第10話

 とある商業施設の一階にあるスターバックスのテラス席に、詩織と彼は座っていた。K公園から歩いて十分もかからない距離にあるため、話し合いの場所はここにすることにした。二人でよく来ていたデートスポットのうちの一つだ。


 風通しの良いこのテラス席は、時折強い風が通り抜けていく。

 今日の風は少し冷たく感じられた。外は肌寒くはあるけれど、店内という選択肢は無かった。なぜならば、客が多くざわざわと騒がしいからだ。あの場所は、大事な話をする場所としては不適切だ。


「……急に呼び出してごめんね。あと、ずっと連絡しなくてごめん。今日は、どうしても文彦くんに話しておきたいことがあって……」


 緊張した面持ちのまま、詩織は話を切り出した。


「別に気にしなくていいけど? それより、体調の方はもう大丈夫なん?」

「……うん、おかげさまで」


 彼の名前は、内田文彦うちだふみひこ。詩織の二歳年上らしい。

 ほっそりとした体つきに直毛の髪。白のシャツに濃紺のジャケットを羽織り、スキニージーンズを履いている。かなりシンプルなファッションで、彼からは清潔感が感じられる。


 詩織と文彦が向かい合っている中、瞳は数メートル離れた座席に座っていた。彼女から『わたしが逃げないように、カミングアウトを見届けてくれませんか?』とお願いをされたからだ。


 詩織の上司がこんなに近くで話を聞いているだなんて、文彦は考えもしないだろう。


「実はわたしね、文彦くんにずっと隠してたことがあってね……」

「うん」

「えっとね……」

「……」


 早速本題に入ろうとする詩織だが、つい口ごもってしまう。何をどの順番で話せば伝わるのかを一生懸命考えているからだ。


 瞳はここに来るまでに、詩織に一つだけアドバイスをした。それは、カミングアウトするときは"自分が今後どうしたいのかをちゃんと伝える"ということ。ここを伝えないと、相手がただ単に"話を聞くだけ"で終わってしまうからだ。


「あの……実はわたし、双極性障害っていう持病があってね……そのことをずっと文彦くんに隠してたんだ……この前、過呼吸で救急搬送されたのも、この病気の発作だったの……」

「……そう、だったんだ……その、そうきょく……ってどんな病気なの? 俺、何も知らなくて」

「えっと、うつ病みたいな感じに近いんだけどね……気分が急に落ち込んだり、急に上がったりするの。わたしの場合、それに過呼吸もあるって感じで……」

「……ふーん」


 文彦はただ淡々と、詩織の話を聞いている。


「……これまでずっと、デートの時は隠れて薬を飲んでたりしてたの……人がたくさんいる場所に行くと、発作が出そうになるから……でも、薬を飲んでるとこを文彦くんに見られたら心配かけそうだと思って……ずっと、言えなくて」


 冷静に話を進めるつもりだったが、詩織は涙目になっていた。

 しかし、泣くのを必死にこらえて話を続ける。


「……でも、文彦くん優しいからさ……この前もずっと病院に付き添ってくれて……そんな文彦くんに“隠し事”するの、もう疲れちゃって……」

「……」

「……そういうことをずっと考えてたらさ、頭のなかがぐちゃぐちゃになって……もう自分がどうしたらいいか分からなくなったの……でも、やっぱり文彦くんには本当のことを知ってもらいたいと思って、今日言うことにしたの……」


 一息ついて、詩織は話を続ける。その目は、文彦を真っ直ぐに見つめている。


「……今まで病気のこと黙っててごめんなさい……たくさん心配かけて、迷惑もかけてごめんなさい……こんなどうしようもないわたしだけど、これからも付き合ってくれますか? 好きでいてくれますか?」


 詩織はついに、一年半も言えなかったことを最後まで逃げずに言えた。


 しかし、カミングアウトを受け入れるかどうかは"相手次第"だ。彼の返答によって、今後の二人の未来が大きく変わる。ずっと一緒にいられるのか、それとも今この瞬間に終わるのか。


「……そんなの」


 ほんの数秒間を置き、文彦が"答え"を出そうとした刹那、突如として強い風が吹いた。風通りのよいテラス席は、もろに影響を受ける。



「……っ!」

 砂埃すなぼこりが舞い、瞳は目に痛みを感じた。どうやら、目に砂が入ったらしい。


 再びまぶたを開けたとき、詩織がうつむき加減で涙を流していた。

 瞳には風の音で文彦の“答え”が聞こえなかったが、どうやらカミングアウトの決着はついたようだ。


 その後、二人は沈黙したまま言葉を発していない。そのため、瞳にはカミングアウトが上手くいったのかどうかを確かめる術はなかった。


 しかし、一つだけ確かなことがある。それは、詩織の泣き顔が悲しいものではなく、むしろ"輝かしいもの"だということだ。一年以上も詩織と仕事をしてきた瞳だが、彼女のそういう明るい顔を見たのは初めてだった。

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