第4話 シエラの事情

「「「ごちそうさまでした」」」


 三人分の声がダイニングキッチンに響く。

 本日の夕飯の献立は、ネネさん特製ドレッシングのサラダ、ミネストローネスープ、そしてふわふわ卵のオムライスという、彼女の料理レパートリーの中でも、上位を誇るメニューだった。


 シエラをこのアパートに連れて来たとき、夕飯の調理工程は、いちばん最後の卵を絶妙な加減で焼く、という段階に入っていたらしい。

 ネネさんはシシノを出迎えシエラを見て驚愕した後、「夕飯がもうすぐできますので、お二人とも、テーブルでお待ちください。そちらのお嬢様は卵のアレルギーなどございますか? ええ、ええ、大丈夫なのですね、私のオムライスは絶品ですので、ご期待してお待ちください」と言い残して、詳しいことは何も訊かずに調理に戻った。


 料理はタイミングが命。それを狂わせることをネネさんは嫌ったのだろう。

 どこかの界隈では、「鉄の女アイアン・メドゥーサ」と評されるほどの、ピシッとした性格だった。

 そして、そのまま楽しいディナーが始まったのだ。ネネさんとシエラはお互いの名前を確認した後、談笑している中で打ち解けたように見えた。


「ネネさん、とーっても美味しかったです! わたし、こんなに美味しいオムライス、生まれて初めて!」


 おかわりしたオムライスをペロリと平らげたシエラは、その感動を伝えた。


「お褒めいただきありがとうございます。シエラ様はとても美味しそうに食べてくださるので、私も作った甲斐があるというものです」


 食器をさげながら嬉しそうに答えるネネさんの声は、シシノがいつも聞く声よりも楽しそうに聞こえた。

 この家に客人が来たのは、今回が初めてのことである。それもあって、今日のネネさんはいささか上機嫌のようだ。

 しかし、食器を片付けおわりテーブルに戻って来ると、ネネさんはスイッチが切り替わるように真剣な表情になった。


「では、本題に入らせていただきます」


 「ピシッ」という音が聞こえるかのように、それまでの和やかな空気は、堅く、張り付いたものになった。それを感じとって、シシノとシエラも、真剣な様子でネネさんの話を聞こうと身構えた。


「まずシシノ様、シエラ様とは以前からのお知り合いですか? ご学友でしょうか?」


「まず」と言うからには、これからいくつかの質問が飛んで来るのだろう。

 身体が思わずこわばってしまう。

 ネネさんがこの雰囲気を醸し出したときには誰も逃れることはできないことを、シシノは知っていた。


「いや、シエラとは今日初めて、山の中で会いました」


「では、どういった経緯でこの家にお連れになったのでしょうか」


「えーっと、シエラは道に迷ってた、というか、途方にくれていた、というか……行くところがないと言うので、このアパートに泊めようと思いました」


「途方にくれていたとは、穏やかではありませんね。……シエラ様、ご自宅はどこにあるのですか? あなたのお家の方々は今頃、心配なさっているのではありませんか?」


 ネネさんの質問の対象は、シエラに切り替わる。

 家族については、シシノ自身も「何も訊かずに」シエラをこの家に連れて来たため、知る由も無いことだった。確かに、知らない人間の家に娘が泊まるということは、その家族にとっては心配もいいところで、個人の問題ではなくなってくる。


「私の家は、ここから遠いところにあります。家族はきっと……心配、というよりは、怒っていると、思います。」


 宇宙から来たということは伏せて、シエラは答えた。

 この状況で正直にそう言ったところで、信じてもらえるはずもないだろう。

 次第によっては、ふざけているのかと、怒られてしまう可能性もある。


「失礼ながら、事情をお訊きしてもよろしいでしょうか。ご家族の方々がいるとなれば、あまり無責任に、あなたをここにお泊めすることはできません。」


「……それ、は……そうですね、事情も言わずにお世話になろうだなんて、失礼なお話です。シシノ、さっきはごめんなさい」


「いや、そんなこと謝んなくたっていいよ、さっきの様子じゃ、きっと何かあったんだろうっておれは思ったし。あんまりその──必死だったから」


 謝罪に答える。実際、さっきはシエラの切羽詰まる物言いを聞いて、何も訊かずにこの家に連れて来てしまったが、シシノ自身もどうしてシエラがここまでやって来たのか、気になるところではあった。

 シエラは重たそうに口を開く。


「ずっと……仕事を、させられてたんです。そしてそれは、当たり前のことだと思っていたけど、気付いたんです。とっても嫌なことだって、ダメなことだって……。それで耐えきれなくなって、ここに逃げて来たんです」


 シシノとネネさんは、黙ってシエラの言葉を聞いている。シエラの話す様子は苦しそうで、させられていた「仕事」というものがどんなものなのか、訊く気を起こさせなかった。


「今はあの家にいたくないんです。あそこにいたら、わたしは幸せになれないんです。ここで、やりたいことがたくさんあるんです。どうかお願いです。ご迷惑はおかけしないつもりです。お手伝いすることがあるなら、なんでもします。どうか、少しだけでもいいので、ここにいさせてください」


 シエラはテーブルに両手をついて頭を下げた。その様子は、もはや頼んでいるというよりも、願っているように見えた。

 シシノは何も言えなかった。ただシエラの懇願する様を見て、彼女の状況を、事情を、苦しみを、想像することしかできなかった。

 きっとこの想像も、彼女の中にあるものには遠く及ばないのだろう。

 

 ――おれがこいつにしてやれることはなにか。


 少し考えて、シシノはネネさんに真っ直ぐ向き合った。


「おれからもお願いします。正直、おれもシエラにはさっき会ったばかりで、事情だとか家のことだとかは、今聞いたことしかわかりません。だけど、それが苦しいことだったってことはわかりました。ここでやりたいことがあるなら、それをしていってほしいとも思います。それに――」


 言いかけてシシノは口を止める。次の言葉を言おうか躊躇した。自分なんかが、こんなことを言っていいのだろうか――そう思った。

 しかし、言うしかない。それは彼にとって、どうしても伝えなければならないことだった。


「おれは……シエラとは少ししか話してないけど、楽しかった。シエラともっと、話がしたい。だからお願いします。ネネさん、こいつをここにいさせてやってくれ」


 頭を下げた。その動作は、頼みごとをするためだけのものではなかった。シシノにとってはあまりに決意が必要な発言に、熱く、赤くなった顔を隠すための行為でもあった。


「……おふたりとも、お顔をあげてください」


 しばらくして、ネネさんは沈黙を破る。


「シシノ様……そんなにはっきりとご自分の意思を伝えてくれるのは、初めてのことですね。お気持ちはよくわかりました……。そして、シエラ様。事情はまだはっきりとは、わかりませんが、随分とお苦しみのご様子で……嫌な事を訊いてしまい申し訳ありませんでした」


「いえいえ、そんな! ネネさんが謝ることなんてありません!」


 頭を下げるネネさんに、シエラは慌てた様子で声をかける。


「いいえ、これは謝罪の気持ちです。シエラ様、お家に心苦しい事情があるならば、ここにいてくださって構いません」


「本当……ですか? ありがとう、ございます。ネネさん、わたし、とっても嬉しいです。その……なんとお礼をいっていいか」


「お礼なんて結構です。それに……差し出がましいかもしれませんが、ご家庭からなにか酷い仕打ちを受けているならば、私もお力になりたいと思うのですが……」


「ありがとうございます。だけど、それは大丈夫です。酷い仕打ちというのとは、少し違うんです。いずれ戻らなくてはならないと……わたしは考えています。お気持ちは本当に、本当に嬉しいです。ありがとう、ネネさん」


「そう……ですか。ですが、辛くなったならいつでも頼ってくださっていいんですよ。それを忘れないでください」


「ありがとう。ありがとう、本当に……」


 感謝を繰り返すシエラの目には、涙が浮かんでいた。


「シシノも、本当にありがとう!」


 シシノへ視線を向けたシエラとネネさんは、その光景にギョッとする。


「おう、全然気にすんな!」


 机に頭を下げたまま、親指を立てて元気に答えるシシノ。

 情けないことに、顔の紅潮とその熱は、全然引いていってくれないのだった。


 ~~~


「では失礼します」


「うん、ありがとうネネさん」


 話し合いが終わると、ネネさんはシエラを連れて五号室を後にする。そして隣の六号室の扉を開いて中に入る。

 五号室のようなダイニングキッチンはなく、小さいキッチンと、お風呂の入り口が壁側についている短い廊下、そして扉を挟んで、七畳ほどの洋室が一部屋という造りになっている。


「ネネさんとシシノは、一緒に暮らしてるんじゃないんですか?」


「いいえ、私の部屋はこの六号室です。……このアパートは、丸ごとシシノ様のものなんです。お側にいやすいよう、私はこの部屋を使わせてもらっていますが」


 ベッドの横に布団を敷きながら、ネネさんは答える。今夜、シエラはネネさんの部屋で寝ることになったのだ。


「へえ……アパートのことも気になるけど、ねえねえ。ネネさんとシシノって、どういう関係なんですか?」


「ふふふ。ただならぬ関係ですよ」


「わお。すっごく気になる」


「気になるのならば、そうですね、お風呂に入った後、シシノ様に訊いてみたらどうですか? まだ寝るには少しばかり早いですし」


「そうします! おふたりの関係、解き明かしてみせますよ!」


「頑張ってください。寝巻きは、私のものを使ってください。サイズは少し大きいかもしれませんが……そうだ、明日お買い物に行きましょう。色々用意しなくてはなりませんね」


「……本当に、なにからなにまで、ありがとうございます。ネネさん」


「ふふっ。いいんですよ、私もこんな可愛らしい女の子とおしゃべりができて楽しいんです。ガールズトークというものです」


 喋っているうちに、軽快な音楽がなった。どうやら風呂が沸いたようである。


「さてさて、お風呂が沸きましたね、では入りましょうかシエラ様」


「えっ、一緒に入るんですか?」


「当然です、お湯が勿体無いですし、このアパートのお風呂は広いですから、何の問題もありません」


「……なんかよくわからないけど、一緒にお風呂だなんて、楽しそう! 入りましょうネネさん!」


 シエラが答えると、ネネさんは「にやり」と不敵な笑みを浮かべた。シエラはそれを見逃さなかったが、気にすることなく風呂へと向かった。



 ~~~


 バフンっ、と風呂上がりのシシノはベッドに飛び込む。

 不思議な気持ちがして落ち着かない。誰かとあんな出会いをするだなんて、考えたこともなかった。

 あの草原から始まった出来事を思い出すと、その全てが新鮮に感じて、シシノの心は高鳴った。


 ――でも、でもよぉ、普通はこういう状況になったら、一つ屋根の下ドキドキの展開が待っているもんじゃねえか? 間違えてお風呂の扉を開けちまって、「キャッ、シシノくんのえっち!」みたいな、そんな展開が――!


 シシノは妄想を広げる――それは思春期なのだから当然のことであるが、しかし鍵でしっかりとプロテクトされたアパートの部屋同士では、こんな展開が起こりうるはずもなかった。


「って、ダメだダメだ! なに考えてんだおれは、このドスケベ野郎!」


 ベッドの上に座る体制をとって頭を振り、自分を叱責する。


 ――自分を頼りにしてくれている女の子に対してそんな想像をするなんて、男がすたるぞヒノミヤ・シシノ――!


「集中しろ、集中。別のことを考えろ。そうだそうだ、明日の学校のことでも考えるんだ。ああ、体育があるんだった、どうしよ〜どうしよ〜」


「どうするの?」


「とりあえず出席だけは……って、うわわっ!」


 いつの間にかベッドの隣に、シエラが立っていた。


「な、なんでおれの部屋にいるんだよ!」


「寝る前にお話しようと思って」


 そう言うシエラの髪は、完全に乾いていないのか、水分を含んで、しっとりと艶めいていた。頬は上気してうっすらと赤く、寝巻き姿も少し緩く、なんだか見てはいけないような雰囲気を感じる。

 簡単に言えばお風呂上がりなのだった。


 シシノはさっきの想像を思い出し、心底、アパートが鍵で仕切られていることに感謝した。


 ──お風呂上がりの姿を見ただけで、こんなに心臓がバクつくなら、きっと、さっきの想像のような状況になってしまったら──。


「おれ、死んでたかもーー」


 バフンっとベッドに倒れた。


「えっ、どしたの急に」


 ――シエラにこのことは言えねえ……。


 さっきの妄想は永遠に胸の中にしまっておこう──シシノはそう思った。

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