第12話
「真昼!」
飛び込むようにして部屋に転がり込んだが、そこには真昼の姿がなかった。
浴室にも、ベランダにも、真昼はいない。耳を澄ませば彼女の歌が聞こえてきそうなのに、聞こえてくるのは、蝉の鳴き声だけだった。家中そこかしこに、真昼の面影が眼の裏にまで焼き付いているのに、彼女自身が見つけられない。
汗も拭かず、来た時のように僕は外に躍り出て、同じように走り出した。
僕の足は、自然と真昼を拾ったあの海へ向かっていた。確信めいたものが僕の中にはあった。
きっと、誰もが彼女に触れてはいけなかった。なのに、僕は君を見つけて、そして触れてしまった。
運命は始まっていたのに、僕には運命を受け入れる勇気が足らなかった。
息が切れて、足がもつれる。汗が眼にしみて、眼を開けるも辛かった。睡眠不足のせいか、体に力が入らない。……僕はこんなに弱い人間で、君に相応しくなかった。王子様にはなれなかった。でも、これだけは言える。
僕は、君が笑うと幸せなんだ。笑って、真昼。今すぐ会いたいよ。
太陽が街中に光を降り注ぐ頃、白い砂浜と、透明度の低い海。そして、真昼のところに、僕はようやくたどり着いた。
「真昼!!」
海沿いのガードレールを飛び越え、僕は、砂浜を全速力で走った。足が砂に埋もれて上手く走れない。あの時もそうだった。僕はここで彼女を見つけた。そして、この砂浜を走ったんだ。初めて会った時、彼女は海から流れついたように、砂浜に眠っていた。
遠くに見える真昼は、腰のあたりまで海に浸かり、遠くを見ているようだった。
そう、どこかへと、消え行くように。
「真昼!!真昼!!!」
愛する彼女の名前を、僕は何度も叫んだ。この喉が潰れてもいい。名前を呼ぶことができなくなっても、僕は構わない。彼女が、僕の為に笑い、そして僕の為にあの子守唄を唄ってくれるのなら、どんなことだって受け入れる。
真昼は、そっと、綿毛がほころぶみたいに、僕のほうを振り返った。怯えた眼をした彼女を見て、僕は心の底から後悔した。こんな顔をさせたかったんじゃない。ごめんな、ごめんな——。
波打ち際から、僕は一気に水の中へ入った。押し寄せてくる波を、必死にかき分けて、海を走った。
「真昼、帰ろう! うちに帰ろう!!」
真昼まで、あと少しの距離だった。
汗だらけで、嗚咽をもらして真昼の名前を呼び続ける僕を見て、真昼は、困ったような顔をして。
———そして誰よりも何よりも優しい眼で、笑った。
僕は、顔をくしゃくしゃにして全力で彼女の為に笑った。そして、彼女を包み込むために両手を前に出した。
その瞬間、全ての時が止まった。
真昼を抱きしめるために出した僕の両腕はしかし、彼女の体温を抱くことは永遠になかった。確かに真昼の体を腕の中に抱きしめたはずなのに、僕の腕が抱いたのは、海の水しぶきだけだった。
僕は、愛しいものを無くしてしまった手で、自分を抱いた。遠い空で、鳶が啼いている。
それはどこか、真昼の唄のようであって、僕は高く空を見上げずにいられなかった。そして、空を知らない雨を、真昼の消えたこの海に、二つの眼から流した。
人魚姫は、王子に愛されなかった報いに泡になって消える。
青空が海に溶けてしまったように、君は海へ帰ってしまった。叫んでも叫んでも、どんなに名前を呼んでも、もう届くことはない。
海を越え、僕のところへ来た君は、もういない。
その夏の終わりに、僕は一枚の絵を描いた。
僕が人物画を描いたのは、後にも先にも、それ一枚だけだった。
屈託なく笑う彼女の絵を見るたびに、僕はあの夏の14日間を思い出す。
そして眼を閉じれば、いつでも人魚姫の歌声が、遠く潮騒とともに聴こえてくる。
了
あたたかい粒子 kai @kai14noce
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