夢現
朝の光なのか昼の光なのか分からない。今分かるのは彼女と愛し合っていた夜はもうここにはないことだけだ。ベッドの中は数時間が経ったのであろう今でも温もりが感じられた。彼女はというと寒くなってしまったのか、掛け布団にどこからか持ち出した毛布を重ねて生首状態で眠っていた。僕はそれを愛らしいとおでこにそっと唇を置きに行った。眠りが浅くなっていたのか、そっと目を覚ました彼女は寝起きとは思えない顔つきで『おはよう』と言ってよこした。僕もそれに応え、またベッドを軋ませた。
本当の僕らの朝が始まった。何も変わらないいつもの朝。休日はいくつになってもゆったりと愛し合い、その心持ちで昼になった朝ごはんをたしなみたいとそう思う。
ケトルに水が注がれる音がする。蛇口の捻られる音。電源を押しやる音。数分間を待つ鼻音。僕も準備する時が来た、とのぼせた銭湯のように立ち上がった。立ち眩みも勢いで乗り切り、彼女が立つ台所で、後ろから抱きしめてやった。そうしてやりたいくらい美しかったのだ。 僕には軋む音が聞こえる。頭を肩に置き、微笑をかわしながら捕食活動について尋ねた。どうやら手抜きでカップラーメンらしい。まあ、それもいい選択だとひそかに頷く。ケトルに水を入れていた理由はこのためだったようだ。そうくだらないことを考える間も彼女を全身に感じつつその湧き上がるまでをじっと見つめていた。
二分ほど経っただろうか、そこには断末魔の叫び声をあげた水の姿があった。形も大きく暴れまわり、換気扇に吸われていく。まるで妖と対峙している祓い人のような気分だった。まあ、もっともそれは僕ではなく彼女の方であるが。進退は五分五分。大部分は吸われているように思うが、湯気も負けまいと永遠かのように湧き上がる。
勝者はどちらか。
蒸気の中、秒針の時を進める音さえ聞こえない静まり返った部屋にお湯が注がれる。沖立つ船の白波が如く泡がたつ。それらはたちまちに僕の夢とともに弾けて飛んだ。うつつがはじまるとともに、視界がはっきりとして、色もついていた。ふたり暮らしの始まりだ。
彼女への配達途中に時計に目をやると、三時二十二分。僕らが寝たころの刻。
「電池変えなくちゃ」
彼女は机と重なり眠っていた。仕方なしに肩を小突いて起こす。喘ぐように息を零しやっとの反応という素振りをみせる。これすらも仕方なしにわり箸を割き、手元まで近づけてやった。鬼じゃない、欲にさからうことは僕だってさせたくない。二度寝にどれほどの快感があるかはおそらく周知の事実というやつだ。昨夜のまぐわいと対をなすだろうこともわかっている。だからこそ欲にはさからってほしくない。それでも人であるなら理性を保ったままに生きてほしいとも思う。
矛に弾き守られ、盾に突き刺される僕だ。
彼女の瞼もようやく開いていく。徐々に現の人間としての生活を演じ始めた。手を抜ききった朝ごはんに気がついたようで、すでに割かれたわり箸を手に、やわらかくなった麺をすくう。僕が食べた匂いが部屋の中に再び充満する。決してすすらない彼女の食べ方を対面の席で片手にブルーライトを持ちながら見つめる。すすらずに箸で麺をつまんで口に運び、いっぱいになれば断ち切る。
『ブチッ』
何故かそう聞こえた。きっと僕にしか聞こえない音だ。僕も彼女の横のカーテンの隙間から伸びる光をすくった。
今日も僕は大学生活だ。バイトに勉学、二人で払う家賃や光熱費。それらを折半して生きてきた。それこそ幸せや悲しさなんて目に見えないものだって分け合ってきた。サークルなんてものにも群がらずに僕はこの手でこの幸せを積み上げてきた。もうこれ以上何も望まない、このまま死んでさえいいとも思っていた。それほどにこの幸せの奴隷となり、血肉を分け与えていたのだ。
最近では時好は流れていた。浮気というものにはつながりはしないものの落ち着いてきたことは確かだ。この幸せにも物足りなさを感じてきたといっても反論はちっともできなかった。この自堕落が身体に似合ってしまったのだろうか。耐性という根が広がったのだろうか。
今日も今日が始まる。普段の平凡な人生の平滑な道。重々しいドアを押し開ける。人の気持ちなんて考えない太陽が宙に浮かび、腹が立つほどに綺麗で甘美な姿を朝と昼の間を漂っていた。そんな日差しに舌打ちを張り付けて少しだけ汗ばむ陽気の中、今日も今日として一般になりきって通学する。ただ日常を通過して、日常を適用させているだけだ。たまらない。
それまでの僕は、人間は、マネキンであり、死体であり、家畜だった。それが諸々人の形を成して、アンデッドとして歩き出すのだから。はたして僕は、『私』はどちらなのか。死体なのか生きているのか、アンデッドとは本当は生きているのではないか。そうして皆は知能をつけ始めたのではないかと慮る。
もしもの話、僕が一般をなりきって生きているのだとしたら、それはもう既に二重人格と言っても差し支えない。そうでなければ、僕と『私』のその両者は同一人物なのか。
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