第25話 ようこそ、新しい住人(獣)

「さて、どうするかシエラ」


「どうしようかシシノ」


 夕方前という時間、アパートの庭まで戻ってきた二人の目の前に、ある問題が発生していた。だが、問題が発生したという割には、二人の表情はどこかニヤニヤとしたものである。


「ついてきちゃったんだなぁお前〜」

「よしよしこっちおいで〜」


 手に持った買い物袋をその辺に置き、腰を下ろすと、二人は「問題」へ向かって手を叩き、甘い声でおびき寄せようとする。


 そう、発生した「問題」とは、ネヌである。商店街への道中に出会ったネヌが、シシノのアパートの庭に陣取っていたのだ。


 そのネヌはあっさりと二人の元へ駆け寄り、撫でくりまわされると、喉をゴロゴロ鳴らした。あっという間に腹を見せ、服従のポーズをとる。「びゃおんびゃおん」と声を上げる様子は非常に愛くるしい。


「どうしようかマジで」


「うん、ネネさんが帰ってきたら大変だよね」


 ネヌを撫でくりまわしながら、二人は相談する。

 事態は深刻だ。ネヌがここに居ついてしまえば、動物が極度に苦手であるネネさんは、それはそれは困惑するだろう。困惑するどころか、気絶してそのまま目覚めない可能性さえある。


「でも、準備整っちゃってるんだよな〜」


 そう言うシシノの手には、先ほどスタンプラリーの報酬として受け取った、ネヌフード一ヶ月分の引換券が握り締められていた。


「うんうん、無駄にはしたくないよね〜」


 頷きながらシエラは、ネヌを撫でくりまわす手を止めない。ふんふんと鼻を鳴らし、腹を背を頭を、揉みくちゃに撫で回す。


「こうなったらもう、説得するしかないよなぁ」


「うん、ネネさんきっと分かってくれるよ!」


「はい、何を分かればいいのでしょうか?」


 突然の声に驚き、二人が後ろへ振り向くと、ネネさんがアパートの敷地の入り口から、こちらへ近づいて来ているのだった。


「ね、ネネさん⁉︎ 今日は遅くなるんじゃなかったんですか⁉︎」


 慌てて立ち上がり、ネヌをその背に隠すシシノ。その様子に、ネネさんは少し眉を寄せる。


「いえ……直接やらねばならない仕事が思ったよりも早く片付いたのです。後はお家でできることなので……それで、何か問題でも?」


「い、いや〜、今日はわたしたちが腕によりをかけて晩御飯作ろうと思ってたから、こんなに早く帰ってきてびっくりしちゃって」


 二人の様子をいぶかしむネネさんに、シエラが慌てて言い訳をする。しかし謎の身振り手振りが、かえって怪しさを感じさせてしまったようだ。ネネさんは無表情に戻ると、冷たく言い放つ。


「何か後ろに隠していますね……いったい何を?」


 ──鋭い‼︎


 二人の思考はシンクロする。説得するつもりだったというのに、いざネネさんを目の前にすると、慌ててしまって言い訳ばかりが出てくる。そして問い詰められると、何を言えばいいのか分からなくなってしまうのだった。


 目を逸らし沈黙が続く中、「びゃおーん」と、二人の後ろから鳴き声がした。二人の顔から冷や汗が噴き出す。


「ち、違うんですよネネさん。後ろに何か隠しているわけでは……」「そうそう! すぐに見せるつもりだったし!」


「お二人とも、そろそろ言い訳もお見苦しいですよ。怒りませんから、見せてください」


 慌てふためく二人に一喝し、ネネさんは二人の間から顔を覗かせる。そして、地面にゴロゴロと転がるネヌの姿を視認した。

 ネネさんはそうして、動かなくなった。


「あ、あの……ネネさん?」


 シシノが問いかけると、肩をビクッと揺らすネネさん。しかし、その表情は崩していない。


「なんだ、ネヌですか……可愛らしい……なぜ隠したのです?」


「あれ? ネネさん……大丈夫なんですか?」


 ネヌを見たというのに、ネネさんは慌てる様子もなく、むしろ可愛らしいとまで言うのだった。


「ふふふ。シシノ様ったら、いったいいつの事を思い出しているのですか? もう十年近く経つのですから、克服していても当然ですよ。……というか、もともと見た目は非常に愛らしいと思っていたのです」


 しかしそう言いながら、ネネさんはゆっくりと後ずさりしている。まるでネヌとの距離を取っているようで、その言葉に説得力はまるでない。

 だが、その言葉を丸呑みし、パッと顔を輝かせるシエラは、そのままネヌを抱きかかえ、ネネさんの目の前まで駆け寄っていく。


「ネネさーん! じゃあじゃあ、この子飼ってもいーい?」


「ひょああああ! ちょっと待ってください心の準備が!」


 今までにない慌てぶりを見せ、逃げ出すネネさん。手をバタバタと動かし、パニック状態である。その様子に、シエラは目を丸くして、立ち止まる。


「ね、ネネさん、やっぱりネヌ怖いの……?」


「はっ!……私としたことが、取り乱しました」


 気がついたように冷静に振る舞うネネさん。しかし庭に生える木にしがみついてそう言う様子は、あまりにも滑稽だった。


「ネネさん……セミみたいになってるよ……」


 ここまでの慌てぶりは、ここ数年シシノでさえ見ていなかった。やはり動物が苦手だということは克服していないようだ。

 木から降り、深呼吸をすると、ネネさんは何事もなかったかのようにシエラの前へ立つ。


「飼いたいのですか……?」


「えっ? で、でもネネさん……その慌てっぷりじゃ、やっぱり動物苦手なんだよね? そしたら、わたしは無理を言うことなんてできないよ……」


 ネネさんの問いかけに、シエラは困惑する。ネヌを前にしただけでこんなにも取り乱すのだから、これから先共に暮らすなんて、到底無理な話だと、そう思ったのだ。

 だが、ネネさんは首を振った。


「いえ、いえいえシエラ様。わたしはずっと見てきたのです。ネヌ雑誌や、テレビのネヌ特集を見て、ニヤニヤするシシノ様を。……シシノ様のネヌ愛は相当なご様子です。ですので、ずっと、克服しようと思っていたのです。私のワガママで、シシノ様に我慢をさせたくないと」


「ね、ネネさん……そんな事をずっと……?」


 ネネさんの独白に、口に手を当て驚きを隠せない様子のシシノ。五年以上も前から、そんな想いを抱かせていたなんて、逆に申し訳がなくなってくる。


「はい……。克服するため、密かにネヌ雑誌を定期購読し、お世話の仕方から行動パターンなど、もはや学者レベルに詳しくなりました……今のそのネヌさんの気持ちも分かります。『お腹が減ったびゃん』だそうです」


「す、すごい……気持ちまで分かるなんて……」


「当然です。……シエラ様……貴女が飼いたいと言ってくれたおかげで、私も覚悟が決まりました。ええ、ええ。飼いましょうとも。シシノ様もシエラ様も、ネヌが好きなのですから、その気持ちを我慢などさせたくありません」


 凛とした姿で言い放つネネさんに、シシノとシエラは、目を輝かせる。特にシシノは、長年抱いてきた想いがようやく叶う喜びに、天を仰ぎみて、ガッツポーズをした。

 勝ちどきを上げよ、今宵は祝いだと、気分はまさに長年の戦に勝利した武人の如しだった。


「あ、ありがとうネネさん……おれ達、大切に育てるから……」


 そう言ってシシノは、ネヌを抱きかかえるシエラの横に立ち、ネネさんに向き合う。


「名前はどうする?」


「チャッピーだ」


 シエラが問いかけると、シシノは、待っていましたとばかりに答える。シシノは何年も前から、ネヌを飼うのならば名前をどうしようかと考えていたのだ。

 しかし、シエラとネネさんの反応は、あまりよろしくなかった。


「う、うん……まあ、いいんじゃない?」

「えぇ……ネヌさんもいい気分だそうですよ」


 ーーいい名前だよな? チャッピー。


 心の中で問いかける。するとチャッピーが「びゃおーん」と一声鳴いた。やはり、気に入ってくれたのだろう。


「……チャッピー様、よろしくお願いします」


 ネネさんが、チャッピーの頭に手を伸ばし、触れようとする。するとチャッピーはネネさんの手をペロリとひと舐めした。


「ななななな! 舌がザラザラしてます‼︎ いったいなぜ⁉︎」


「わけがわかりませ〜ん!」そう叫びながら、庭を駆け巡るネネさん。その様子に、シシノとシエラは苦笑いする。

 彼女が動物嫌いを克服するのは、相当先になりそうだった。


 だが、ともかくこうして、このアパートの住人がまた一匹増えたのだった。


 ~~~


「さて、まず、シエラ様とデオドラさんにご報告があります」


「すげえ。場面が変わったら何事もなかったかのように落ち着いている……」


 夕食後、リビングに集まり話し合いの時間となった。今夜もネネさんは、その会議を仕切るのだった。


「はて、何事も、とは、何のことを言っているのか分かりませんね。私はいつだって落ち着いています」


 どうやらなかったことにしたい様子だ。それならば、シシノもこれ以上は何も言わないでおこうと、聖人君主のような気を使うのだった。

 ちなみにチャッピーは今、庭で眠っている。放し飼いにしようという方針に決まったのだ。


「それでェ、報告とはァ、いったいどんなものなのですゥ?」


 デオドラは夕食前に帰ってきた。日中何をしていたのか、泥だらけだったので、早々にお風呂に入ってもらった。そんな彼も、今はリビングでの話し合いに参加中だ。


「はい、まずはこちらをご覧ください。じゃじゃん」


 そう言って、ネネさんは二枚の、プラスチック製だろうか、艶めいているカードを見せびらかした。そのカードにはそれぞれ、シエラとデオドラの顔写真が表示されている。


「これは住民カードです。お二人が日本人だという証明になります。つまりはお二人の戸籍をご用意しました。これでだいぶ、この日本で自由にできますよ」


「な、なんとォ! たった数時間で、ボクたちの戸籍を偽装したのですかァ⁉︎」


 ネネさんの仕事ぶりに、デオドラとシエラはソファから身を乗り出し、驚きを隠せない様子だ。

 カードを受け取ると、天井のライトにかざし、まじまじと見つめる。カードに書かれた文字を、二人はどうやら解読できるようだ。


「シエラ・ラック?」

「デオドラ・ラック?」


 写真の下に書かれた文字を読み上げ、ネネさんの方を見る。


「はい。それがお二人の、このジャッポンでのお名前です。ここでは、名乗るときは、そのお名前でお願いします。機関の中には、ラッカフルリルについて知っている者も少なくないでしょう。そのままのお名前では危険です」


「なるほど、気をつけるよネネさん。……それになんだか可愛い響き。シエラ・ラックね」


 シエラは頷き、カードを大事そうに抱える。どうやらその偽名を気に入ったようだ。


「ネネさァん、本当にありがたァい。匿ってくれるだけでなく、この国での地位をいただけるとはァ……このご恩、いったいどうお返しすればいいでしょォ」


「ふふっ。それならすぐに返せますよ。いえ、これから返し続けてください。なんのために私が、貴方に戸籍を与えたと思います?」


「えェっ? な、なんのためなのでしょォ?」


 ネネさんの問いかけに狼狽うろたえるデオドラ。ネネさんはどうやら、ただの優しさで戸籍を与えた訳ではないらしい。


「デオドラさん、働いてもらうためですよ。タダでここに置くわけにはいきません。……貴方にはアルバイトをしてもらいます。戸籍がなければ、それも無理ですからね」


 ネネさんは笑顔で言い放つ。その笑顔が、かえってデオドラの恐怖心を煽り立てるのだった。見ているだけのシシノとシエラですら、その笑顔に、なんだか恐ろしいものを感じた。

 いったいデオドラが何をさせられるのか、想像はしないことにした。


「も、もちろォん。ここで生活を許してもらう以上、ボクは働けと言われれば働きますよォ。ネネさんの仰せのままにィ!」


「えぇ。期待しています。あ、もちろんシエラ様はごゆるりとお過ごしくださいね。お客様ですから。はい、では、次の話です」


 デオドラの大いなる決心を、さらりと受け流すネネさん。一日経っても、その冷たい対応は、未だに覆らないようだ。

 だがデオドラは嬉しそうなとてもいい顔をしている。それを見てシシノは、最早何もいうまいと思うのだった。


「次の話……といっても戸籍の話の続きなのですが、戸籍を作る際にですね、少し設定を作り込みまして……お二人には、その設定を叩き込んでいただきたいのです」


「せ、設定?」


「はい。非常に盛り上がりまして、細かく決めた方がリアリティが出ますからね。明日丸一日かけて、お二人には設定を覚えていただきます」


「「ま、丸一日⁉︎」」


 ネネさんの発言に、シエラとデオドラは声を揃え驚く。丸一日かけて覚える設定とは、いったいどれ程のものだというのだろうか。


「何を驚いているのです。これは大切なことですよ。ボロを出さないように、綿密に慎重に、身に焼き付けなければなりません」


「えー。じゃあ明日はシシノと遊べないですか?」


 頰を膨らませ、残念がるシエラ。その気持ちは嬉しいが、シシノにも、明日は遊べない理由があった。


「シエラ、どっちにしろおれは、明日家にいない。定期検診があるんだ」


「定期検診?」


「ああ、この身体・・・・を、定期的にチェックする人がいるんだ。だから、明日はおれがいない間、三人で頑張って設定を覚えてくれ」


「ふぅん……わかった。明日はお勉強の日だね」


 シエラは残念そうだが、この国で生きていくとなると、仕方のない事かもしれない。ここで過ごす日々はこの先続いていくのだから、明日ぐらいは設定を覚えることに使ってもいいだろう。渋々シエラは納得するのだった。


 今日報告することは以上のようで、あとは気になることを聞く時間になったのだが、デオドラに日中何をしていたか尋ねても、「隠蔽ですよォ隠蔽」としか答えてくれないので、シシノはそれ以上は追求しなかった。


 解散して自分のベッドに入ったとき、シエラとデオドラに、ナヴァロッカという星について尋ねることを、忘れていたことに気がついた。


 ──まぁ、明日の夜でいいか。


 そう思って、シシノは眠りに落ちていった。


 ~~~



 翌日、朝食を食べ終わると、シシノは三人に手を振って家を出た。


 機関に指定された空き地まで行くと、黒塗りの車が用意されていた。シシノはそれに乗り込むと、黒服の男に目隠しをされる。

 車が走り出す。毎度毎度、物々しい送迎だと思う。診察室の場所を知られたくないのだろうが、それにしたって、他に方法がないものだろうか。

 長い時間揺られながら、シシノは、これから会う医師のことを思い出す。


 ──あれは、そう。初めて意識を持って目覚めたとき。何も知らないまま目覚めたとき。初めて、誰かを見たとき。目の前にいたのは、彼だった。


 マイマイガ・ユズル。これから会う彼は、シシノの身体を異常なものにした、張本人でもあるのだった。

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