第2話 帰陣

 門番の隊士に見つからないよう、総司は勝手知ったる築地の破れからそっと本陣内に入り、玄関に忍び込んで草履を脱ぎ捨てると、灯りをつけずに自分の部屋に籠もることに決めた。


 本陣全体が寝静まるにはまだ早い時分。

 特に、今晩はお目付役の土方副長が不在ゆえ、隊士は気楽に夜更かしを楽しむだろう。隊士の誰かに見つかると、厄介なことになる。

 明日になれば、総司が豚鍋を逃げたのが明らかになってしまうのは覚悟の上。とはいえ、あまり早い時間にそれが分かると、いささか都合が悪い。『沖田が幹部会をさぼっている』と、休息所に連れ戻されかねない。


 息をひそめてどうにか自室に帰ると、豚の臭いがしみついてしまった気味の悪い羽織と袴とを遠くに放り投げ、総司はすぐに蒲団に潜り込んだ。


 気配を消す。

 居留守。寝たふり。


 元来、総司は体が強いほうではないので、疲れやすい。

 殊に、京の夏の油照り、冬の底冷え、四季の変わり目がきつい。つまり、身にこたえる日ばかりなのだ。隊務よりも、京の季節のうつろいがこれほどしんどいとは、考えてもいなかった。


 それに、あの豚。


 それほど酒量はいけない総司でも、皆と飲み明かすのは好きだ。けれど、豚は体が受けつけない。いや、豚に限らず、総司は肉がどうも苦手だ。魚も卵も気味が悪い。


 思わず、ため息が出る。

 どうして、あんな腥いものを皆でこぞって喜んで食べるのだろうか。信じられない。


 総司の好物は、甘味。

 この体は甘いものでできている、とまで思っている。


 特に、京に上ってきて以来、行きつけにしている祇園の甘味屋、あの店の菓子は文句のつけようがない。なにを食べてもおいしいし、さすが京の都、見た目も美しい。

 饅頭、羊羹、大福、団子、葛きり、冷やしあめ。思い出すだけでも、恋しくなる味ばかり。


 それに、あの店には、瑠璃(るり)という、愛らしい働き者の看板娘がいる。総司は、胸を熱くさせた。


 歳は十五ぐらいだろうか、笑顔が咲きそめし花のような可憐さを持っている瑠璃。ああいう愛らしい娘と所帯を持てたならば、毎日楽しいだろうに。総司は妄想を働かせた。


 けれど、この自分が新選組だと知ったら、瑠璃はどんな顔をするだろうか。京の嫌われ者、新選組。京の爪弾き者、新選組。きっとあのかわいい顔を青くするだろう。

 いや、まじまじと話したことはない。心の内を告白するつもりもないから、己の浮わついた想像だけでいい。あの瑠璃と、所帯。総司の両頬には、自然と笑みがこぼれた。


 そこへ、一筋の光が室内に流れた。廊下から漏れる明かりを感じ、総司は妄想から我に返る。


「先生、ご帰還ですね。お疲れさまでございます。お茶をお持ちいたしました」


 襖をからりと開けて声をかけてきたのは、総司が指揮する一番隊の配下、富田(とみた)弥三郎(やさぶろう)だった。いつも総司の身の回りの世話を率先して行っている。条件反射で、総司は体を構えそうになったが、確かに弥三郎本人だったので、肩の力を抜くことができた。


「わたしが部屋にいるって、よく分かったね」

「はい、玄関に先生の履物がありましたから」


 玄関に置いてきたばかりの履物を見つけたらしい。

 灯りはつけていないが、月明かりがあるので近くは見える。弥三郎の笑顔が総司のすぐ隣にある。頬の片方にえくぼが浮かぶから、見た目はいくらか幼く映る。二十歳になったばかりだというが、剣はかなり使える。


 半年前に行われた入隊希望者の試験で、総司の目にかなった弥三郎。剣筋は粗いものの、磨けばいいものが出る、そんな直感が働いた。弥三郎は能力を秘めていると総司は認め、自分の一番隊に引き入れた。もっとも、歳はひとつふたつ多めに詐称しているかもしれないが、それは局内では些細なことだ。新選組は実力主義、経歴や身分はほとんど不要。


 弥三郎は落ちていた総司の羽織袴を拾うと、丁寧に塵を払ってから衣桁へとかけた。

 総司は蒲団を跳ね除けて、ややぬるいお茶をすする。弥三郎は総司が少々猫舌だということを知っているので、淹れたてのお茶は出さない。追っ手を気にして、休息所から小走りで帰ってきたし、腹は空いていないが少し喉が渇いていたところだ。助かった。

 ふと、気になったことを総司は尋ねてみる。


「別段目印もない履物だけで、誰か分かるものなのかい」

「ええ。先生の草履は、他の方と草履の擦れ方が違います。独特の擦れです。たぶん、利き手と関係しているのでしょう」


 初耳だ。草履の擦れ方。薄暗い中、総司は富田弥三郎の仮説に耳を傾けた。部屋に、弥三郎の声がそっと響く。


 弥三郎の説明によれば、こうだ。

 局長副長をはじめ、ごく普通の右利きには見られないような草履の擦れが、総司にはあるらしい。根っからの左利きである三番隊の斎藤一になるとまた、擦れが異なるという。玄関での履き間違いは日常茶飯事なので、それを嫌う者は草履を自室に保管している。

 草履を観察するなんて、旅籠の下足番のようだと総司は感じた。


「隊に入ってしばらくは、本陣内の掃除ばかりでしたから、ひとりひとりの履物の特徴も覚えてしまいました。先生のは独特なんです。こう、左が多く磨り減っていて。でも、右も擦れている」

「箸だけですよ、わたしの左は。利き足が左の隊士も、多くいるでしょうに」


 総司は道場の稽古風景を思い出し、利き足は左だろうと推測できる何人かの平隊士の名前を挙げてみた。

 それでも、弥三郎はまた意味ありげに微笑んだ。


「ええ。でも今、本陣を留守にされているのは、隊の幹部の方ぐらいですよ。幹部の方の草履は、平隊士のそれとは、やはりつくりが違いますし。ちょっと高そうな履物がひとつ増えた。左がやや擦れている。そしてまだ温かい。ああ、先生だなって。この擦れ方を見ていると、きっと、いざというときは、先生ならば左腕だけでも、楽に戦えるかと思います」


 自分の考えを疑わない、無邪気な富田弥三郎。こういう時代、遠い昔に総司も通り過ぎたような気がする。


「さて、どうかな。買いかぶりかもしれないよ。お茶、どうもありがとう。喉が潤いました」


 わざと、総司は話をはぐらかした。

 平素は隠しているが、真実の沖田総司は左利き。だがこの事実は、いくら一番隊の者でも、知られたくない。これを知っているのは、天然理心流の近藤、土方、井上。加えて、総司の刀にかかって死んでいった者のうち、ほんの数人だけ。


 左で使う剣は、よほどの場面でない限り、封印している。総司の奥の手の奥、だから。奥の手は秘してこそ。それが総司の銘だった。

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