第4話 お見舞い
私の号令と共に、一行はゾロゾロと望月家を後にした。
フォーメーションとしては行きと同じく、私と律を先頭に、後ろには紫たち三人が付いて来る形となった。
直前にお菓子を作った事によって、駅ビルやショッピングモールへの寄り道という当初の予定が消えた事によって、脇目も振らずに駅前を素通りして病院へと向かった…のだが、その駅前を通過した辺りから、何やら些細ながらも異変が起きているのに気付いた。
というのも、外にいる故に環境音がアチコチから聞こえているにも関わらず、後ろからクスクスと笑みが漏れるのが、しかと耳に入ったからだった。
足は止めないままに、一体何事だろうと後ろを振り返ってみると、想像通りだったが、紫たち三人が一様にニヤケ面を浮かべていたのが見えた。
と、そんな私に気付いた皆は、一瞬は慌てて真顔に取り繕うとしたようだが、その頑張りも一瞬にして諦めたらしく、三人がほぼ同時にまたニヤケ面を浮かべ始めた。
「…ちょっとー、一体なんなのよ?」
と私が後ろを向きながら、つまりは後ろ歩きをしながらジト目を使って声をかけた。
前方は律が気をつけてくれていると、中学二年生以来の信用があった為に、このような行為が出来たわけだが、振り返って見た紫たちの様子から、もう一つの違和を覚えた為に、私は続けて声を漏らしてしまった。
「…って、何であなた達、そんな少し離れて歩いているのよ?」
と直後に正体に気付いた私は、覚えた疑問をそのままそっくりぶつけた。
そう、今言った通りに、私の家に行く時と違って、間に数人が入れそうな程に私たち二人と紫たち三人の間に隙間が出来ていたのだ。
私からの続け様の質問を受けて、三人は一度私から顔を逸らして顔を見合わせあうと、時間をおく事なくすぐにクスリと微笑み合い始めた。
それから揃ってこちらに顔を戻すと、代表して紫が口を開いた。当然というか、意味深な笑みは続けたままだ。
「いやぁ…ふふ、だってさ?さっきからすれ違う人が、すれ違いざまに振り返って琴音と律を見ているんだもん」
「え?」
と私が聞き返すと、「そうそう」と藤花がすぐさま乗っかたが、そのまたすぐ後で、「やっぱりねぇ…」と、前の二人とは一味違った様子で麻里が加わった。
「…?何がやっぱりなのよ?」
と、丁度というか信号が赤となったので、皆がほぼ横一列に並んだその時、一度隣に立っている律に顔を配ってから、紫と藤花を挟んで端に立っていた麻里に聞いた。
すると麻里は、小難しげな表情を浮かべてかと思うと、そのわざとらしい真剣味を残したまま口を開いた。
「いやぁ…ほら、私がさ、『琴音ちゃんと律ちゃんは、学園内、少なくとも同学年内ではお姫様と王子様だ』っていつも言ってるじゃない?そう言うと、すぐに二人は否定してくるけど」
「ふふ、当たり前でしょう?ね?」
「ふふ…うん」
と、私と律とで苦笑交じりに確認しあっていると、そんな態度に対してなのだろう、麻里は大きく溜息を吐いて見せたが、しかし今度は徐々に表情を緩めていきつつ言った。
「でもさぁ…えへへ、これは私たち学園の中だけじゃなくて、実際にこうして琴音ちゃんと律ちゃんの二人が揃って歩いていると、全く何も知らないはずの普通の人の目にだって、ついつい止まるもんなんだなぁ…って思ってさ?」
「…は?」
と、今だに状況を飲み込めていない私と律が同時に声を漏らす中、麻里は最後にとびきりのニヤけ顔で言い終えた。
「えへへ、我らが学園が誇るお姫様と王子様のコンビは、中々にやるもんだなぁって嬉しくなったよ」
「あははは」
と藤花が明るく笑い声を上げたその時、私から何か反論を返そうとしたのだが、信号が青に変わったので、ゾロゾロと通りを渡る間にタイミングを逃してしまった。
「それに麻里が気付いてからさー?」
と、また元のフォーメーションに戻ったので、私の背後にいた紫が引き継ぐように口を開いた。
「もうそれなりに長い付き合いのはずなのに、琴音と律が並んで歩くと、それだけで結構目立つんだなって今更ながらに藤花と二人で気付いてね?それで…ふふ、試しにあなた達から離れて眺めてみようと思ったわけ」
「そうそう」
と藤花が後に続いた。
「少し離れたところから見れば、客観的に見れるしさー」
「もーう…藤花ってば」
と、ここにきてやっとと言うか、藤花の言葉に対してようやく律は声を発したが、しかしこれ以上は続かず、ただ身体は進行方向正面にしながら、顔を少し後ろに傾けつつ苦笑するのみだった。
「まったく…」
と、そんな王子様の代わりに、私は仕方なくいつも通りに二人分の反論をする事にした。
「また妙なことを言って…私と律が一緒に歩くからって、一体それが何だって言うのよ?勘弁してくれるー?」
と、まぁこんな調子で、反論にも何にもなっていないのが実情だったが、そのせいもあるのだろう、結局は私の言葉は三人が愉快げに笑う事で流されてしまい、これ以上何を言っても暖簾に腕押しと、最後はそのまま”うっちゃっとく”事にして、私と律とでやれやれと空笑いをし合うのだった。
そんなクダラナイやり取りをしていると、いつの間にか病院の正面玄関に到着した。
「おー…近くで見ると、本当に大きいね」
「綺麗で立派な病院じゃないの、あなたの病院」
と言う感想を受けて、それに適当に相槌を打ちながら、正面玄関から堂々と足を踏み入れた。
中に入ると、整形外科病棟に向かう道すがら、私たちは夏休みとはいえ一般的には平日の午後というのもあり、そんな病院内で五人で固まって歩く女子の集団は目立ったのか、前回裕美のお見舞いに行った時よりも、すれ違う顔見知りに始まり、それ程知らない人からも声をかけられてしまった。
その度に私が愛想笑いを浮かべつつ適当に応対しているのを、この時は空気を読んだのか何も言ってこなかったが、しかし直接は見ずとも、私の身体全体へ向けて好奇の視線が四方八方から注がれているのを肌感覚で感じ取っていた。実際に、たまに視界の隅に数名の顔が入った事があったが、その顔にはパッと見では感心した風な、それでいてやはり興味津々で仕方がないと言う心内がありありと表に表れているのが見て取れるのだった。
さて、そうこうしている内に、やっと本日における本来の目的地である裕美がいる病室の前に到着した。
先頭を歩いていた私は、なんとなく前で立ち止まり腕時計に目を落とすと、何やかんやあった割には、面会予定時刻丁度だった。
一度病室の扉横に貼ってある名札を見て、『高遠裕美』と書かれた板と、それ以外は空白なのを確認してから、一旦後ろを振り返った。
見た皆の顔は、普段通りに見えなくもなかったのだが、これは薄暗い廊下の照明がなせるワザか、どこかしら表情が暗く、何となくどの顔にも不安の色が浮かんでいるように見えた。
そんな皆に対して、何となく微笑みを浮かべて見せてから、「さてと…じゃあいよいよ、中に入るわよ?」と声をかけると、私は返答を待たずにそのまま、引き戸式ドアの取手に手をかけて、そのまま間を置かずに横へとスライドさせていった。
「こんにちは」
と姿をまだ見ないままに挨拶をしながら中に入ると、「あら、いらっしゃーい」とまず裕美のお母さんが返してくれた。
丁度おばさんは手にお花が詰まったブーケらしき物を持っており、それをベッド横のサイドテーブルの上に置くところだった。
「お邪魔します」
とおばさんの手元を眺めつつ言ったその時、「あはは、綺麗な花でしょー?」と声が聞こえた。
直後は、私の位置からは、おばさんの影に隠れて見えなかったのだが、置き終えたおばさんが横にズレた瞬間に、ヘッドボードと背中の間に例の特徴的なクッションを入れて、ベッドに腰掛ける裕美の姿が見えた。明るいいつも通りの笑顔を浮かべている。
「えぇ、本当ね」
とベッドに近寄ってから、改めてテーブルの上に置かれた花を眺めつつ私からも笑顔で応じた。
見た目はブーケでありながら、真っ直ぐしっかりと安定して直立する入れ物の上からは、花びらが大きなガーベラが三輪顔を出していた。色合い的に付属としてか深緑の葉っぱがチラホラあるのも見えて、それがいいアクセントとなっている。
ガーベラは、ついさっき皆とお見舞い品の打ち合わせをしていた時に、ネットで調べて知ったのだが、お見舞いに持って行くお花で一番人気があり定番なのが、ガーベラとの事だった。
そもそもお見舞いの花としては、お悔やみのイメージがある白や青メインは避けられてるとの事で、それとは真逆な、ビタミンカラーで見た目が華やかな、それでいて香りがそれ程強くないという点でも好まれているらしかった。
確かに、実際に目に見てみると、濃いオレンジ色の色合いから元気を貰えそうな気がした。
「これって、昨日絵里さん達が持って来てくれたの?」
と私が声をかけると、「うん」と裕美は答えた。
「あはは、見て分かると思うけど、三輪入ってるでしょ?なんかね、一人一輪ずつ買って、それを合わせて一つの花束にしようってなったらしいんだけど、お互いに何を選んだのか見ないようにして繕って貰ったらさ…ふふ、見ての通り、三人ともにガーベラを選んじゃったって、三人が揃って笑いながら話してくれたんだ」
「ふふ、そうなんだ」
と、何となく想像が出来ると、その時の絵里たちの様子を思い浮かべていたのだが、そんな私と裕美の様子を微笑ましげに眺めていた裕美のお母さんが、ふと「…あら、いらっしゃーい」と誰かに声をかけたので、雑談しかけた私と裕美もその方向に顔を向けた。
するとそこには、私が開けたままのドアの向こうで、まだ病室に入らずに突っ立ったままの紫たち四人の姿があった。
「あ…」と側で小さく声が漏れたのを耳にしつつ、私が見ている中、おばさんに声をかけられた四人は、何となくお互いの顔を見合わせていた。
だが、いつまでもそんな事をしている訳にもいかないと、半歩前に踏み出した紫が、苦笑交じりに口を開いた。
「あ、あはは…こ、こんにちは。お、お久しぶりです」
「こ、こんにちは」
と、紫の後に他の三人も続いて、それぞれが頭をペコっとお辞儀しながら挨拶を返した。
「あはは、うん、こんにちは。よく来てくれたわねー」
と明るい笑顔を浮かべつつ、おばさんはドアの近くまで歩み寄ると、「ささ、入って入って」と、まるで道路で作業する人の様に手を回して招き入れる真似をした。
「は、はい…お邪魔しまーす」
と、やはり戸惑いげではあったが、またもや紫をキッカケに、側を通り度に口に出しつつ、やっと病室内へと皆が入って来た。
「…ふふ、もーう」
と、そんな四人の様子を見て、理由は察しつつも何となくわざと呆れ笑いを意識して浮かべながら口を開いた。
「あなた達、まだ入って来ていなかったのね?」
「い、いや、だって…あ」
と、先頭を歩いてきた紫が、何か返してきかけたのだが、その時、ふと視線を斜め下に向けた途端に、言葉を詰まらせてしまった。
私もなんとなく顔を視線の先に向けて見ると、言うまでもないがベッドに腰掛けている裕美の姿がそこにあった。
と、紫に数テンポ遅れて他の三人も到着し、立ち位置としては、裕美に近い順に私、紫、藤花、麻里、律という順となった。
「い、いらっしゃーい」
と、先ほどのおばさんとのやり取りを見ていた影響か、裕美までが何だか辿々しげに声をかけた。その顔に浮かべている笑顔まで、どこかぎこちない。
「う、うん。久しぶり…だね?」
と返す紫から始まり、いつも通りな第一声を他の皆も口々に声をかけていたが、やはりどこか…うん、ビミョーとしか言いようの無い空気が私たちの間に流れていた。
中々会話が続かないまま時間が過ぎようとしたその時、「あ、そうだわ」と急に明るいサバサバとした声が背後から聞こえた。
次の瞬間、私含む全員でその声の方を振り返ると、ちょうど裕美のお母さんがカバンから、財布を取り出すところだった。
どんな風に見えていた事だろう、恐らく私たち全員の顔は不自然に強張った表情を浮かべていたのだろうが、そんなこっち陣営をまず眺めたおばさんは、一度明るく笑ってから口を開いた。
「あはは、みんな、外暑かったでしょう?私たちの地元までよく来てくれたわねー?今、何か飲み物を買ってくるから、みんな楽にしててね」
と言い終えた瞬間に、体を身軽にくるっと回すと、そのままドアへ向かって歩き始めてしまった。
「あ、そ、そんな、お構いなく…」
と咄嗟に反応した紫に続いて、私たちも慌てて声をかけたのだが、「ごゆっくりー」とニヤケ顔を最後にこちらに向けた後は、おばさんはドアを閉めて行ってしまった。
おばさんの姿が見えなくなってからも、しばらく私たち四人はジッと閉められたドアを見つめていたのだが、今回は私がすぐに顔をベッドに戻した。
ここまで自分の目では見ていなかったのだが、やはり裕美の方でも私たちと同じ行動を取っていたらしく、顔をドアに向けたままでいた。
と、こちらの視線に気付いたらしい裕美と目が合ったが、示し合わせた訳でもないのに、お互いに苦笑を浮かべ合うのだった。
「そ、そうだ、みんな?」
と裕美が不意に私から顔を逸らすと、私の肩向こうに向かって声をかけた。
私も振り返って見ると、「な、何ー?」と、普段では考えられないくらいに不自然な声で藤花が返すところだった。
その顔には、本人には悪いが引きつった笑顔が広がっていた。
そんな私の感想は置いとくとして、裕美も負けじと同じ類の笑みを不器用に浮かべつつも、スッと片腕を前方に伸ばしながら言った。
「そんなずっと立っているのも大変でしょ?ここまで電車で来るのも、駅から歩いて来るのも大変だっただろうし…さ?そこら辺にある丸椅子って勝手に使って良いみたいだから、その…どうぞ座って?」
と最後に目を瞑った笑顔を受け取った私たちは、「あ、うん」と返すと、各々はさっそく椅子を探し始めて、見つけると早速裕美のベッドの周りにカタンと置いて腰を下ろした。
それぞれがバラバラに行動したので、これといって打ち合わせは為されなかったのだが、それでも自然と座り位置は決まった。
ベッドの廊下側には裕美に近い順に私、紫、麻里が座り、窓側には近い順に藤花と律が座る事となった。
あー…ふふ、そういえば、今日はもしかしたら私の家に皆で寄ってから、行くことになるかも知れないとは、伝えるのを忘れていたわ…
と、さっきの裕美の言葉を思い返しつつ、心の中でボソッと独り言を漏らしている中、外は外でまたしてもビミョーな空気を伴う沈黙で満たされていた。
そう考えながらも、裕美を含む皆の顔を眺め回していたのだが、最初に見た時と何ら変化が見られなかった。
どの顔にも不器用な笑顔が広がっているのみだ。
さっきまでは、そんな風になるのも仕方が無いと情状酌量の余地ありと思っていたのだが、やはりこれが持ったが病で、いつまでもウジウジしているこの時間に耐えきれなくなった私は、思い切って口火を切ろうと決心した。
…だがその時、実はこの少し前から、私の右隣でワナワナと小刻みに震えているのに気付いていたが、
「…もーう、我慢ならん」
と声が聞こえたかと思った次の瞬間、勢いよく先頭を切って裕美の座るベッドに両手をついた者がいた。それは紫だった。
その飛びかからんばかりの突然の行動に、藤花達は勿論のこと、何かするんだろうと予想していた私までもが少なからず驚きを隠せなかった。言うまでもなく裕美も驚いた様子で、無理ない程度だろうが少し上体を後ろに逸らしていた。
「む、紫…?」
と裕美が辿々しげに声をかけたのだが、その直後には、紫は伏せていた頭を勢い良く上げたので、カールボブの髪が綺麗に空中で広がるのが見えた。
それに初めは気を取られていたのだが、たまたま裕美に一番近い位置に座っていたために見えた紫の顔には、ここ最近では見たことが無い程に真剣な面持ちが現れていた。まだ驚きが引かないあまりに、ついついその顔を眺めてしまったので見えてしまったのだが、その吊り目ぎみの目は真ん丸に見開かれており、その力強さから、感情がありありと手に取るように分かるようだった。
この間ほんの数秒足らずだったが、少しの間見つめ合ったかと思った次の瞬間、「大丈夫なの!?裕美!?」と、今までの勢いをそのままに、慌ただしげな口調で声をかけた。
「あ、い、いや…む、紫?ちょ、ちょっと落ち着い…」
と裕美はすぐに宥めようとしていたが、それは成功しない運命にあった。
何故なら…
「裕美ー!」
と、今度は私の向かいに座っていた藤花が紫に負けじと、同じようにベッドに勢い良く両手を付いたかと思うと、上体を裕美に寄せながら声を発した。
「と、藤花…」
と裕美は、また動揺を隠せない声のまま名前を呼んでいたが、いつの間に腰を上げていたのか、その藤花の肩に手を置きながら、いつものように声は発しないし目も品よく細めたままだったが、明かにそこに宿る律の瞳からは、何らかの力強い意思のようなものが感じられるようだった。
「律…」
と、無言ながらもその圧力を私と同じように感じたらしい裕美が声を掛けたその直後、「裕美…腰の調子はどうなの?」という、他の皆とは明かにテンションの違う声が聞こえた。
その違和感と言うと大袈裟だが、突如として他とは違うトーンが聞こえたというので、私含む皆で顔を向けると、そこには、思いっきり苦笑いを浮かべる麻里の姿があった。
と、私たちと目が合うと、ますますその苦笑度合いを強めていった麻里は口を開いた。
「…ふふ、もーう、みんなが急にそんな態度をするもんだから、私だけなんだか出遅れちゃったじゃん」
と、そう言い終えた麻里の顔には、さっきまでの苦笑いの痕跡は跡形もなく消え去ってしまっており、その代わりに、その猫顔によく似合った悪戯っぽい笑みが広がっていた。
そんな態度を取る麻里を見て私たちは、一度顔を見合わせたが、これは恐らく私だけではなく他の皆も同じ感覚を覚えたのだろう、何だか一気にさっきまでの緊張感ある空気が緩和された気がして、そのあまりか誰からともなく小さく笑みを零すと、それからは皆で揃って明るく笑い合うのだった。
その様子は、いつもの私たちを知る人が見ても、普段通りの私達そのものだっただろうと思って貰えたと思う。
「はー…で?」
と、場の笑みが収まりかけた頃、麻里は表情も穏やかに改めて口を開いた。
「腰の方は…どう?」
「どう?」
「どうなの?」
と、麻里の後に続いて、間髪を入れずにトントンといった拍子で藤花と紫が順に問いかけた。
そのタイミングの良さに、私と律は一瞬顔を見合わせると、その直後には微笑みあったのだが、その後で揃って見てみると、どうやら裕美も同じ反応を示していた。
「…ふふ、あはは!あー…うん、大丈夫…では無いというか、勿論まだ治ってないって意味で、大丈夫じゃないんだけど、でも、痛み止めの薬とか、コルセットだとかしているお陰で、静かにしている時は痛みは特に無いんだー」
と、裕美は羽織っていたストレッチガウンをはだけると、腰回りを摩りながら言った。
あ…ふふ、私はまだ見ていなかったけれど、あのガウンが例の、”アヤツ”が来た時にも恥ずかしくないように、自分のお母さんに頼んでいた秘密兵器なのね?
と、一人でお見舞いに来た時のやりとりを思い出し、まさに一人で思い出し笑いをしている間、いつの間に戻って来ていたのか、一人一人に自販機で買ってきたペットボトル飲料を裕美のお母さんが手渡してくれたので、その度に各々がお礼を述べつつも、それぞれが思いつく限りの質問をぶつけ始めた。
その内容自体は、前にも触れたように、入院してから毎日午前中に自分のコーチがお見舞いに来てくれるという話に始まり、後はまさにSNSのグループ内で交わしたやり取りを繰り返すのに終始した。
まぁ違いとしては、字面ではなく実際に顔を突き合わせている点だけだったのだが、それは私だけではなく他の皆も当然気付いていつつも、さっきの遅れを取り戻さんばかりに盛り上がっていた。
皆が作り上げていく明るい雰囲気に対して、そんな冷や水を差す気には流石の私も起きずに、むしろ自分も一緒になって会話の話の中へと混じっていった。
そんな様子を、少し離れた位置に置いた丸椅子に座って、微笑ましげに眺めているおばさんの笑顔が印象的だった。
「あ、そういえば忘れるところだった」
と、話にひと段落が付いたと見たか、紫が大袈裟にわざとらしく思い出した風なリアクションを取ると、「はい、裕美ー」と裕美に差し出した。
それは、午前から正午にかけて、私の家にて手分けして作った、例のチョコチップクッキーが入った袋だった。
「はい、どうぞー」と戯けながら紫から手渡された裕美は、突然の話題転換についていけない様子で、「…へ?」と気の抜けた声を漏らした。
そのように呆けつつも受け取る裕美を他所に、「ちょっとー」と藤花が不満げな声をあげた。
「あはは、紫ー?忘れないでよぉ…それ大事な物なんだからー」
と、口調は一応最後まで不満げは維持していたのだが、しかしやはり表情は、最初の段階で既にニヤけていたというのに、今では満面の笑顔だった。
そんな藤花よりは顔を作るのが上手い紫だったので、「何よー?」と負けじと目を細めつつ返していたが、しかしやはり最後は紫印の企み笑顔を顔一面に浮かべていた。
そんなやり取りを律は小さく、麻里は高らかに笑う中、「これって…?」と、まだ状況が飲み込めていないらしい裕美が、袋を顔の高さまで持ち上げると、それをプラプラと左右に揺らしながら聞いた。
すると、「それはねぇ…」と紫が勿体ぶったかと思うと、徐々に顔をこちらに向けてきた。その顔には、もう見慣れ過ぎたニヤケ顔が浮かんでいた。
と、この時同時に気配を感じたのでグルッと顔を回して見ると、藤花や麻里は言うまでもないが、律までもがこちらに向けて意味深な笑みを向けてきていた。
「何よー?」
と私が一同に向けて声をかけたが、それは難なく流されてしまうという毎度の流れが終わると、紫は含み笑いを浮かべつつ裕美に答えた。
「ふふふ…これはね、琴音の家に集まって、お嬢様に教えて貰いながら皆で作ったチョコチップクッキーだよ。…お見舞いのお菓子ってわけ」
と最後にとびきりの笑顔を付け加えた紫だったが、「…へ?」とまたしても裕美は、驚きを隠せない調子で声を漏らした。
「お嬢様って、あなたねぇ…」
と私がツッコミを入れる間、裕美は皆の顔を見渡しつつ口を開いた。
「…え?琴音の家…に行ってたの?」
とキョトン顔で言うので、視線が合ったのもあり、これは自分に対して聞いているんだと察した私は、苦笑交じりに答えた。
「あー…ふふ、うん、まぁね」
と返すと、ここで一旦区切り、一同を見渡していると、最後に紫と目が合った。
ほんの少しだけ見つめ合っただけだったが、それだけで何かが伝わったらしく、紫は小さくコクっと頷いたかと思うと、例の企み顔を浮かべて私から話を引き継いだ。
「そう、ここに来る前にねー。何かあなたを驚かせたいって思ってさ?その打ち合わせというか…ふふ、作戦会議のためにね、その場として琴音のおうちにお邪魔してたの」
と紫はそのまま、ついさっきまで私たちがどう過ごしていたのかを、支障のない程度に綺麗に纏めつつ説明をした。
それを終えると、ようやく戸惑いの色が薄れてきた裕美に向かって、紫は続けた。
「…でね、結局どうしたらあなたが驚くかって事で、皆で意見が一緒になったのが…ふふ、お菓子作りの名人である、ここにいるお姫様に教えて貰いながら、手作りでお見舞い用のお菓子を作ろうって事になったの。…ね?」
「…『ね?』じゃないわよ、まったく…」
と、お姫様呼びに突っ込む気にもなれなかった私が、溜息交じりに返すと、「まぁ…ふふ、そういう事」と、余韻を引いていたせいで苦笑いになってしまったが、自分としては自然な笑顔を浮かべつつ裕美に言った。
すると、「…なーんだ、そういう事か」と、この時点で本当にいつも通りの笑顔を裕美は見せてくれた。
「てっきり、駅から直で来たのかと思ってたよ。…ふふ、だったら、さっきの時点で訂正してよねー」
と若干照れ臭そうに笑いながら言った。
「てかさぁ…」
だがここで途端に、裕美は目を細めたかと思うと、口元は緩めっぱなしで続けた。
「驚かせる気だったんなら…そんな本人の前でネタバラシをしないでよぉ」
「あははは」
とまぁ、裕美からの当然と言えば当然なツッコミに対して、私含む皆でケラケラとただ笑った。
「もーう」
とニヤケながら拗ねて見せた裕美は、そんな私たちを眺めた後で、手元にある袋に目を落とした。
「…で、早速だけど…開けて見ても良い?」
と顔を上げて見渡しつつ裕美が言うので、私たちは一斉に、それぞれの言葉で促した。
「じゃあ、開けるねぇ…っと」
と裕美は、ベッドに備え付けてある小さなテーブルを引っ張ってくると、その上で袋を開け始めた。
「…ふふ」
と作業を進めながら不意に笑みを零したので、どうしたのか皆で聞くと、裕美はニヤケながら私に顔を向けつつ答えた。
「いやぁ…ね、本当にこのお姫様というか、お嬢様は…ふふ、まさにお嬢様らしく、私たちと同い年だってのに、こんな包装の作法まで身に付けているんだからなぁ…って、思ってさ」
「え」
と私はすぐに声を漏らしたが、これまた毎度お馴染みと皆が咄嗟に反応を返したので、その声はかき消されてしまった。
「あはは、それは勿論、それを包んでいる間に私たちからも突っ込んでおいたよ」
「あのねぇ、紫…」
「あはは、その包装紙だって、琴音の私物だもんねー。普通持ってないよ、私たちの歳で」
「藤花ー?それはさっき説明したでしょ?」
「あはは、私もそれは知ってるよ」
と、私が紫に続いて藤花に突っ込んでいると、自分もと裕美がニヤケ顔で突っ込んだ。
だが、すぐにそれが墓穴を自ら掘る事となるのに気付いたらしく、直後には「あー…」とバツが悪そうな引きつり顔を、ゆっくりとこちらへ向けてきた。
だが…ふふ、それをこの私が逃すわけが無かった。
「…ふ、ふ、ふ」と体勢を取り戻した私はこの瞬間に、意味深な笑みを浮かべて口からも零すと、ニヤニヤしながら続けて言った。
「そりゃ裕美は知っているわよねぇー?だって…ふふ、あの野郎にバレンタインチョコを作るんで、私の家でお菓子を作って、その後で一緒に袋に包んだものねぇ?」
「あ、ちょ、琴音…」
と裕美は慌てて私の口を止めようとしたが、もうここまで喋り切ってしまった今となっては、全てが遅かった。
「へぇー」
と漏らす藤花に始まり、「ちょっとー、その話は聞いた事が無いなー」と紫がニヤニヤ顔で続く。
「その話を詳しく!」と、麻里は実際には手に持っていなかったが、まるでメモ帳を手にするマイムをしながら最後の駄目押しをして、そんな皆の様子を眺めつつ律は一人クスクスと笑っていた。
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて…琴音ぇー?」
と両手を前に出しながら皆を抑えようとしつつ、顔だけはこちらに向けてきていたが、目を半開きにして私の事を凝視してきていた。
そんな恨みがましげな裕美の様子が何だか微笑ましく、その感情のままに、律のようにただ満面の微笑を浮かべるのみに留めると、糠に釘を打ってるような手応えしか感じられなかったようで、すぐに裕美は力無げに参り顔で笑みを漏らした。
それからは、新聞部らしく麻里が率先して簡単な記者会見風な会話で盛り上がった。
内容は…ふふ、以前に触れた事があるので、ここでは割愛させて頂こう。
ただまぁ…ふふ、本人には悪いが、私が手伝って包装の段階までいったというのに、結局は渡す直前で日和ってしまったという結果を聞いた皆が、表現方法こそ勿論違うとはいえ、「ガッカリー」といった感じの反応を皆でしていた事だけは触れておこう。
とまぁ、自業自得な墓穴とは言え、そろそろ裕美がかわいそうに思えた私は、場を収めようと働きかける事にした。
「…ふふ、まぁでも、というわけで、裕美は私が包装紙のストックを持ってる事を知っていても、おかしく無かったって事ね」
「なるほどねぇ」
と麻里が瞬時に相槌を打ってきたが、それまでは裕美の方に顔を固定していたというのに、今度は徐々にこちらに顔を流し始めた。その顔には、裕美に対してと同じ好奇の色がありありと出ていた。
「しっかし、話を戻すけど、裕美が言ったように、琴音ちゃんはこんな作法を身に付けてるんだし…えへへ、やっぱりお嬢様には違いないよね」
「は?」
「そうだ、そうだ」
と、矛先が自分から逸れた途端に、裕美が意地悪げな笑顔ですぐさま乗っかった。
「あのねぇ…」
と、裕美とは逆に、それまでからかいの矛先が逸れていた事で安心しきっていた私はというと、準備不足が祟り、溜息交じりに合いの手を入れる他に無かった。
そんな私の弱々しい反応に、ますます麻里の勢いは増すばかりだ。
「だって…私はそんなの家で教えて貰ってないもん。琴音ちゃんはやっぱり、お姫様にしてお嬢様だよ」
と、猫を被るという麻里のお得意な態度を取りつつ麻里が言うのを受けて、これが冗談ばかりではなく、むしろ本心からなのがタチが悪いと、いつも通りに心中では参りつつも、このまま見逃すわけにもいかずに、大きく息を吐きながら返す事にした。
「…麻里ー、その辺にしときなさいよ?温厚な私だって、流石にそろそろ怒るわよ?」
と自分で言いつつも、元々冗談調だったのもあり最後にニヤケてしまうという失敗を冒してしまうと、それを目敏く見逃さなかった紫に瞬時に突っ込まれてしまった。
「あははは。何を言ってるの琴音ー?あなたはいつも怒ってるじゃない?」
と意地悪い笑顔で言われてしまった私は、「そーだ、そーだ」と紫に悪ノリする藤花を含めて見渡しながら、最後の抵抗と私は顔を若干上げつつ、薄目で皆を見下ろすようにしながら返した。
「あなた達ねぇ…そんな温厚な私が怒るのは、あなた達がそんな意味不明な神経を逆撫でするような事ばかり言うからでしょー?」
と、私としては正論を述べたつもりだったのだが、裕美や律を含む皆が同時に、今何を言われたのか一切理解が出来ないと言いたげな、典型的なキョトン顔を浮かべた。
そしてそのまま私以外で顔を見合わせたかと思うと、誰からともなく明るく笑い始めた。
「あははは」
「いやいやいやいや、『あはは』じゃないわよ…」
とまだこの時は突っ込む意欲が残っていたのだが、もうこの様に場がなってしまっては、施しようが無いことも過去の経験から学んで知っていた私は、「まぁ…いいわ」と自嘲気味に一人笑みを零すと、顔を皆から外してそのままテーブルの上に向けた。
そこには、中途半端に開けられた袋があり、私はそれを眺めつつ口を開いた。
「…ふふ、というか、こんな事を続けていても、もうキリがないからさ?裕美…もう開けちゃってよ」
「あはは、そもそもアンタから話は始まっていると思うんだけどねー」
と私の言葉にまずそんなツッコミを入れてきたが、「うん、そうだね」と直後には素直に私からの提案に乗ると、今度は最後まで開ききった。
その様子を、さっきまでの喧騒が嘘のように、他の皆も口を閉ざしたまま工程を眺めていた。
「…お」という声とともに目の前に現れたチョコクッキーは、少し時間が経っているにも関わらず、きちんと綺麗に形が崩れずに残っていた。
「おー」
と、目を落としたまま声を上げる裕美の後で、「あら、綺麗に作ったわねー」と、いつの間に私と紫、麻里の後ろに立っていたのか、上体を倒してテーブルを覗き込みながら裕美のお母さんも声を上げた。
「いやぁー」と、そんなおばさんの反応に対して、私を始めとする皆で照れつつ返していると、「食べて…良い?」と顔を落としたままだったので、自然と上目遣いになりながら裕美が聞いてきた。
その直後は何も返さずに一旦私たちは顔を見合わせたが、「どうぞー」とすぐに声を揃えて促した。
「あはは、ありがとー。じゃあ…いただきまーす。…」
と、胸の前で大袈裟に両手を合わせてお辞儀しつつ挨拶をすると、人差し指をクッキー群の中へ突っ込んだ。
「へぇー、色んな形のクッキーがあるねぇ…よし」
裕美はその中から、真ん丸のノーマル型したクッキーを手に持つと、一度こちらに向けて見せびらかす様にしてから、今度はそのまま何も言わずにパクッと口に入れた。
「…どう?」
と不安げに声を漏らしたのは、紫だった。
…ふふ、そう。とても分かりやすいだろうが、勿論そのクッキーを作ったのは紫だった。
「…ふふ」と、当然その事を瞬時に察した裕美も、口の中に水分を戻すために一度お茶を口に含んでから口を開いた。何か企んでる風ではあったが、その上での笑顔だ。
「うん、美味しいよ紫!」
「あ…本当?」
と、普通だったら『なんで私が作ったって分かったの?』と聞くところだろうが、そんな疑問などは吹っ飛んでしまう程に嬉しかったらしい紫は、声はボソッとしたものだったが、それだけでも心中は察せられた。
「うん」と裕美は続けて笑みを保ったまま返すのを見て、ここで不意に悪戯心が芽生えた私は、ニヤッと笑いつつ口を挟んだ。
「そりゃあ美味しいはずよ。だって…ふふ、この私が皆に教えて作ったんだから、美味しくなくちゃ困るわ」
「あー、偉そーう」
とすぐに藤花が反応した。藤花はこちらに指をビシッと差してきていたが、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「あはは、やっぱお姫様だわ」
と紫がその後で呆れ笑いを浮かべつつ口を挟み、「あはは、感謝してるってお姫様ー」と麻里も拝むような態度をして見せつつ後に続いた。
「…うるさいわよ、あなた達ー?」
と今回は狙ったのもあり、ツッコミはこれだけに留めた直後、「だから、さっきから先に始めてるのはアンタでしょうに」と裕美に良い間でさらに突っ込まれると、自分のお陰とまでは流石に言わないが、そんな私と裕美のやりとりが、それなりに効果を発揮したらしく、場には良い意味でおちゃらけた空気が充満し始めた。
「私の作った物も食べてー」と、さっきの紫に続けと藤花と麻里も、裕美に飛び掛からんばかりに前のめりに詰め寄った。
「これ、これが私が作ったやつだよ」
と藤花が早速、自分の作った動物の型で象って作ったクッキーを指差した。
「ちょっと藤花ー、今裕美が手を伸ばしかけたのは、私が作ったやつじゃーん」
と、その斜め後ろからベッドに片手をついて、もう片方は腕を前に伸ばしてテーブル上の一点を指差しつつ、藤花を牽制するのは麻里だ。
「…ふふ」
と律は藤花と麻里を交互に眺めつつ、これまた品良く一人クスクス笑っていると、この二人の攻防に戸惑い放しの裕美が声をかけた。
「ちょ、ちょっと二人ともー?…って、律?アンタもただ見てないで、ちょっとこの二人を落ち着かせてよー」
「え…んー…」
と律は何やら考えるフリをし始めたが、長身を活かして座ったまま長い腕を徐にテーブルの上まで伸ばした。
そして、一瞬真顔になったかと思うと、その直後には珍しくニヤッと意味深に笑いながら律は口を開いた。
「…ふふ、裕美、これが私が作ったやつよ」
「ちょ、ちょっと律までー?」
と、もう笑うしかないと苦笑を漏らす裕美を見て、私と紫はお互いに顔を合わせると、すぐにそのまま笑い合うのだった。
「あーあ…ふふ、裕美」
と、そんなやり取りも終わり場の空気も若干落ち着きを見せ始めたのを見計らって、裕美のお母さんに買って貰ったペットボトル内の飲み物を一口飲んでから声をかけた。
「あなたさっき、ネタバラシをされたって愚痴っていたけれどさ?…ふふ、それでも驚いたでしょう?」
「え?」
と私の問いかけをすぐに飲み込めない様子だったが、「…ふふ、うん、まぁねー」と裕美はすぐに目をギュッと瞑りながら答えたかと思うと、そのまま私から視線を逸らした。
私も何となくその視線を行方を追って見ると、その先にあったのは、自然な笑顔を見せる他の四人の姿だった。
皆と顔が合ったので、こちらからも微笑み返していたのだが、「うん…驚いたよ」と繰り返し呟く裕美の口調に異変を感じて、思わず勢いよく振り返ってしまった。
何故なら…うん、その声が震えている様に聞こえたからだった。
そして実際に見てみると、何となく直後に予想していた通りの姿がそこにあった。
だがしかし、とはいえ実際に見てみると、本人には悪いが驚きのあまりに思わずギョッとしてしまった。
何故なら、裕美は一応努めて笑顔を浮かべてはいたのだが、その両目の下瞼には、今にも溢れそうなほどに涙が溜まっていたからだった。
「ひ、ひろ…み?」
と、咄嗟に我知らずと名前を呼びかけてしまうと、それがキッカケとなったのか、私の横や後ろからも、心配げに声をかけてくるのが聞こえてきた。
チラッとだけ周囲を見渡してみると、やはりその声のトーン通りに、目を身開きつつも、しかしその瞳には心配の色をありありと示す紫たちの姿があった。
「あ、あははは…驚かせちゃってごめんね」
と突然明るいトーンの声が聞こえてきたので、それまでお互いにチラ見をし合っていた私たちは、一斉にその声の方を見た。
その声の主である裕美は、一度目元を拭ってから照れ臭そうに笑っていたが、皆の注目が集まるとますます照れ度を増していき、顔も薄らと赤く染めながら口を開いた。
「い、いやぁー…あはは、何で急に涙が出てきちゃったんだろー?あはは…うん、んー…」
と、途中まではまさに空元気とはこういう物だという典型的な様子を見せていたが、ここで不意に裕美は少しだけ俯いたかと思うと、声を漏らしながら考え込み始めた。
そんな様子を、私含む皆は大袈裟ではなく固唾を飲んで見守っていたのだが、ふと声を止めるのと同時に顔を上げた裕美は、どこかやはり照れ臭そうなのはそのままに、しかし先程よりかは自然体な笑顔を浮かべつつ口を開いた。
「…タイミングとして今はどうかなって思わなくもないんだけど…うん、これだけはキチンと曖昧にしないで、自分の口から言わなくちゃってずっと思っていたから…聞いてくれる?」
「…」
裕美は話しながら、途中から私に視線をチラチラと配ってきていたので、すぐに自分が一人でお見舞いに来た時の事を思い出した私は、何となくコクっと小さく頷いて見せた。
それに対して頷き返しこそしなかったが、目だけで裕美は返してくれたので、それだけで十分だった。
と、そんなやり取りをしている間に、「う、うん…」と他の皆が戸惑いつつも同意を示したので、裕美は調子をそのままに先を続けた。
「ふふ…うん、ありがとう。あの…ね?私のために、わざわざ私たちの地元にまで来てくれたり、琴音の家で…うん、お見舞いって事でこんな物まで作ってくれたり…をさ?その…うん、ふと何か思った瞬間にね、自分でも意味が分からないんだけど…あはは、涙が出ちゃった」
とまた不器用に笑いつつ言った裕美の声は、やはり震えていた。
そんな言葉に誰も相槌すら打てないといった様子でいる中、それには構わずに裕美は続けた。
「んー…ふふ、私のせいで、こんな湿っぽい雰囲気になっちゃって…うん、それ自体にも申し訳ないし、…いや、それだけじゃなくて、んー…うん、こんな事というか、今までのも含めて、私にしてはかなり”恥ずい”話を延々としちゃってるけど…でもね、言わせて?…」
と裕美はここで一旦切ると、少し俯いてから間を置いた後で、顔をゆっくりと上げた。
そして、顔に浮かべていた真面目な表情を一瞬見せたかと思うと、今度は大きく頭を下げてから言った。
「…うん、色々と…色んな意味で”ごめんね”?」
「…」
そんな言葉と態度を見せられた私たちは、またしても誰一人として口を開けなかった。
…ふふ、だが、こんなところがやはり、どこか人間として悪く言って冷めてる薄情な私の為せる技か、…いや、先ほども触れた様に、既に一度同じ態度を裕美から貰っている故の慣れのお陰か、私は盗み見る様にそっと周囲を眺めて見てしまった。
そんな無粋な行動をしつつ目に入ってきたのは、さっきまで明るくはしゃいでいた者と同一人物とは思えない程に、沈んだ…いや、静かな顔つきを見せる四人の姿だった。
私はまるで部外者の様に、あからさまでは当然無かったが、しかし裕美と四人を交互に眺めていたその時、「…ふふ、もーう、バカね?」と前触れなく不意に口を開く者がいた。
今まで沈黙が流れていた中での第一声というのもあって、私含む皆の視線が一斉に集まったのだが、その先にいたのは紫だった。
紫は呆れた顔の中で柔和な笑みを浮かべていたのだが、これは私の気のせいではないだろう、その特徴的なつり目の下瞼付近には、裕美と同じ様に涙が溜まっている様に見えた。
「…え?」
と頭を上げた裕美が、キョトン顔で声を漏らすと、その様子を愉快げに笑いながら紫は続けて言った。
「そうよ。だって…もし感謝をしているのなら、『ゴメン』はおかしいでしょ?」
「だ、だって私…」
と戸惑いげながら裕美が反論をしようとしたが、それをさせまいと紫は悪戯っぽく笑いながら言った。
「そうやって相手に感謝を伝えたい時はね…ふふ、さっき自分も言ったじゃないの。『ありがとう』で良いんだよ」
「あ…」
と紫の言葉に思わず、裕美だけではなく私まで声を漏らしてしまったのだが、その直後にはまたしても、さっきの様に他の皆が同時に裕美に言葉を投げかけ始めた。
「そうだよ裕美ー」
と、普段通りの天真爛漫な調子で藤花がまず声をかけた。
「日本語を間違えちゃダメだよー」
「そうそう!」
と藤花に麻里が合いの手を入れる。
「今紫が言った様なことは、小学生…いや、幼稚園生だって知ってる事だってのに…えへへ、それは紫からバカと呼ばれても仕方ないわぁ」
と最後に『やれやれ』と言いたげに、欧米人並みに大袈裟なリアクションを取って見せていた。
「…ふふ」と、こんな場合でもやはり言葉を発せずに一人微笑むのみの律だったが、しかしチラッと裕美の方を見ると、ほんの一瞬ジッと見たかと思えば、柔和な笑みを浮かべた後でコクッと小さく頷いていた。
よく見ると…って、ここでもまた私の無粋な行為を自白してしまうが、今はそれはおいといて、そう口にする皆の顔を見てみると、この場にいる誰もが笑顔を努めつつも、紫と同じ様に目が潤むのを止められていなかった。
それを誤魔化す様に、時折何かの拍子で自然体を装いつつ目元を拭いながら明るく振る舞っていた。
そんな皆の様子を眺めていた私と裕美は、時折お互いの顔を見合ったりしていたのだが、示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時に吹き出す様に笑みを零すと一緒に微笑み合った。
それからすぐに裕美は私から顔を逸らすと、その笑みを保ったままグルッと、勿体ぶる様にゆっくりと皆の顔を見渡し始めた。
そして一通り見終えた裕美は、大きく息を吐いたかと思うと、目を細めつつ口を尖らせつつ言った。
「…ふふ、もーう、バカバカ言い過ぎじゃないの?本人を前にして」と裕美がやはり目元は潤ませつつも、しかしそれ以外は普段通りな笑顔で突っ込むと、ほとんど間が開く事なく、誰が始めとかも無しに四人は一斉に明るく笑い始めた。
それに遅れて私も同じ様に笑顔の輪の中に入っていくと、「まったく…ふふ、そうやってすぐに笑って誤魔化そうとするんだからなぁー」
と愚痴っぽくいった裕美だったが、しかしすぐにまた吹き出したかと思うと、私たちと一緒になってケラケラと明るく笑うのだった。
すっかり病室に来た当初の様に…いや、”日常”と変わらない空気が私たちの間で流れ始めると、このまま雑談へと話は雪崩れ込んでいった。
内容としてはまぁ…うん、予想通りというか予定通りというか、私の家の玄関前での写真撮影会に終始した。
これには私は勿論のことだが、当然律も一緒になって苦笑いをしっ放しだったのだが、しかしまぁ今日に限っては仕方がないというか…『まぁ、いっか』と、お互いに確認し合ったわけではなくとも、これが共通了解であったようで、好き勝手言う裕美含む四人の言葉に付き合っていた。
「えへへ…ほら、どーう?」
と麻里が自分のミラーレスカメラを本体ごと裕美に渡して、操作方法を教えてから自分の席に戻りつつ聞いた。
「…ふふ、本当によく撮れてるよ麻里」
と口調から上機嫌なのを隠そうともしないで裕美は返した。
「うんうん、良い写真だわ。さすが新聞部」と裕美は目をカメラの液晶画面に落としながら言葉を続けたが、側で見ていたおかげもあっただろう、私の位置からでも、その顔がニヤけているのが俯いていても分かった。
「…ふふ、はい麻里、ありがとー」
とカメラを差し出すと、「いーえー」と間延び気味な返事を返しつつ麻里は受け取った。
「しっかしアンタ…」
と満足げなため息を一度大きく吐くと、初めは呆れ顔だったのに、徐々に変化させていき、今は意地悪っぽく笑いながら裕美は言った。
「こうして日傘を差してさ、どこかヨーロッパっぽい洋館…っていうの?そんな見た目の家と広い庭、それにレンガの道の上に立ってる写真を見ると…ッフ、本当にお姫様みたいね?」
と最後の方は、半笑いのまま言ったので、違う意味で声が震えているのに気づいたが、それは頭の片隅に置いておく事にして、今は自分に降りかかっている火の粉を払う事に専念した。
「あのねぇ…なんで私ばかり言うのよ?その写真には、学園の王子様と呼び声が高い律も写っていたじゃないの」
「ちょ、ちょっと…琴音ぇ…」
とそんな私の言葉に、ベッド挟んだ向かいから腰を思わず浮き上がらせて、中腰のまま私の名前を呼ぶ律の姿があった。顔一面は参り顔だ。
「あはは、勿論…」
と裕美は私にチラッと目配せをした後で、顔をゆっくりと律の方に向けた後で、ニヤッと笑ってから言った。
「律、アンタも例外じゃなく、二人が揃っているからこそ、相乗効果っていうか…うん、”まさに”って感じの写真に出来上がってたよ」
「何よ、その”まさに”っていうのは?…ねぇ?」
「え?う、うん…ふふ、うん」
と、私と律とで疑問を呈したつもりだったが、そう思ったのはどうやらこの中では私たち二人だけだったらしく、「そうそう、”まさに”って感じだよねー」と、隣に座る律の顔を大袈裟に下から覗き込む様に言う藤花に始まり、それからは他の四人でまた盛り上がるのだった。
この間の私たちはと言うと、ただ乾いた笑顔を浮かべるのみだったのは言うまでもない。
「まったく…今は怪我人だし大目に見てあげるけれど…治った後で、覚えておきなさいよ?」
と私は凄んで見せたが、「こわーい」と、裕美は顔全体を緩めつつという、そのセリフにはまったく合っていない表情で返してきた。
そんな裕美の態度に、私はまた一人で溜息と共に笑顔を浮かべると、不意に紫が麻里に話しかけた。
「あ、そうだそうだ。さっき琴音達の写真を撮ってから、そのまま頭がお見舞いに全部持っていかれてて忘れてたわ。麻里、そのカメラで撮った写真って、ネットというか上げられるんでしょ?」
「うん、勿論出来るよ」
と麻里はカメラをしまいつつ返した。
そう…というか、前の修学旅行にて、このカメラで麻里が撮った写真の数々は、私達のSNSグループ内にも保存されているので、皆が知ってる事実だった。
それを確認した紫は、「だよねー」と麻里に返した後で、一同を見渡したかと思うと、そのまま朗らかな笑みを浮かべつつ言った。
「私たちのSNSのサムネをさぁ…ふふ、琴音と律のツーショットにしない?」
「…は?」
と私と律が声を漏らす中、「あ、良いねぇー」とアチコチで賛同の声が上がった。当然の如く、皆して面白がってる顔をしている。
私たちが連絡を取り合うのに使っているSNS内の、このグループ画面にサムネイルと称する写真を貼る事が出来る仕様となっていた。
因みに今は何が”サムネ”になっているのかと言うと、修学旅行の最終日に行った厳島神社の大鳥居をバックに、あの旅行中にほとんど一緒に過ごしていた、藤花と律が仲良くしている、二人が初等部の頃からの付き合いである他班の子達に撮ってもらった写真だった。
…あ、ここで補足としてというか、話には中々出てこないが、今もこの他班の子たちとは仲良くしている事を、この場を借りて軽くでも触れさせてもらおう。あれ以来、勿論藤花たちが間を取り持ってくれたというのはあったが、その班の子達と一緒に遊んだりする事も今では多くなっていた。
人数的に多い時では、全員集合である合計十二人で集まって、どこかに遊びに行く事も稀にでもあった程に、私たちのグループと仲良くなっているのだった。話を戻そう。
「…ちょっと、あなた達ー?」
と、私は座ったままだったが、その場で腰に両手を当てながら一同を見渡しつつ言った。
「まったく…紫、サムネは私たち全員の写真にするって、そんな話じゃなかったっけ?」
と顔を最後に紫に向けると、当人は一瞬ムスッとしたかと思うと、「分かってるよぉ…ふふ、冗談だってば」と、初めのうちは口を尖らせて見せていた癖に、それを保っていたのは一瞬の事で、そんな自分に我慢出来ず吹き出す様に笑顔を零しながら返した。
「まったく…ふふ」と、紫のその笑みに釣られて私も笑顔を浮かべてしまった。
…実はこのやり取りは、随分前…うん、細かい内容こそ違うのだが、それこそ中学一年時からの習慣の様になっていた。
細かい話が続くが、私たちのSNS内に作ったグループは、中学一年生の頃から作ってあるのだが、この代表者…と自然になっていた紫が主に管理していた。
それは今のような、サムネをどの写真にするかなども含めてだ。勿論というか、紫が一存で勝手に変えるのではなく、そろそろ違うのにしないかという皆の気分が出て来た頃に、全員で話し合って写真を選ぶという、”健全な”民主主義をとっていた。
…さて、そんな話だけをしたくて今触れているのではなく、ここから本題に入ると、要は何度かサムネを変えているという事なのだが、実は一年で大体四回と決まっているに等しかった。
というのも、実はこの”グループ管理”には、一応明文化してない…いや、”明言化”していないルールが幾つかあり、そのうちの一つが、さっき私が紫に突っ込んだ、『サムネはグループ全員の写真』というものなのだが、もう一つ触れると、それは…『なんか季節感があれば良いよねー?あと、毎年同じ季節を過ごすわけだけど、それなりに私たちも身体が成長しているし、ずっと同じよりも、そうやって変えていった方が良くない?』…というものだった。
ふふ、急にくだけた感じになってしまい、かえって分かり辛かっただろうが、実際にいつだったか…うん、これも中学一年生という初期の段階でだろう、恐らくというか間違いなく、紫と裕美、それに藤花が主導して、このような”ノリ”が出来上がっており、それに対して私と律は『確かに、私たちの見た目も変わっていくのに、ずっと同じ写真っていうのは変だよね』とすぐに納得したのもあって、それ以来ずっと季節が変わる度に…って、このタイミングも難しかったりするが、今はそれは置いといて、年に四回変更するのが習わしとなっていた。
…ふふ、そう。だから、普通に聞けば、『一度しかない中学の修学旅行で撮った全員の写真を折角サムネにしたんだから、変えなくても良いじゃないの』という疑問が湧くものと思われたので、『修学旅行の時は、ギリギリ春の時期で衣替えをまだしていなく、制服も冬服のままだったし、今は夏服だから、そろそろ変えたいと皆が思っていたところ』なのだと、勝手にありもしないかも知れない架空の質問に答えさせて頂いた。
ついでに補足を入れさせて頂くと、まだ修学旅行のままの点からもお分かりのように、まだ全員で写真を撮る機会が無く、そのチャンスが転がっていないかと私たち…ふふ、特に管理人である紫と、すっかりカメラマン然としている麻里の二人が常に目を光らせていた…というのを添えさせて頂いたところで、ようやく話を戻す事としよう。
最近では…そう、私と律が学園内、特に同じ学年内で『お姫様と王子様』だとか、私に至っては『深窓の令嬢』などという見当違いも甚だしいあだ名をも付けられてるという話題が、私たちの間で日常茶飯事に溢れるようになってからは、この様にサムネを変える時期で、このような類のやり取りが毎度の如く為されていたので、今回もただ短くピシャッと味気なく終わらす…つもりだったのだが、不意にここである事を思い出した。
そして私は、その頭に浮かんだ事をそっくりそのまま口に出す事にした。
「…ふふ、まぁともかくさ?ここに来る前に言ったように、今度また私の家…じゃなくても当然良いけれど、どこかで皆で集まれる時に…うん、その時に改めて皆で写真を撮ろうよ。それで、その時に撮った写真をサムネにしましょう?」
「良いねー」
と藤花が瞬時に賛意を示すと、「ナイスアイデアー」と麻里も続いた。
「おー。琴音にしては良い案を出すじゃなーい」
とニヤケ顔で紫がからかって来たので、「うるさいわよ」と私も負けじとニヤケながら、隣に座っている紫の肩に自分の上体を寄せて肩をぶつけた。
そしてふと顔を戻して、そんな私たちの様子を明るく笑いながら眺めていた裕美に向かって声をかけた。
「だからさ、裕美?」
と名前を呼ぶと、私はテンションを落ち着けて、その代わりに柔らかな笑みを浮かべつつ続けて言った。
「早く…ふふ、早く怪我を治しちゃいなさいよ?じゃないと…いつまでも写真を撮れないんだから!」
と最後に両目を瞑ってニカっとイタズラっぽく笑って見せた。
「じゃないと…ふふ、いつまでも私と律への皆の揶揄いも終わらないし」
と最後にジト目を作りながら一同を見渡すと、
「そうだよー」
「早く治しちゃえ」
と、そんな私を他所に、また藤花と麻里が私の後に続く中、「そうだよ。あなたが早く治ってくれないと、いつまでもサムネを更新出来ないんだからね?」と紫が意地悪げに笑いながら付け加えた。
そんな紫の言葉にクスクスと笑う律を他所に、一瞬キョトン顔を見せていた裕美だったが、小さく吹き出したかと思うと、「あはは、そうだね」と明るくハキハキとした調子で返した。その裕美の目はもう潤んでいなかった。
そんなすっかりいつも通りに戻った様子の裕美を見て、私たちは事前に打ち合わせた訳でも無いのに、お互いの顔を見合わせると、誰彼ともなく笑みを零すのだった。
「治すと言えばさ?」
と場が収まり始めた頃、私は何気ない調子で裕美に声をかけた。
「そろそろさ?こないだの精密検査のほうの結果が出たんでしょう?その…どうなの?」
「…」
と、私が途中からもたつきつつ聞くと、それまで和かにお喋りをし合っていた他の皆は一気に口を閉ざした。
これは…うん、恐らく誰もが聞きたかっただろうに、でも皆が同様に聞き辛いだろうと思って、不意に思い立っての行動だった。自分が聞くべきだろうと思ったのも大きい。
他の皆はというと、そんな私に問いかけられた裕美の顔をジッと眺め始めた。
一斉に突如として視線を向けられた裕美はと言うと、いきなりだったのもあったのだろう、驚きのあまりに目を真ん丸にしていたが、しかしそれも長くは続かず、「えぇっと…」と徐々に顔を私たちから逸らし始めた。
何となくそれに合わせて向いた方を見てみると、そこには裕美のお母さんが、空いているベッドの脇に置かれていた丸椅子に腰かけて荷物を整理しているところだった。
と、自分に向けられた視線に気付いたらしいおばさんは、裕美と顔を少しばかり見合わせていたが、フッと力を抜く様な笑みを浮かべて見せた。
それを見た裕美はというと、コクっと一度頷いたかと思えば、さっきと同じ速度で私たちの顔を見回した後で、おばさんとは違う類の力無げな笑みを浮かべつつ口を開いた。
「あ、あー…うん、昨日の午後にね、お見舞いに来てくれた絵里さん達が帰った後で、担当の先生に呼ばれてね?CTだとかMRI検査だとかの精密検査の結果を教えてもらったよ」
「…それで?」
と、ここで静かだった紫が合いの手を入れた。
「それで、検査の結果は…どうだったの?」
と続けて聞くと、裕美は「んー…っとねぇ…」と身の回りを見渡し始めた。
それは何かを探している風で、実際にお目当ての物を見つけたらしく手に取った。それはよくあるメモ用紙とボールペンだった。
そのまま裕美は、お菓子を乗せたテーブルの隅で何かを書き始めたのだが、そんな急な行動に対して、私含む皆は特に口を挟まずに事の成り行きを見守っていた。
「…っと」
と何かを書き上げたらしい裕美は顔を上げると、今書いたばかりのメモ用紙をこちらに向けてきた。
「これが…あはは、私のケガの名前みたい…」
と、自分自身に呆れているのが丸分かりな、自嘲満点な笑顔を浮かべつつ裕美が見せてきた紙には、『腰椎分離症』と書かれていた。
紙を見せられた瞬間、私含む他全員で身を乗り出す様にして書かれた字を眺めると、次の瞬間には、
「よ…ようつい、ぶんり…しょう?」
と紫、藤花、麻里の三人が実際に声に出して読んでいた。
律は相変わらず黙ったままだったが、しかし体勢はそのままに字を凝視していたのだが、私はというと、皆よりも一足先に体勢を元に戻して椅子に座った。
そしてそのまま続けて、昨夜の事を思い出していた。
…うん、昨日お父さんから聞いたまんまの名前ね
…そう。実は裕美の検査の結果というのは、既に昨夜の時点で私は知らされていた。勿論その情報提供者は、言うまでもなくというか、今さっき触れた様に当病院の院長であるお父さんだった。
昨夜は珍しく、前回とは間を開けずに夕食時前に病院から帰ってきたというので、お父さんを含めた親子三人で水入らずの食事を楽しんでいたのだが、その中で不意に裕美の件について話してくれたのだ。
何でも、裕美の主治医である整形外科部長は大体毎日夕方五時に一般向けの診察を終えるというので、その後は自由が利くらしいのだが、仕事終わりにわざわざ院長室を訪れたらしい。
私はその場に当然いなかったので詳しくは知らないし、お父さんの言葉をそのまま信じる他にないのだが、訪問する用事はそもそも、今度の月一催されている、”社交の場”の皆で行く一泊二日の旅行についての打ち合わせとの事だったらしいが、それが粗方終わると、そういえば娘である私の友人の裕美の検査結果が出ましたと、雑談の流れで聞かされたようだ。
んー…ふふ、正直私自身が言えた義理はないが、しかしそんな一患者の検査結果というプライベートな内容を、いくら自分の上司であるお父さんに雑談風に話して良いのかと、話を聞きながら自分を棚に上げて感想を覚えたのはその通りだったのだが、しかしそれよりも結果に対する好奇心が圧倒的に勝ってしまった私は、前のめり気味にお父さんに早く話してくれる様にせがんだ。
そんな私に対して、年々表情が変化しなくなっていっているお父さんだというのに、クスッと小さく微笑んだかと思うと、その直後にはまた石仮面に戻しつつ、しかしきちんと中身は教えてくれた。
その内容とは、今まさに裕美が言ったのと同じ『腰椎分離症』だった。
折角だしと言うか、お父さんがそのまま、この症状がどんな物なのか大凡について話してくれたので、それを簡単に話してみようと思う。
腰椎分離症は椎弓と呼ばれる、腰椎の後方部分が分離した状態を指すらしく、いわゆる疲労骨折が原因と考えられている様で、成長期のスポーツ選手に多発しているとの事だ。
そう、まさに成長期である裕美に有り得る症状だと聞いた瞬間に思ったのだが、しかしその直後にお父さんの口から発せられた数値に驚きを隠せなかった。
何しろ、この症状は一般人ではという限定とは言え、全体ではたったの6%、女に限って言えば4%しか認められないと言うのだ。
そんな稀な症状に、いくらスポーツマンとはいえ裕美がなるだなんて、その不幸に思わず胸が苦しくなったのは言うまでもないが、そんな私を他所にお父さんは話を続けてくれた。
一般に分離発生段階には、腰を反らしたときに狭い範囲に限られた痛みを感じて、ほとんどがスポーツ中やスポーツ直後に腰痛を自覚するらしい。痛いまま、そのまま長期間放置していると分離が完成してしまい、分離部は偽関節というグラグラな状態になり、治りにくい状態となるようだ。若い頃の腰痛を放置して、そのまま歳とってから医療機関に来る中には、この偽関節を認めることが多い…と補足を入れてくれた。
このままお父さんの話は深まっていき、治療法について進んで行った。
分離症は、発生した最初のうちは単なる疲労骨折なのだが、時間とともに病態が変化していき、治療方法も大きく変わっていくと前置きを置いた後で、裕美の主治医の診断結果を簡単に教えてくれた。
それによると、運が良い、不幸中の幸いとでも言うのか、私が知る限りでは裕美が腰に違和感を覚えたのは今年の初め辺りだったので、大分月日は経っている計算となるはずなのだが、しかし症状としては発生初期の段階と似通っているというか、事情を知らないで診れば同じにしか見えないらしく、治療方針もその様になったとの事だった。
要は、偽関節になっていない状態だということだ。
治療法としては、コルセットを装着して、手や足の骨折に対してギプス固定をおこない安静にするのと同じ様に、骨の癒合状況に応じて何ヶ月間かのスポーツ中止を指導するとの事だ。
…うん、この話を聞いた瞬間も胸がキュッとする様な心地となったのは勿論だったが、だがそれでも、早期発見と変わらない初期治療で済んだという安心感がまた湧き起こってきて、身勝手なことを言うようで当人である裕美には悪いが、あれだけ体を動かすのが大好きな裕美にとっては辛い数ヶ月を過ごす事となる事は必至であっても、それでも繰り返しになるが、まだこれだけで済んで良かったと、私なりに自分のことの様に胸を撫で下ろす心境なのだった。
…とまぁ、私はその様な昨夜の情景を思い返していたのだが、その間はというと、裕美が自分が受けた診断結果の症状がどんな物なのかを、縦横無尽に飛んでくる質問に答える形で答えているところだった。
私がお父さんから聞いた話と殆ど同じ内容を答え終えると、最後に今後の治療方針の話題となった。
この時の私は、またお父さんから聞いた話を繰り返し聞く事になるだろうと思い、軽い気持ちで話を待ち構えていたのだが、不意に裕美の口から飛び出した言葉に対して、当初の予想とは違い驚く事となった。
「それでね、治療なんだけれど…うん、今度ね、私…手術受ける事になったの」
「え?」
「…へ?」
裕美からの想定外な言葉に、一同も声を上げたが、私も数テンポ遅れて思わず声を漏らしてしまった。
なんせ、先程も触れた様に、裕美の症状は初期のもので、少々の時間がかかるとしても、しかし大袈裟なことは一切必要ないと聞いていたのに、急にこんな思いがけないセリフを聞いたために驚きを隠せなかったのだ。
…え?しゅ…手術?
何度も繰り返し言うように、昨夜の時点では手術がどうのという話を聞いていなかったために、思ったよりも軽度で済んで良かったと勝手に安心していた分、今の裕美の発言を聞いて私は動揺が隠せないでいた。
そんな私の心境など知る由もない裕美は、「ふふ、決めたのは実は午前中なんだけどね?」と、何だか照れ臭そうに笑いながら、しかし表情は明るく口調も合わせて続けた。
「今日の午前の定期診察の時にね、CTだとかの結果を聞いてさ、私から経緯を聞いた感じよりも全然状態が悪くなかったというので、その話を聞いて母さんと二人でホッとしていたんだけどね?」
と裕美はここまで話すと、チラッとおばさんと顔を合わせて、どちらからともなく微笑み合った。
そして顔を戻した裕美だったが、今度はその笑みにどこか苦味を加えつつ先を続ける。
「でもさぁ…自業自得とはいえ、リハビリ期間が数ヶ月少なくとも掛かるって言われてさぁ…ふふ、これから先に待ち受ける長い長い道のりに、少しゲンナリっつうかウンザリしていたんだけれど…ね?」
と裕美はここで一旦溜めると、不意にまた表情を明るめて言った。
「そんな大袈裟に溜息を吐く私を見かねた先生が、提案してくれたのが…手術だったの」
「…」
「…その手術って」
と、皆が中々口を開かなそうだと察した私は、ここは”何でちゃん”の本領発揮と口を挟む事にした。
「大掛かりな…やつなの?」
「…」
と私が聞いた次の瞬間、やはり誰も口を開かなかったが、しかしどの顔にも興味津々具合が浮かんでおり、身体も裕美の方に徐々に寄せていっていた。
そんな私たちの様子に苦笑いを浮かべると、裕美はその笑みのまま答えた。
「あはは…んーん、多分みんなが想像している様な、大袈裟なものでは無いみたいだよ。少なくとも私と母さんが聞いた限りじゃね?」
と裕美は一度おばさんに目配せしてから先を続けた。
「私も母さんも、手術を提案された時、ドキッとしちゃったんだけど、でも先生が話してくれるには、ドラマとかで見るような、メスとかで大きくパックリ開くみたいなものではないらしいの」
と裕美は言うと、先ほどのメモ用紙にまた新たに何かを書き加え始めた。
そして書き終えると、それをこちらに向けてきたのだが、そこには『低侵襲手術』と書かれていた。
「てい…しんしゅう…」
と今回は私も字をそのまま呟くように口にすると、その後で他の皆も続いた。
侵襲かぁ…確か外科手術とかの、外部からの刺激を与えるって意味合いだったわよね?
と不意に、幼い頃にお父さんの書斎に侵入して、そこにあった本棚の書籍群を読み漁った中に、この単語が書かれていたのを私が思い出している中、裕美は少し愉快げに口調も明るく言った。
「うん。私も初めて聞いた時は、初めてってくらいだから何の意味なんだか分からなかったんだけど、でも説明してくれるにはね?一般には傷が小さくて済むってイメージらしいんだけど、本当はそれだけじゃなくて、要は筋肉へのダメージをより小さくしようというコンセプトらしいの」
とここで一呼吸を置くと、裕美はまた続ける。
「あはは、そう、筋肉への負担が少なくて済むって言うんでね?早期のスポーツ復帰を希望したり、長期の安静が困難な場合だとか、まぁあまり時間をかけて治すのがイヤ…って、ふふ、これは私の事だけど、さっきも説明した偽関節になっていない状態であれば、低侵襲での手術が
出来るって言われたの。それでね、その後で『そういう事なんですが、高遠さん、あなたは幸いにも偽関節になっていないようですし…如何なさいますか?手術を受けられてみますか?』って聞かれたの。急な事だったし、すぐには答えられなくて、一緒にいた母さんと顔を合わせていたんだけど…」
と裕美は実際におばさんと顔を見合わせつつ言ったが、すぐに顔をまた私たちに戻すと、柔らかな笑みを浮かべつつ続けて言った。
「一度ね、先生には待ってもらって、その場で母さんが仕事中の父さんに電話をかけたの。コレコレという話が出てるんだけど、どうしたら良いかって聞いたら、母さんによると、もしも本人が望むなら、その様にしてあげてって言ってくれたらしく、それを言った後で母さんも、『あなたはどうしたい?』って聞いてくれたの」
と裕美は、顔は向けずに視線だけチラッとおばさんの方に向けた後で、またこちらに目を戻すと、今度は考える風な態度を取り始めた。
「んー…あはは、当たり前だけど、手術なんて初めてじゃない?まぁ話を聞く限りでは、人数も少人数で行われるらしいし、思ったよりも…うん、恐怖感というか怖くは無かったんだけど…」
と裕美は少し間を置いたが、顔を徐々にまた柔和な笑みに変化させていくと、口調も柔らかく続けて言った。
「…うん、でもさ?それですぐに治るというし、入院期間も一週間未満って感じで少なくて済むって聞いてさ?…あはは、母さん達には負担をかけちゃうかもだけど、でもジッとしてられない私みたいなのが、数ヶ月も運動しちゃダメっていうのは…無理だなぁーって思ってね?それで…うん、手術を受けるって決めたの」
途中までは、所々で戯けつつ話していたが、最後の最後で静かに、しかしその声に力強さを宿しつつ言う裕美に対して、あまりにも一気に情報量が増えたために理解が追いつけないのもあって、「そ、そうなんだ…」と、私含む皆で呟き返す他に術が無かった。
そんな私たちを他所に、補足として裕美がついでにと付け加えるようにして口にした手術日は、奇しくも大会当日なのだった。
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