第9話 掻痒

 店の大旦那の、昼の薬の時間までには帰りたいと、瑠璃は清水の坂を下りはじめた。

 総司も歩く。瑠璃と並んで同じ時間が刻めるなんて、幸せなはずなのに、どうにも心が浮かないのは彼女の告白のせいだ。せっかく明かしてくれた瑠璃の胸中。しかし、総司には応援できない。


 真実、瑠璃の恋の相手が土方だと仮定してみよう。総司は軽く目を瞑った。


 ふたりの姿を目の裏に浮かべてみる。


 厭味でもなく、贔屓目にでもなく、土方さんに、お瑠璃ちゃんは合わないと断言できる。三十をいくつか過ぎた土方に十六の瑠璃。歳が違いすぎる。


 狡猾な土方に無垢な瑠璃。もったいない。


 それに今、あの人の頭の中にあることは、新選組のことだけ。粛清、策謀、騙し討ち。女を利用することはできても、大切になんかできやしない。

 渡せない。総司は拳を握り締めた。ぎゅっと。


「そういえば、総司さんのお相手の方のことを聞いていませんでした。どんな方なのですか」

「え」


 急に黙り込んだ総司を気遣ってか、瑠璃は話しかけた。


 とうとう、来たか。

 もしかして、聞かれるかもしれないという予感もうっすらとはあったが、瑠璃は総司の恋の相手を無邪気に訊ねてきた。恋話ができるようになったなんて進歩なのに、あまりうれしくない。


 ……あなたですよ。

 と、言ったらどんなに驚くだろうか。


 ……わたしと一緒になりませんか。

 と、言えたらどんなに爽快だろうか。


 しかし、そんな勇気はない。わたしは新選組。瑠璃に、京で悪名高い新選組などと知れたら、この恋は即座に終わるだろう。


「……え、笑顔が、とても愛らしい人です。見ているだけで、幸せな気持ちがここに広がります」


 とんとん、と総司は剣客のわりには痩せている、薄い胸を叩いた。


「まあ。そんなふうに想われたら、どんなにか素晴らしいでしょう。羨ましいです」

「だめですよ。手を握るどころか、告白もできない。男のくせに情けない限りで」

「そんなことありません。がんばってくださいね、総司さん。私、応援しています」


 恋の相手に励まされる悲劇。

 俯いた総司は頭を掻いた。瑠璃がいろいろと話しかけてくれるけれど、耳に入ってこない。返事半分な総司の態度に、そのうち瑠璃もやがて静かになってしまった。



 甘味屋が見えてくると、総司は立ち止まって彼女を先に帰るよう促した。一緒に店に入れるほど、総司は図々しくない。預かっていた水筒を渡すと、瑠璃は丁寧にお礼を述べた。


 次に会うときは茶店の娘と、ただのお客さん。


 目立たぬように、総司は小さく手を振る。

 瑠璃は数回、総司に向かって頭を下げつつも早歩きで、やがて店の中に消えていった。


 余韻を楽しむように、総司は花見小路を下って建仁寺界隈を一周してから、甘味屋に戻ることにした。


 彼女のかわいい声がまだ、耳に残っている。総司だけに向けられた笑顔。ことば。仕草。彼女がほかの誰かに恋をしていたとしても、自分がこうやって思い出すことぐらいは許されるだろう。総司は瑠璃を想って歩いた。


 しかし、しまった。

 次の約束をし忘れた。


 どうしてこう、わたしは間が悪いのか。せっかく親しくなれたのだから、恋する者として逢引きの約束を取りつけるぐらい、できて当然ではないか。


 急に足が重くなった総司は、甘味屋には寄らず、そのまますごすごと本陣に引き返した。なんて勇気がないのだろう。これが、都を震撼させている新選組沖田総司の正体などと、情けなくて涙が出そうだ。

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