馴初
大学の授業が始まる。
それも少し前、教室に入った僕は座れる席を探して歩きまわる。そこに一つどこか懐かしい場所を見つけた。確かここは。
低く威厳のある声がはじける。それと同時に古めかしい黒板が脈打つ音も聞こえる。その音と声につられて僕もはじける。しばらくは耐えていたが、もう既に限界のようだった。僕が今何をしているのかわからなくなるほどに眠気が襲ってきた。睡魔だ。敵襲だ。迎撃しなければならないが僕の常備軍はもう既にボロボロだった。僕の城は三日天下だったようだ。ボールペンを握る力が弱まっていく。睡眠へと落ちるその瞬間、机に落ちたボールペンの音が聞こえなかった。
どれほど過ぎただろうか、ほんの気絶状態から覚め始める。右肩付近には鋭い感触があった。ひとまず『よだれ』はあるかと確認しつつ、鋭い感触の出所は何かと首振り扇風機で回す。人影・人・手・腕・胸・顔・髪。華奢で白い腕を露出させた服装ですらりと伸びた指。出るところは出て実っている。相応以上に整った顔をもっていて、いわゆるかわいいと言われる顔だろう。ゆるく内まきにしたショートボブ。正直に言えばその瞬間に僕は見惚れていた。そんな彼女が、スペックの高い彼女が今、授業が終わったのであろう教室の中にいるのか理解はできないが、そもそも見たこともない人だった。けれど少しだけ汗ばむ陽気の中で一番の輝きを放っていたと思う。同時に一抹の恐怖を感じていた。中の下、特に取り柄などない『私』にはいてもたってもいられないような人物だった。下半身は少し反応していた。そんな自分に嫌悪を感じつつ勇気をもって彼女に話しかけた。
今の彼女に出会う一連の物語。ちょうど一年前の物語だ。僕だっていまだに彼女と出会えた運命などわからない。わからないが幸せだ。
今思えばこの頃からだった。僕が僕であるか分からなくなったのは。とはいってもこの頃の僕には気がつくことなどできないほどに些細な変化にすぎなかったのだ。
見方を変えれば恋とやらが僕自体を大きく変えたとも取れる。僕は彼女のその美貌に、僕のタイプの着飾らない清潔感と強くない清涼感、髪型だって完璧だったし他にも目元が美しいのだ。そんな存在に魅了されていた。話を戻せば授業の後、教室内の中でも冴えない人間に世間的にも上位であろう人間が歩み寄ってきたのだ。
話しかけてきたことだって意味不明だったけれど、それ以上に話しかけてきた理由が謎。授業のノートを写すか、なんてことを尋ねてきたのだ。僕にだってそれくらいを聞く人脈はあるし、週に一回程度ではあるがよく遊んでいるグループだってある。今日はたまたまいないだけで彼女がわざわざ話しかけてくる必要などもちろんのことながら一切としてないのだ。教室の中に彼女を見つめるような影はなかったから悪意のあるゲームの参加者、被害者ではないようだ。彼女の異様なコミュニケーション能力によってとんとん拍子で物事は進んでいってしまった。
僕にもわからないくらいに突然にやって来て去っていく、夕立が如く。僕の手元に残った彼女の連絡先。緑のアイコンの中に秘められた僕らのそれこその夕立のような関係の始まりだとそう思った。そう思っただけだった。
バイトも終わった休憩室。スマホの光には23:30と示されていた。職場は楽しいし、温かい、何よりもやりがいがある。また明日もここに来ることを約束して寒暖差の大きいコンクリートの帰路を辿る。流行りとはかけ離れたバンドの歌を半径ゼロセンチメートルで流し、途中で日課になってしまっているブルーライトを浴びて連絡を確認する。緑のアプリアイコンに『2』の連絡。どうしても今日の授業終わりのあの出来事で期待をしてしまっていた。あのショートボブを隣で味わいたいと、かみしめたいと思った。春先の派手色に包まれた軽めの服装に、夜でも暑い日がやってきて肌の露出が増えたことを嫉妬して、季節も移ろいで薄小豆の落ち着いた服装に袖を通している姿を見ていたい。冬場のマフラーで膨らんだボブの髪もみてみたい。そんなことを等間隔のLEDの妄想にぽつぽつと膨らませていた。既読も出来ずにずいぶんと歩いたようだった。
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