たち二人を以って“そら”と呼んでいたらしい。


 彼が言うにはゼロからイチへと繋げることはとても難しく、それを成すことができたのは元となるものが同じからの存在だったからこそであるらしい。

 そらと言う名前はつまり、僕たちの元であるからから取ったものだと言うことだ。


 僕たちがこの世界のそらとなる為の最後の時間に、ゼロはもう少しだけこれからの話をしてくれた。

 この世界にはこれから沢山の生命というものが生まれてくる。

 そこにはきっと愛や友情などといった単純で純粋な感情だけでは済まないほどに沢山の悲喜交々が存在するだろう。

 それでもどうか、受け入れてほしい。

 そして出来る限り暖かく見守ってあげてほしい。 

 それこそが素晴らしい世界の在り方だから。

 その言葉を最後にゼロは優しく微笑み、僕とヌルを送り出した。


 ゼロは希望という、とても大きくて脆い感情を最後に僕らに託した。

 空と雲となった僕たち二人には、直接何かできることはおそらく無いだろう。

 だけれど、どうか、心が荒んでいると感じた時は天を仰いで見てほしい。

 悲しみに夜が満たされようとも、絶対に僕たち二人が新しい希望の朝を運んでみせるから。

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