ためらいもなく、総司は

fujimiya(藤宮彩貴)

第1話 豚鍋

「今夜は豚鍋」と聞いて、総司は逃げ出そうと決意した。

 戸をくぐったときから、嫌な予感はあった。


 豚と聞くだけで、体の芯がぞっとする。


 おいしそうに肉を喰らう近藤局長は好きだ。次々に肉片を口に放り込んでは満足げに咀嚼する、新選組局長の近藤勇は傍から見ているだけでも頼もしく、そして清々しくさえある。


 しかし、豚特有の肉の臭いは獣くさくて、どうにもいただけない。総司は、豚やそのほかの肉が目の前に並ぶたびに、あれやこれやと理由をつけては逃げているから、豚のほんとうの味は知らない。けれど、知りたくもないと総司は自負していた。


「総、どこへ行くつもりだ」


 脱いだばかりのまだ温かい草履を、慌てて履き直そうと多少もたついていると、手間取ってしまったせいか、総司は副長の土方歳三に見つかった。

 総司は土方に肩をぐっと強く掴まれる。この人も、豚鍋では野菜や豆腐ばかりを黙ってつついている、豚嫌いの、いわば同志だが。


「どこって。本陣に帰ります」

「月に一度の幹部の会合だ。先刻から近藤さんもお待ちかねだ。お前だけ逃げるなんぞ、許されねえよ。だいたいお前な、最近痩せすぎだぜ。確かに、京の暑さ寒さは体に堪える。今夜こそ、滋養のある豚を食え。いいか、俺の分も食いやがれ」


 土方は自分に都合のいい論を展開した。


「毎晩遅くまで仕事に励んでいる土方さんこそ、豚を食べてくださいよ。それに今は、甘味屋に寄ってきたばかりで、食欲がありません。無茶ばかり言わないでください」


 負けずに総司も言い返したが、土方も食い下がる。


「莫迦、豚なんか臭くて食えるかってんだ。しかし、お前はまた甘味か。もともと食が細いくせに。いくつになっても、子どもみてえな舌の持ち主だな」


 土方は整った美しい眉をひそめて、夕暮れに染まりゆく京の空を見上げている。

 話をはじめると、いつだって土方は長くなる。総司には逃げるなと言いつつ、居間から這い出てきた土方は豚の臭いに耐え兼ねて、廊下にいたに違いない。それを責めればきっと、廁だとか酔い醒ましに来たとか、やかましく弁明するだろう。

 総司は渋々草履を諦め、土方に背中をせっつかれながら、皆が集まっている部屋の中を冷やかした。

 和やかな場。もう、はじまっている。

 今夜は近藤局長の休息所……いわゆる妾宅で、昔からの仲間が集まり、心おきなく話ができる日。だが。


 豚、豚、豚。


 西本願寺に置かれている、新選組の本陣内で豚を飼って食用にすることを奨励されてから、多くの隊士はめきめきと体力をつけて目を瞠るほど壮健になったが、総司は辟易した。


 殺生を忌む寺の中だから、ということだけが理由ではない。生来、それほど総司は信心深くない。どちらかといえば、無信仰なほうだ。


 毎日豚を眺めていると、豚といえどもそれぞれの個性が分かってきて、思わず名前をつけたくなる。しかし、いずれは屠殺される運命。憐れになる。そうなると、肉も脂も、食えたものではない。

 幕府に敵対する者は局長の指示があればいくらでも斬れるのに、自分がなぜここにいるのかも分からないだろう愚鈍なまでに純真な豚に対し、総司は同情していた。

 それに、この臭い。


「おう、総司。遅かったな。先に、はじめていたぞ」


 大きな口をいっぱいに開けて、近藤は笑顔で総司を隣の席に手招いた。近藤は我が新選組の局長にして、天然理心流の四代目宗家。総司の親代わり同然でもある人だ。ふだんはこの顔が大好きだが、今夜は暑苦しいだけ。


 総司は、近藤の背後に控えている、という近藤の女性から、ほんの形だけ杯をいただくと、隙を見て、そろりと部屋を抜け出した。小うるさい土方の監視もまんまとくぐり抜けた総司は、何も食べずに近藤の休息所からほど近い新選組の本陣に走って帰った。


 今夜は、月が明るい。

 濃い影が総司を追いかける。


 わたしは新選組一番隊組長、沖田総司。



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