第7話

 詩織の自宅マンションは、思いの外近くにあった。

 会社から南東に一キロメートルほどの距離。区役所や斎場、マンションなどが建ち並ぶ街区。彼女がこんなに近くに住んでいたことを、瞳は知らなかった。


「出ないわね……」


 オートロックマンションの入口でチャイムを鳴らすも、全く反応がない。

 ここに来て、かれこれ数十分が経っているが、事態は何も進んでいない。そろそろ、すれ違う住人からの視線が痛く感じ始めていた。


 もう一度チャイムを鳴らそうとしたその時、瞳の背後で人の気配がした。反射的にバッと振り向くと、そこには見覚えのある小柄な女の子が立っていた。


「……星野さんっ!?」


 一瞬、反応が遅れてしまった。


 服装がいつもとガラッと違っていて、おまけに大きな黒縁メガネもかけていない。今まで一年近く"パンツスーツ姿の詩織"しか見たことがない瞳にとって、白のワンピースにデニムジャケットを羽織った彼女の姿は、まるで別人のように見えた。


 しかし、中学生の平均身長を下回るであろう背格好と、瞳と目があった瞬間に"バツの悪そうな顔"をした反応を見て、その姿は間違いなく星野詩織だと思った。


「ちょっと、今まで何してたの……って!?」


 瞳が声をかけるよりも早く、詩織は来た道を逆走し始めていた。


「どこに行くの!? ねえ!」


 予想外の展開に一瞬反応が遅れるも、瞳は詩織を追って走る。ブーツを履いているため、思うように足が進まない。





 急な逃走劇は唐突に終わりを迎えた。


 四百メートルほど全力疾走した辺りで、二人ともバテてしまったせいだ。お互い、日頃デスクワークしかしていないため運動不足で息切れしたのだ。


「はあっ……はあっ……」

「ふうっ……ふうっ……」


 瞳と詩織は、K公園の公園管理事務所前付近こうえんかんりじむしょまえふきんの芝生で、膝に手をつきながら肩で息をしている。

 この公園は緑化が進んでおり、総面積の半分近くが芝生だ。そのため、ウォーキングや犬の散歩などで訪れる人が多い。


「どう……して、逃げ……るの?」

「……っ」


 息を切らしながら詩織に問いかけるも、彼女からの返事はない。色々と聞きたいことはあるが、まずは呼吸を整えることが先決だと思った。


 それから十分ほどが経過した頃、ようやく呼吸が落ち着いた。


「……ねえ、どうして急に逃げたりしたの? あと、会社休んで何してたの? 心配したんだからね、連絡取れないしさ! 事故とか事件とかに巻き込まれたんじゃないかとか、色々考えてたんだからねっ!」


 呼吸が整うや否や、瞳は矢継ぎ早やつぎばやに色んな質問をぶつけてしまった。本当は一つずつ冷静に聞いていくつもりだったが、感情の方が先走ってしまっていた。


 額の汗をぬぐいながら、詩織はポツポツと話し始める。


「……会社休んで、すみませんでした……心配もおかけして、すみませんでした……連絡も取らなくて、すみませんでした」


 いつもならもっと機械的に話す詩織だが、今日は何だかしおらしい。表情にも曇りが見られるような感じがした。


「……逃げたのは、わざとじゃありません……体が勝手に動いたんです。すみません」


 素直に謝る詩織を見て、瞳はそれ以上"逃げた理由"を追求するのを止めた。マンションの入口で、自分が大きな声を出して詰め寄ろうとしたことが原因かもしれないと思ったからだ。


「で、どうして無断欠勤したの? 一報入れてくれれば、普通に許可出したのに」

「それはその……」


 口ごもりながら、詩織は視線を落とした。両手の指はジャケットの袖を、ぎゅっと掴んでいる。


「わたし、どうしたらいいか分からなくなって……」

「分からなくなったって、何が分からなくなったの?」

「……」

「……」


 黙り込んでしまった詩織を前に、瞳も黙り込む。

 一体、彼女が何で悩んでるのか見当がつかない。悩みのタネが分かれば、自分が何か力になれるかもしれないが。

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