第10話 それはあまりにも突然の

「「「いただきます」」」


 今日は金曜日だ。朝、もはや馴染みのあるものになった三人分の声が響く。


「う〜ん、やっぱ美味しいなぁ〜。幸せぇ〜」


 肉じゃがを頬張ったシエラは、なんとも幸せそうである。

 朝食は昨日の残り物だ。残り物といっても、その量は、丸二日、何も作らなくても困らない程のものなのである。これからしばらくは、冷凍したみんなの料理が、食卓に並ぶだろう。


「あ、シシノ、醤油とって」


「ん。ってシエラ、朝から食い過ぎじゃねえか?」


 思えばシエラは、初めての夕食から、とても上品な食べ方をするのだが、食べる量は普通の女の子よりも大分多いように見えた。


「だって、美味しいんだもん。それに、わたしは普段から運動してるからね、その辺ぬかりはないよ」


 卵焼きに添えられた大根おろしに、醤油を数滴垂らすと、それを、湯気をまとう卵焼きにのせて口へ運ぶ。


「おいし〜い」


 なんとも美味しそうに食べるものである。


「ごくっ……。なあ、シエラ、おれにも一個とってくれ」


「はい、どーぞ」と、シエラは卵焼きをシシノの取り皿の上に乗せる。その卵焼きは、他のものよりも、少しだけ歪んだ形をしている。


「お、これシエラが作ったやつだな」


「うん、それは結構自信作なんだよ」


 卵焼きを口に運ぶ。一晩冷蔵庫に置いていたものをレンジアップしたにも関わらず、その食感はふわふわのままで、ダシの加減も絶妙だった。


「うん、うまい」


「えへへ、やったぁ」


「お二人とも、朝からとても仲むつまじく、私は眼福でございます。もっとイチャイチャしてくださいませ」


 二人の様子をじっと見ていたネネさんは、うっとりとした表情でそう言うのだった。


「ばっ! な、何言ってんですかネネさん! イチャイチャなんてしてねえですよ!」


 焦るシシノの横で、シエラは「イチャイチャってなぁに?」と訊いている。知らなくていい! とシシノは思った。


「しかしシシノ様、イチャイチャするのもいいですが、あんまりゆっくり食べていると、学校に間に合わないのでは? というか、そろそろ家を出ないと、まずいのではないでしょうか」


 時計を見ると、針は八時五十分を指していた。シシノの学校の朝礼は九時十分からだ。ここから歩いていくと、学校へは二十五分ほどかかる。つまりは、ギリギリだった。


「うっわ、歩いてたら間に合わねえじゃねえか! ごちそうさま、行ってきます!」


 慌てて家を飛び出す。

 後ろから「行ってらっしゃーい」と、二人の声が聞こえた。


 ~~~


 シシノの学校での意識は、昨日の晩から変わっていた。今までだったら、「別に誰とも話さなくたってなんの支障もない」だとか、「友達なんていなくたって、おれは一人でやっていける」だとか、そういうスタンスを決め込んで、休み時間には寝たふりをしていたものだ。だが、今日は朝から、誰かと話す機会はないかと、目をギラつかせ、周りの様子を伺っていた。

 前髪だって、シエラの言葉通りに、しっかりと上げたのだ。

 だというのに、不思議といつもよりも周りに避けられている気がしてならなかった。なぜだろう。


「やべえよ、ヒノミヤくん、いつもよりブチ切れてるよ」「前髪上げちゃって、気合入りまくりだよ」「誰か、なんかしたんじゃないの?」「処刑する人間を探しているのよ」「い、嫌だ、おれ殺されたくないよ」そんなヒソヒソ声が聞こえてくる。


 どうやら、周りをキョロキョロと見ることで、誰かを探しているのかと勘違いさせてしまっているようだ。元来の目つきの悪さに加えて、あらぬ誤解をさせてしまっている。

 シシノはみんなの警戒を解こうと、ヒソヒソ声のする方向を向き、精一杯のスマイルをする。しかし、シシノの作り笑いは、不敵、というか、クレイジーな殺人鬼というか、危機感を覚えさせるタイプの笑顔にしかならなかった。


「「「ひぇっ! ご、ごごごごめんなさーい!」」」


 それを見て、みんなは一目散に逃げて行ってしまった。


 ──しまった、失敗した。笑顔の練習をしておくべきだったか。


 と、シシノは反省する。それと同時に、昨夜のシエラの言葉を思い出す。


──最初は自然な流れで、話すべきときに。体育の授業なんて、もってこいの時間。


 次の時間割は体育だ。チャンスはここにある──とシシノは気を引き締めるのだった。



 いつものように、ボール回しの練習をする。ペアの相手は、相変わらずのショウタ君である。何故だかはわからないが、ショウタ君とシシノはいつも最後に「じゃあやろうか」という感じでペアが決まる。この二人はいつも、誰にも誘われることがないのだ。


「わっ、ごめん!」


 ボールを両の手の平で上向きにはじき、アタッカーのサポートにつなげるトスの練習だというのに、ショウタ君の放ったボールは、信じられないスピードでシシノのすぐ横を通過し、体育館の壁を貫く勢いでぶち当たった。破裂したかのような音が響く。


「い、いや、大丈夫だ」


 冷や汗をかく。どうやってやったんだ、という疑問と同時に、三回目にして、なんとなくショウタ君が誰にもペアを組んでもらえない訳が分かってきた。

 彼は、運動音痴なのだ。見ていると分かるが、彼の動きは、何故かちぐはぐになってしまう。アタックの練習ではヘロヘロのボールになり、レシーブは下向きに飛んでいき、トスは今のような殺人ボールになってしまうのだ。それを嫌い、みんなはショウタ君とペアを組みたがらないのだろう。

 二人はいわゆる、余り物と言える状況だった。


「本当にごめん、シシノ君。……毎回こんな調子で、練習にならないよね」


「い、いや、そんなことは……なくもねぇけど」


 そんなことはないとは言えないのだった。


「はあぁーー。やっぱり、迷惑だよね、ごめんよぉ」


 シシノの言葉に、ショウタ君は一段と気を落とす。


「いやいや、迷惑だとは思ってねえよ!? ほら、運動には向き不向きあるし、苦手なのはしょうがねえ! おれだってガキの頃はなんもできなかったし!」


 精一杯のフォローをする。すると、ショウタ君は、より申し訳なさそうな表情になるのだった。見かねてシシノは、さらに言葉を付け加える。


「ほら、ショウタ君、練習しようぜ。上手くなるためにはそれしかねえよ。大丈夫だ。おれがとことん付き合うからさ」


「…………ありがとうシシノ君。僕頑張るよ!」


 どうやら立ち直れたようである。二人は練習に戻った。シシノは自分の練習はすることなく、ショウタ君へのパスと、彼が放つボールの捕球に専念した。ショウタ君特別強化キャンプである。ばいんばいんと、あらぬ方向へ飛んでいく球を捕球し、パスを回す。ショウタ君も、めげることなく練習を続けた。

 しばらくすると、笛の音がした。どうやら練習は終わりで、体育教師の立つホワイトボードの前へ集合のようだ。


「バレーボールの授業も、もう五回目だ! みんなもそろそろ、練習だけじゃ飽き飽きだろう! ということで、来週は試合を行う! 勝ったチームには、学食の日替わりディナーのチケットを、全員分プレゼントしてやろう!」


「やったあああああああああ」と、あちこちで歓声があがる。この学校では、授業が全て終わった後、学食で夕食が食べられるようになっている。部活動をしている生徒や、教師のためのものであるのだが、その味は絶品だと評判なのだ。


「それでは今からチームを発表するぞ! 先生は、今までの練習を見て、チームごとに差が出過ぎないようにチームを分けた! 文句はなしだぞ!」


 それを聞いて、今度はざわざわとした声が、生徒たちの間に蔓延まんえんする。仲のいい者同士、運動ができる者同士で組みたかったはずなのだから、当然である。しかし、教師の意見に反発することはできない。彼は校内で最も恐れられている鬼教師なのだった。怒らせたらどうなるのか、想像するのも恐ろしい。


 次々とチームが発表されていく中、シシノとショウタ君の名前が挙がった。どうやら同じチームのようである。しかし、ショウタ君の名が挙がったとき、少し周りのざわめきが大きくなったのを感じた。


「マジかよ、これじゃ勝てないじゃん」「あーぁ、おれらはチケットもらえねーな」「試合する前からわかるわ」


 そんな声が聞こえてきた。ショウタ君は、それに気づいて、うつむいていた。


「ショウタ君、大丈夫か?」


 シシノは、そんなショウタ君の様子を見て、可哀想に感じてしまった。


「いやぁ、しょうがないよ、僕はこの中じゃ圧倒的に運動音痴だし、……そりゃ嫌がられるさ。……みんなに申し訳ない。シシノ君もごめんね。僕と同じチームじゃ、……きっと勝てない」


 ショウタ君は、自分が何かを言われたことよりも、周りに迷惑をかけてしまっているということに、落ち込んでいるようだった。

 チームについて文句をいう声が、シシノの耳にはまだ聞こえていた。嫌な感じがしたが、自分が何かを言って、変わるわけでもない。シシノはただ黙っていた。だが、それでいいのだろうか。シエラの言葉を思い出す。今は何かを言わなきゃいけない気がする。

 考えながら、ショウタ君の言葉と、ヒソヒソ話に我慢がならなくなって、シシノはついに、立ち上がって叫んだ。


「おい、文句がある奴ら! 黙ってろ! 誰がチームにいようがやってみなきゃわかんねえだろうが! ショウタ君もだ! 勝負する前から決めつけてんじゃねえ! 君のミスはおれがフォローする、だから来週の試合は諦めんじゃねえ!」


 そう言いきって、静まり返った空気に気づいた。

 ーーやってしまった。みんなの輪に入るどころか、これではより避けられてしまう。そう感じていると、教師が口を開いた。


「その通りだヒノミヤ、よぉく言った! みんな、全力を出してプレイするようにな!」


 すると、ちょうどチャイムがなって、みんなはぞろぞろと体育館を出ていった。体育館に立ち尽くしたまま、シシノは一人取り残されたような気分になった。


「シシノ君、ありがとう」


 後ろから声がしたので振り向くと、ショウタ君が申し訳なさそうに立っていた。どうやら、みんなと一緒に出て行かなかったようである。


「シシノ君、あんなに怒ってくれるとは思わなかった。なんというか、すごく嬉しかったよ。それでその、勝負する前から諦めててごめん。来週は頑張るから、よろしくね」


 手を差し伸べてくる。シシノはそれを握り返す。


「あ、ああ。頑張ろうな」


「うん、勝ってディナーのチケットをもらおう」


 勝負は来週の火曜日。シシノはなんだか、ショウタ君と仲良くなれた気がした。


 ~~~


 学校が終わって、全力で走って家路を急ぐ。シエラに今日の出来事を報告したかった。上手くできたかはわからないが、シシノを動かしたのは、彼女の言葉だ。ショウタ君と仲良くなれたのも、彼女の言葉があったからなのだ。


「ただいま! なあシエラ!」


 勢いよく扉を開ける。だが、シエラは出迎えには来なかった。玄関にはゆっくりと、ネネさん一人がやってきた。


「あれ、ネネさん、シエラは出かけてるんですか?」


 シシノの言葉に、ネネさんは困惑した表情を見せた。


「シシノ様、学校で、シエラ様とお会いにならなかったのですか?」


「え? あいつ、学校に来てたんですか?」


 どういうことだろうか。シシノはネネさんの返答を待つ。ネネさんの表情は、一層困惑したものになる。


「あの、申し上げにくいのですが、先程のことです。シエラ様のお家の方が、シエラ様を迎えに来られました。」


「……えっ?」


 動悸がする。心臓が動くスピードがゆっくりと上がっていき、体に冷たさのような感覚が広がる。それに反して、顔はみるみる熱くなっていくのを感じた。


「それで、……どうしたんですか?」


「はい……。シエラ様は、帰るご決断をされました。お家の、その男の方が言うには少し急いでいるご様子で……シシノ様へのお別れは、学校の校門までしに行くとおっしゃっていたのですが……」


「いや、会ってない……ですよ」


 ──なんだ。どうしてだ。なんでこんな急に。迎えに来たというのは、あの男のことだろうか。昨日はまだ、探していると言っていたのに。


「なぜでしょうか。シエラ様が、シシノ様にお別れの挨拶をすることなく帰るとは思えないのですが……」


「……シエラが出て行ったのは、どれくらい前ですか?」


「三十分ほど前です。シシノ様の学校が終わる少し前で、ちょうどいいからと、出ていきました。」


「それなら……学校が終わるのを待ってくれていたなら校門で会うはずだし、まだ学校についていなかったとしても、少なくともすれ違わなきゃ変ですよ」


 焦ってしまって、ネネさんに少し当たってしまうような物言いになる。


「シシノ様……」


「ネネさん……シエラは、どんな様子だったんですか? 帰るって決めたのは、本当にシエラなんですか?」


「ご決断をされたのはシエラ様ですが……、そうですね、私も引っかかるところがありました。シエラ様は、最初はもう少し待ってほしいと言っていたのです。しかし、なんと言うか、お家の方は、怪しげな雰囲気といいますか、言動が、説得というよりは、丸め込むような言い方をしていました。私が引っかかったのはそこです。彼は、これ以上思い出を作ったら別れが辛くなる──と、そうシエラ様に仰ったのです」


「それは……」


「私はシエラ様にもお家の方にも、またいつでも遊びに来てくださいと言いました。それなのに、あの言い方では、まるでもう二度と会えないようではないですか」


 もう二度と会えない。それは、確かにそうかもしれなかった。ネネさんはシエラがどこから来たのかなんて知らない。きっと遠くといっても、外国かどこかから来たのだと思っているのだろう。しかしそれは大きく違う。海どころか、空を、宇宙を挟んでいるのだ。──国ではなく、星が違う。この事実は、一度シエラが帰れば、そうやすやすとこのアパートにやって来れないことを、明確に示していた。


「ネネさん……シエラは、納得してましたか? 満足して、清々しい顔で、この家を出ていきましたか?」


「……いいえ、とっても悲しそうでした。お別れの言葉も、とても聞いていられないほど、苦しそうでした。」


「ネネさん、シエラにもう二度と会えないとしたら、嫌ですか?」


「当たり前です。シエラ様には、まだまだお話したいことがあります。着て欲しいお召し物があります。作りたいお料理があります。何度だって会いたいです」


「おれも、あいつに、このまま会えないなんて嫌です。礼も言ってないんですから。……ネネさん、二人はどっちへ行きました?」


「学校の方向には向かって行ったのを確認しています。気になってしばらくは見ていたのですが、ちゃんと学校へ行く道を歩いていました」


「わかりました。ありがとうネネさん」


 振り返って扉を開ける。


「行ってきます」


「行ってらっしゃいませ」


 走り出しながら、思考する。行く先はどこなのか。学校へ向かうというのが嘘だったのなら、なぜそっちの方向へ歩いて行ったのか。ネネさんをあざむくための行動だったのかもしれないが、もし途中まででも行く方向が同じなのだったら、シシノには一つだけ心当たりがあった。


 いちばちか、行動しなければ始まらない。自分の勘が合っていることを願いながら、シシノは、シエラと初めて出会った山へ向かって、全速力で駆けて行った。

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