第2話 スティックのりが飛んできた!

 「やあ!」


 そういって爽やかに現れたのはぼくの親友であるタイキ。通称疫病神だ。この名前はぼくが名付けたのだけど、ぴったりの名前だなと今でも時々思い出す。サッカー少年で毎日のように球蹴りをしているようなお調子者だ。

 疫病神の所以についてはたくさんの例がちりばめられているけども、ここ一カ月だけの話で言えばついこの前は歩いているだけで町の名物おじちゃんに絡まれるし、塗装工事のペンキがかかったこともあった。しかも必ずタイキがその場にいるのだ。だから、不幸なことがぼくらにのしかかればそれだけで無条件にタイキが一度疑われる。かなり理不尽な言い分だ。けれど本人はだいぶけろっとしていて、なんならそれを言われるたびに笑顔になる。『俺って神なんだ』とか言って。これを通称タイキ節とも言うのだ。


 「今日はどうしたの?」


 タイキ単体がぼくに話しかけてくるときは決まって何かがある。だからこうして聞くようにしている。


 「んー……別になにもないかな」


 驚いた。今日は何の意味もなく寄ってきた。だったら何を意図にここまで来たのだろうか。目の前ではサッカーをして遊ぶ仲間の姿もあるのに。驚いた拍子を隠すために問いかける。


 「遊ばんの?」


 「いや、今日はいいかな。蒸し暑くて汗かいちゃうし。」


 「そっか……」


 要するに、ぼくに疫病を振り撒きに来たということになる。なんとも面白い冗談だ。仕方ないので、適当な相槌で誤魔化しながら一つのボールに群がる汗をタイキと二人で眺めていた。


 幾時か流れたころ、シンナーのような鋭いにおいがだらだらと漂ってくる。このにおいはガスステーションと同じで好き嫌い論争の絶えない話題だ。ぼくはもちろん好きではない。しかし、一定数好きな人はいるのだ。この感覚を共有したくなって沈黙を割いて話しかける。


 「ねえ、タイキはのりのにおい好き?」


 グラウンドを見つめ続けるタイキは注意散漫ながらに答えた。


 「そうだな……結構好きかも。けどこれ言うと中毒者って言われるからな……」


 明らかに三点リーダーの使い方が変わった。ぼくらお得意の三点リーダーに意味が隠れすぎていてうんざりする。けれどタイキの言い分はもっともだった。仲間とこの話題で語り合えば一人は好きな人が現れる。そうなれば、たちまち人の心の目が光る。『中毒者だ』と言葉を浴びるだろう。タイキは実に細かいところまで考えていたのだ。いつも見せる姿とは違うギャップにやられた。

 ぼくはタイキの応答に何も答えられずに、また沈黙がぼくらの空間を占める。背を丸めながら肘と膝をくっつけて横目でタイキの脚を見ていた。『走れメロス』にでもなったかのような脚に驚愕する。


 「痛った!」


 後頭部の痛みのなか、軽い衝撃音が何度か弾んでは消えた。タイキがこちらを覗き込み、凝視していた。後頭部をさするとコブができていることが分かる。背がもっと丸まり収納されて九十度の三角定規のようだった。タイキが落ちてきたものを拾い上げて見せてくる。


 「のりだったよ。落ちてきたの」


 きょとんとしたタイキの手を見ながらぼくは思った。


 『そらみろ、厄災だ』


 ここまで来るといよいよだ。これもまた神だからといって喜ぶのだろうな。痛みが緩やかな曲線状に和らいでいく。校庭の太陽にも隠されたベンチに腰をかけたぼくらは同時に頭上を反り返るほどに見上げた。ゲームのせいでいためた首がより一層目立つ。そのまま一年三組で騒いでいる姿が視界に映された。後輩の仕業だ。腹もたつけれどそんな悪ふざけも可愛らしく見えてしまうのはなぜだろうか。高校生活で初めてできた後輩だからかもしれない。

 隣にいたはずのタイキはのりを含め、いつのまにか姿をくらましていた。お調子者のタイキらしいといえばその通りであるが、まったく実体の掴めない人間だ。


 昼休み後の数学の授業。ただでさえ眠くなる公式の教科書が疲れを重ねてよりいっそう眠くなる。そうなってしまえば男子生徒目線では睡眠授業へと変貌する。男子の半数は机との距離がゼロセンチメートルにまで近づいて、まるで机と恋人のようだった。窓から流れる声と先生の抑揚のない声が絡み、なぜか心地がいい。水泳の後の退屈な授業みたいだった。チョークの音が擦りながらも跳ね、女子による板書の手は留まることを知らない。一定数の男子が女子にお世話になるのは仕方のないことに思える光景だ。辺りを見渡していたぼくも一度だけ机と恋人になってみる。机のひんやりとした感触が全身に伝わる。このままでは睡眠に落ちてしまいそうだからと無理やりに身体を起こす。椅子に浅く座り足を極限まで伸ばして前の席の友達にいたずらを仕掛けてみる。眠気覚ましの軽いいたずらだ。


 「痛った」


 小さく声が零れた。実に痛かったが、重い痛みではなかった。軽くて鋭い感じの痛みだった。教師の目を少し注意しながら後ろを振り向く。屈託のない笑顔でタイキがこちらを見ていた。手にはさっきのスティックのりだ。なぜ今のタイミングかさっぱりわからないが、この落とし物を投げてきたことで間違いない。声を出したらさすがの老人先生でも気がついてしまうだろうとぼくとタイキは手紙をまわし始めた。

 

 <なんでぶつけてきたの?

 

 <いや、なんとなく。


 <え、気分?


 <それよりさ、絵しりとりしよ


 <わかった


 この言葉を皮切りにクラスのなかの左端、2×3の机の範囲で絵しりとりが始まった。粛々と進められるその光景はおよそ言葉では表せないほどに緊張感があった。絵しりとりの細かいところは覚えていないけれど、ちいさなメモ書きの青春はぼくの目にまじまじと映された。順番はタイキの次にぼく。ぼくの後に絵に趣のある男子。タイキとぼくも絵は時間をかければ上手くできるが、時間と綺麗さの勝負ではぼくらのターンでしりとりが伝言ゲームと化す。ぼくのターンが五回目か六回目でタイキのキラーパスに反応できず、授業終了の鐘が鳴った。


 「起立・礼・着席」


 号令の後、すかさずぼくらは寄り集まる。答え合わせ大会が始まった。十分休憩はぼくらの宝物で五十分授業もその一部だった。この宝物も今日はあと一時間。明日は七時間と繋がれていく。こうやって大きく広くなれば、端の宝、記憶はほこりをかぶって消えていく。タイキが理由もなくスティックのりを投げてきたことだって数日後には忘れているだろう。


 そうやって時間は過ぎていく。


 そんな悲哀に包まれたオレンジ色の坂道で考える。


 『この宝物を繋ぎ止める術はないのだろうか』


 「貼り合わせることが得意な君ならできるでしょ」


 そう呟いてみるも、何も返事をくれない手のなかのスティックのり。ぼくはこの宝物に宝物を託したのだ。それだけが、ぼくの願いだった。

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