第15話 理解するのに、約五秒

 お客さんも少なくなってきた二〇時半頃。

 店長に上がっていい、と言われた私は、待ってくれていた恭太郎さんに声をかけた。

「恭太郎さん、そろそろ上がりますね」

「分かりました」

 恭太郎さんは参考書などを片付け始めると、私は従業員控室へ着替えに行った。

 心配させてしまった。

 待たせてしまった。

 そのせいでバイトに集中できなかった申し訳なさが私の中から消えない。

 なんだろう……このふわふわとした気持ちは。

 ここ最近、色々突飛すぎたからだろうか。なんだか気が抜けてしまった。

 私は気を引き締めようと頬をパンッと叩いて帰り支度を整える。

 控室から出て恭太郎さんに声をかけようとすると、店長が話しかけていた。

 店長に変な事を吹き込まれていないかしら……。

 私は心配になって控室の扉を開けると、店長がとんでもない発言をした。

「恭太郎くんって、もう冴姫ちゃんとキスしたのかしら?」

 …………はい?

 時が止まった。私も。多分、恭太郎さんも。

 理解するのに、約五秒。ゆっくりと、思考が動き出す。

 モウキスシタノカシラ?

 ようやく意味を受け止められた。

 私は火をつけられたように顔を火照らせてしまった。

 恭太郎さんも耳まで分かりやすく赤面してしまっている。照れを隠すように口元を右手で覆うと、小さくぼそりと呟いた。

「……して、ません……」

「あら、残念。許嫁だから普通にスキンシップとして、やっていると思ったんだけど……」

 腰が砕けてしまった。私はへなへなその場にしゃがみ込む。

 えっ……キスってスキンシップなの……? 性行為じゃないの!?

 私が戸惑っていると、店長が気付いて振り返ってきた。

「って、冴姫ちゃん!? どうしたのっ、顔も赤いしっ!?」

 誰のせいだと思っているんですか……!?

 踏ん張って無理やり立ち上がると、私は店長にはっきりと告げた。

「店長、からかうのもほどほどにしてください……っ!」

 私は「お疲れ様でした」とだけ言うとさっさと店をあとにした。

 暖房の効いていた店内にいたせいで、夜の冷え切った風が痛い。頬を叩かれるような、鼻の奥が痺れるような冷たさでほんの少しだけ気分が落ち着いた。

 だが身内への羞恥心は全く和らがなかった。

 思わず深く溜息をつくと、恭太郎さんが追いかけて来た。

「冴姫さん、大丈夫ですか?」

「…………」

 恭太郎さんに顔を向けられない。

 申し訳なさと恥ずかしさで頭がおかしくなってしまいそうだ。

 私は目を伏せて、腕を抱くようにして体を震わせた。

 すると首元に何かをかけられた。

 黒いマフラーだった。

 思わず顔を上げると、恭太郎さんの優しい声音が鼓膜を震わした。

「今日は冷えます。自分のマフラーで良ければ使ってください」

「えっ……?」

 もしかして寒がっていると勘違いしたのだろうか。

 コートだけで恭太郎さんはそのまま歩き出した。

 どんどん進んで行く彼を私は慌てて追いかけながら言った。

「申し訳ないわ! 恭太郎さんの方こそ寒いんじゃないの?」

「自分はコートで十分ですので。女性が体を冷やすのは良くないですし、お気になさらず」

 と言われても申し訳ないことに変わりなかった。

 さっきだって身内のセクハラで不快な思いをさせてしまったのに……。

 私が言葉に迷っていると、恭太郎さんは穏やかな口調で言ってきた。

「ずいぶん賑やかな叔母さんでしたね」

「本当にごめんなさい……。昔から恋愛話を嗅ぎ付けると止まらなくて……」

 私の言葉に恭太郎さんは落ち着いた態度で答えてくれた。

「やはり学校ではお互いに接触しない方が良さそうですね。自分も今思ったんですけど、このご時世に許嫁というのは珍しがられるみたいですし」

「…………」

 私は思わず立ち止まってしまった。

 恭太郎さんは私の方を振り向くと、不思議そうに小さく首を傾げてきた。

「どうかしましたか?」

 夜風が吹き抜けて、私の髪を乱した。

 だが私は整えることもなく、茫然としながら恭太郎さんに尋ねた。

「……怒っていないの?」

 店長は……叔母は事情もいまいち分かっていない。

 あんなセクハラをされたというのに、恭太郎さんは怒っている素振りを見せなかった。

 怒ったって無理はないだろうに、何故……?

 不思議がる私とは対照的に、恭太郎さんはきょとんとしたような顔をした。

「いえ、別に。確かに驚きはしましたけど……」

「…………!」

 信じられない。

 私だって腹を立てたのに……。

 どうしてこの人は受け入れることが出来るんだろうか。

 私は目を見張り、言葉を失った。

 すると恭太郎さんは私の方に歩み寄って来て、さっきの風で乱れたマフラーを巻き直してくれた。

「今夜は冷えるみたいですね。早く帰りましょう」

「え、ええ……」

 私がぎこちなく頷いて歩き出すと、恭太郎さんは歩幅を合わせて歩いてくれた。

 どうしよう、なんだかドキドキする……!

 鼻腔に触れる恭太郎さんの匂いのせいだろうか。

 いつもよりも近くに感じて、心臓が早鐘を打つように高鳴っているのが分かる。

 そのせいか顔も火照り出してきて、顔を隠す為にマフラーに顔を埋める。

 だが……ふわふわとした甘い気分は、案外心地いいかもしれなかった。

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