病院のベッドで寝るのは初めての経験だったが、居心地は最悪だ。

 硬いベッドで腰は痛くなる。昼間は何もすることがなく寝るだけ。深夜になると、その度隣の患者を見に看護師が来てうるさい。さらに時々、他の病室から奇声も聞こえたりする。普段から眠りが浅い俺には耐えられない環境だった。

 それでも救いだったのは毎日のように誰かがお見舞いに来てくれることだった。黒島たち4人はこちらがもう来るなと言ってもしつこく来てくれるし、他の訪問者も時々顔を見せてくれた。

「いやあ、せっかく見に来てくれたのにあいさつできなかったからさ」

 まだ、顔中に試合の際にできた痣が治りきっていない4回戦プロボクサーが来てくれた。

「大変だったね。怪我大丈夫?」

 変わらずの太い眉の童顔で性格は明るい。試合で負けたことは微塵も感じなかった。

「ええ。大丈夫です」

 俺の怪我は体が丈夫だったから軽症で済んだが、もう少しやられていたら死んでいたかもしれないと医者から言われた。そう宣告された時に黒島たちも一緒にいてショックを受け泣き始めてしまい、俺が彼女たちを慰めて大変だった。

「試合。残念でしたね」

「ああ。あんな試合見せてしまってごめんね」

「いえ。凄いいい試合だったと思います」

「そんな、お金払って見に来てくれているんだから、ダメなものはダメと言ってくれていいんだよ」

 俺は本音を言ったつもりだった。本当にいい試合だと思ったのだ。勝敗から見れば、負けという結果があるが、金を払ってまで見る価値のあるものだった。

「ねえ。メガネ君はどうしてボクシングしているの?」

 彼は俺に訊く。ボクシングジムでも会長がお前と呼ぶ以外、俺のあだ名はメガネ君だ。

「俺は、その。。。」

 ふと黒島たちの顔が思い浮かぶが、答えられなかった。

「恥ずかしいけど、俺より君の方が強いよ。どうしてプロ目指さないのかなと思ってさ」

 いやそんなことはと謙遜しながら、そんなことをプロボクサーに言わせてしまったことに申し訳なさを感じた。

「わかっているんだ。俺のことみんな馬鹿にしていることぐらい」

「え?」

「俺、今年28歳になるんだけどさ、普通、こんなに弱かったら引退して正社員になるものだよな」

 いつか会長がプロボクサーは殆どのボクサーがボクシングだけでは食っていけない。だが、普段の練習も夕方から毎日行うし、試合前ともなると減量や練習の追い込みでほぼボクシングづけになる。だから、アルバイト派遣社員をしながら生計を立てていると言っていた。

「でも辞められないんだよな。ボクシング」

 愛おしそうに自分の拳を見つめながら握っては開いてを繰り返す。

「こんなボコボコにされても、そりゃあ試合後は凹むけど、またリングに上がりたくなる。どうしよもないよな。どう思う?」

「…いや、どうと言われても」

 どうしてそこまで戦うのか聞きたかったが聞けなかった。ここでカッコいい回答が返ってきてそれと自分を比べるのが嫌だったのかもしれない。

「ごめん。だよな。知るかってことだよな。俺もわからない。わからないけど、5年くらい前に凄い怪我をしたことがあってさ。そこからリハビリして復帰して、その戦でこの俺が勝ってさ」

 楽しそうに彼は話す。俺はこんなに楽しそうな顔をしていることが最近あっただろうか。気が付くと嫉妬していた。

「あの時の感覚が忘れられないのかもしれないな」

「あの、失礼なこと聞いてもいいですか?」

「何?」

「まだプロボクサー続けるんですか?」

 しばらく黙ったあと、笑顔になり彼は大きく頷く。

「ああ。やるよ」

 俺はまだ子供だし、大人がどれだけ生きていくのが大変なのかはわからない。でも、少なくとも俺はこの人のことを馬鹿にしたりしない。

「あの、また試合観に行ってもいいですか?」

 彼は驚いた顔をして俺の手を両手で握る。

「ありがとう。俺頑張るよ。またその時はスパーリングのパートナーよろしくね」

「ちょっと、痛いです」

 怪我が治りきっていない手を握られ少し苦笑いする俺に、彼が慌てて手を離しごめんごめんと謝る。

「それにしても今年は雨が多いね」

 窓を見つめると降り止まなそうな雨がしつこく降り続いていた。

「雨って嫌だな。外でロードワークもできなし」

「俺はもう、慣れましたけどね」

「え? そうなの?」

 この人は正直だ。嫌なことは嫌だと言える。 

「じゃあそろそろ俺行くね」

「はい。来てくれてありがとうございました」

 ボクサーが病室から去った後、しばらく窓を見ながら考えていた。この怪我が治ったらその後はすればいいのだろうか。1日中考えたがその答えは出ることはなかった。

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