第6話 火照る顔が上げられなくて

 久しぶりの回転寿司だったのに、今日はあまり食べられなかった。

 なんだか体の奥から熱くて仕方なくて、

 お会計を済ませると、私たちは武蔵英太郎さんの車に乗り込んだ。マンションまで送ってくれるそうだ。

 武蔵英太郎さんが車を走らせていると、兄が私に聞いてきた。

「冴姫、あんまり食べてなかったけど、良かったのか?」

「いくらの軍艦食べたし……割と満足よ」

 まあ、味は全くしなかったが。

 わざとではないとはいえ、武蔵恭太郎さんの右手に触れてしまった。

 その瞬間からどんな寿司ネタも味がしなくて、あまり食べた気になれなかった。

 まさか自分がここまで異性に慣れていなかったなんて……。

 こんなことで本当に許嫁という役割を全う出来るのだろうか。

 明日には武蔵修治郎さんのお見舞いに行かなければならないのに、先行き不安だ。

 回転寿司でもあんなに盛り上がっていたのに、兄たちはまだしゃべり倒している。

 よくそんなに話すことが思い浮かぶな……。

 あまりおしゃべり上手ではない私にとっては、兄の社交性が羨ましかった。

 するとカーナビが「目的地周辺です」というアナウンスを発した。

 私は手に力が入らなくなってしまっていると、武蔵英太郎さんが声をかけてきた。

「二人とも、そろそろ着くぞ」

「は、はい……」

「…………」

 私は返事をしたものの、武蔵恭太郎さんは無言のままだった。

 もうすぐ着いてしまう……。

 焦燥感に駆られて、冷静になれない。

 カーナビの矢印がどんどん丸に近づく。

 車内は暖房が効いているのに、手が悴む。

 訳が分からないくらい動悸が激しい。

 十七年間、感じたことのない感覚に私は懊悩してしまった。

 マンションの近くに着いて、武蔵英太郎さんは車を停めた。

 私と武蔵恭太郎さんが車から降りると、兄たちがエールを送ってくれた。

「二人とも、仲良くやれよ!」

「恭太郎くん、ちょっと抱え込みやすい妹だけど、どうぞよろしくな~」

 慧兄さん……余計なこと言わないでよ。

 すると武蔵恭太郎さんは事務的な口調で兄に告げた。

「……尽力いたします」

 緊張のせいでぎこちなくなってしまっている。

 まだ手が悴んでしまっている……。

 なんだか足元もふらふらしてきたが、私も武蔵英太郎さんに別れの挨拶をした。

「英太郎さん、今日はご馳走様でした……」

「ああ! またみんなでどこかに出かけよう! それじゃあ、頑張れよ!」

 武蔵英太郎さんはニカッと微笑むと、窓を閉めて車を走らせる。

 街頭が照らす夜道の中。私たちは見えなくなるまで車を見送ったが……

「…………」

「…………」

 重い沈黙が立ち込める。

 顔を上げて目を合わせることさえも出来ない。

 今になって左手が触れた温もりを思い出す。

 本当にどうしてしまったんだろう、私は……。

 私は右手で左手の指先を包んだ。

「と、とりあえず……帰りましょうか」

「……はい」

 私が顔を伏せたまま言うと、武蔵恭太郎さんは頷いた。

 私たちは六〇九号室を目指して歩き出した。

 二〇時をとっくに回っているので、凍てついた夜風が頬に刺さる。

 寒いはずなのに顔が火照るように熱い。

 この現象をなんと言うのかは分からない。

 分からないが、なんとなく恥ずかしくて顔が上げられない。

 分析できない感情に戸惑っていると、武蔵恭太郎さんが唐突に声をかけてきた。

「あ、あの……海原さん……」

 言葉に迷っているのか、「えっと、その……」と戸惑うように呟く。

 私は何も言わずに彼の隣を歩いていると、やっと言葉を見つけたようだ。

 武蔵恭太郎さんは立ち止まったので、私は彼の足元を見つめた。

「さ、さっきはすみませんでした……。思わず驚いてしまって……」

 さっき、というのは彼の右手に触れてしまったことだろう。

 私は余計に顔が火照ってきて、顔を上げられなかった。

「そ、そんなこと……! わざとじゃないとはいえ、私の方こそ……」

「自分の方こそすみませんでした……」

 すると武蔵恭太郎さんは本音を打ち明けた。

「今朝からずっと緊張してしまって、どうしたらいいのか分からなくて……」

「…………!」

 私はハッとして、頭一つ分頭上にある彼の顔を見上げた。

 目を逸らしつつ、恥ずかしそうに口元を右手で覆う彼。

 やっぱり、そうだったんだ……。

 兄の言葉は完璧に的を射ていたのだ。

 根に持っていたわけではなかった、と分かった私は完全に安堵した。

 思わず表情を和らげると、私は両手で心臓の辺りを押さえた。鼓動がさっきよりもはっきりと跳ね上がって、息苦しかったのだ。

「よかったぁ……!」

「ど、どうされたんですか……?」

 少しおどおどとした様子で彼が聞いてくると、私も本音を打ち明けた。

「私……てっきりお見合いの時のことを根に持っていると思っていたので……。今朝だって睨まれたからどうしようって……」

「えっ……!?」

 武蔵恭太郎さんは目を見開いた。そしてこれでもかとあたふたして、私に謝罪してきた。

「す、すみません……っ。そんなつもりは……!」

「だ、大丈夫です。けど……――――」

 深く息を吸って呼吸を整えると、私は武蔵恭太郎さんに告げた。

「もっと、話し合うべきだと思いました……。お互いのことも、これからのことも……」

「…………」

 武蔵恭太郎さんは何も言わなかったが、どこか驚いた様子だった。

 誤解が解けて安心した私は、今日初めて笑みを浮かべられたような気がした。

「武蔵さん、改めてよろしくお願いします」

「こ、こちらこそ……よろしくお願い申し上げます」

 とことん事務的な口調だったが、口調は柔らかかった。

 寒空の下、私たちはようやく顔を上げて六〇九号室へ歩いて行くのだった。

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