第3話 消しゴムが飛んできた!
「消しゴムって最後まで使い切れないよね」
そんなことを急に言い始めるものだから、返答に困っていた。
「あれって、最後まで使い切れないように訓練されてるんだよ、絶対」
彼の意見は十分に理解できた。ぼくも使い切った記憶は一度もない。けれど、今このタイミングで言う人がいるのだろうか。地区大会の決勝戦。この試合に勝てば都大会という大一番で言えるメンタルを疑った。ベンチで観戦していたぼくらは一軍と二軍の間の中途半端な立ち位置にいた。何かがあれば真っ先にぼくらが交代に出されるようなそんな立ち位置。ポジション『センターベンチ』を体言化したようなぼくらだ。他の部員よりは確かに上手いことは自負していた。けれど、試合に出たいかと言われれば首を縦に振ることはためらわれる。高校三年の試合に出てミスでもしたら命とりだ。そんな緊張感を浴びながらプレーをし続けられる自信がない。
『頼むから足はつらないでくれ』
とそう願ってやまないベンチ陣だった。
けれど、コイツは違っていた。ここまで来て試合に出たいでも出たくないでもなく消しゴムの話をするのだ。心臓に毛穴の花園でもあるかのようだった。
「今それ話すべきか? 俺、緊張して試合から目が離せないんだけど」
何の表情も見せずに彼は答える。やはり毛が生えているだけでは済まないメンタルだ。
「そうなの? 気楽に行こうよ。楽しまなきゃ」
感服する。この逸材はモチベーションだけを取ればプロと遜色ない活躍を見せてくれるはずだ。今思えば彼のコンディションは毎日のように絶好調だった気がする。
熱戦を熱戦たらしめる歓声は申し分ないほどだった。ボールを取れば一声歓声が湧き、一人かわせば二声、三声と湧き上がる。シュートでも放ってみろ、地面に手をつけば地響きが感じられるほどだ。この感覚が高校サッカーだ。これこそがぼくらの求めていた青春だ。
「そういえばさ、先週さ勉強してたら、消しゴムないことに気づいてさ。萎えてやめたんだ」
報告された。なんでもないことを報告された。そしてまだ消しゴムのことを引きずっている。監督に怒られてしまえばいいのにと思うが、今は公式戦。監督もコーチもピッチに釘付けでまるで周りが見えていない。応援をしてようが雑談をしていようが怒られようがない。このことを知っての行動かコイツはずっと消しゴムの話を引きずっていた。
『消しゴムはさ優秀だよな』
『学生は消しゴムの上に成り立っていると思うんだ』
『デザインが変わらないのは消しゴムくらいだよな』
そうやってずっと呟いていた。ぼくの介入の余地はどこにもなかったように思う。時々、疑問文でこちらまで届いているような気もしたが、気のせいということにしておいた。ぼくはいつ出るか分からない緊張でピッチから目の離せない監督のようだったからだ。
前半が終わり、スコアレスドロー。汗と友達になった先輩たちが悠々と帰ってくる。今のところ誰も体力が底を尽きるような素振りは見せていない。これはぼくにとって相当な利点だ。ベンチを開け、体温の四分の一ほどの冷たさになったスポーツドリンクと水を手渡しに行く。仲のいい先輩には褒めつつもアドバイスと声援を送り、監督のもとまで送り出した。背中を押しだしたぼくの手はぬるい汗に浸っていた。ベンチに座る先輩たちを背にぼくらはボールを取り出して球蹴りを始める。
ショートパスから始め、だんだんと距離を取っていく。ロングパスへと変わるのにそう時間はかからなかった。コートの端から端へのロングパスを正確に沈めていく。ぼくは正直ロングパスに関しては得意じゃないからバウンドなしで向こうサイドまで届かないこともしばしばだ。けれど、彼の蹴り上げるものは天下一品だった。トラップのしやすさを極めている。
ふわりと浮いた軌道。ライナー性の強い軌道とたくさんの蹴り方を試し、早々に十五分が過ぎた。額には一滴の汗が輝く。一方ではケロッとしている姿が右にあった。
「やっぱりさ、消しゴムってすごくない?」
根気強く粘られ、ぼくが敗北した。
「え、どゆこと?」
「いや、何でもない」
してやられた。彼の口車に乗せられた。監督の目がぎょろりとこちらベンチ陣を凝視していることに気がつかなかった。けど、この観察も交代枠を考えているだけだったりもするから当てにならない。
監督の目がピッチへと戻った。
本当に焦った。出るかもしれないという焦りと怒られるかもしれないという焦りで心臓が喉から飛び出そうだった。そんな状況でも右隣の強心臓は何もなかったかのように試合を眺めていた。
後半戦が始まって早々のことだった。ぼくのイチ押しの先輩が裏へ抜け出し鉄壁守備をこじ開けた。熱気に包まれるサッカーグラウンド。ベンチでは大騒ぎのサンバ状態だった。そんななか、ぼくらは試合の分析していた。というよりもぼくに関しては緊張で心の底から喜べていなかっただけの話だ。コイツはまた別の話だが。もしかしたらコイツには心が無いのではないだろうかとそう思えるほどだった。
後半戦も折り返し地点。強心臓は軽いアップから呼び出され、監督の下で何やら指導を受けている。どんな指導だろうか。タイキが歩き始める頃にぼくも自動的に呼ばれた。グラウンドが冷たくなっていた。左サイドハーフ。足の早さが自慢の爆速ドリブラーが倒れこんでいる。足がつってしまったのだろうか。ここは、おそらくぼくはこのままの交代だろうと監督のもとまで小走りで向かう。
「センターバック。行ってこい」
二秒の間にそれだけ言われ、背中を強く押された。この大舞台でセンターバックらしい。ぼく自身何を言われているのか理解できなかった。
五分が経ち、ここまでは何の変化もなく試合が動いている。ぼくらのサイド攻撃は相変わらずの強さを示していた。相手の攻め手はカウンター一本。それだけの単調な攻めだが、その単純さに反して破壊力は抜群だ。自陣だろうが、敵陣だろうがボールを奪えばそのままロングキックで裏を狙ってくる。ぼくの前で一度バウンドするボールが一つ。相手のフォワードが尋常じゃないスピードで突っ込んでくる。焦りが出た。
振り上げたぼくの足は標的に当たることなく空を切った。ぼくの足がつく前に相手フォワードがボールをかっさらってゴールまで進んでいく。追いつける距離ではなかった。そのままキーパーとの一対一を華麗に沈めて同点へと詰められた。
放心状態のぼくの背中に熱い紅葉が出来上がった音がした。背筋がピンと伸び、集中力が戻る。残り十分程度の長い試合だ。
結果的に二対一で勝利をおさめたが、監督にはこっぴどくしかられ、先輩にも結構凹むことでからかられた。同期のメンツからもいじられる始末だ。
『消したい』
「消したい」
この小さな声も空虚なグラウンドに吸い込まれる。
翌日の練習はいつも以上に精が出た。みんなを見返すためにいつになく一生懸命に動き続けていた。一時間半ほどの軽い練習が終わり、各自解散になった。未だに放心なぼくが歩いていると前から強心臓がこちらを目指し歩いてくる。ぼくのもとへと来ると手に握り締められていた消しゴムをぼくの胸元へ放り投げてきた。
「やっぱり訂正。消しゴムはすごくないわ」
『なんでも消せるわけじゃないんだな』
心の声が漏れていた。そのくらいの声で言うものだから聞き取りづらかったが、ぼくの耳にはなぜかはっきりと聞こえた。歩き去っていく背中にぼくは確かに大きなものを見つけた。まだ照り残る八月の終わりのことだった。
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