第10話

 家の中の水をとりあえず拭き終わり、大量の布を洗濯機に押し込んだところで、再び僕の携帯電話が鳴った。また管理会社だろうか。僕はうんざりして携帯に出た。

「もしもし、マチ?」

 しかし、電話の主はリズだった。明日絵を渡す約束だったため、心配になって電話をかけたのだという。

「どうしたの? 何かあった?」

 僕は自分でもわからなかったが、随分と酷い声だったらしい。この世でも終わったような沈み具合で、これ以上話し続けたら、崩れ落ちていきそうなほどに。実際、家中をぞうきんがけし、掃除し、身体的な疲労も相まって、自分が紡いできた全てのものを失ったのだ。これ以上の絶望はない。敏感なリズが気付かないはずはなかった。

 僕は絞り出すようにして、絵を渡すことができないと言った。ひょっとしたら嗚咽まじりだったかもしれない。

「マチ、家にいるの? 私ちょうど出先で車だから、そっちに向かうわ」

 完璧に打ちのめされていた僕は、リズの優しさに縋り、わかった、と答えた。近くにある公園の場所を説明し、そこで会おうと約束して、電話は切れた。

 リビングに真昼を残したまま、僕はふらふらとした足取りで玄関にむかった。放りだしたビニール袋の中の絵具が、足元に落ちている。飛び出したウルトラマリンを拾い上げて、ポケットにしまった。多分ドロドロに溶けているだろうアイスはそのままにしておいた。

 靴をはいて、扉を開けた時にもついに、真昼のほうを振り返ることができなかった。突然起こった出来事に、僕はまだ付いていけていない。いまだに夢の中を彷徨っているような気さえしていたのだから。

 

 公園の近くまできたところで、リズの愛車であるキューブが、手前の道路脇に横付けしてあるのが見えた。公園の車よけを通り抜けて広場に出ると、懐かしい、金属のこすれあう音が弱弱しく聞こえてきた。

 この間の喫茶店の時と同じく、リズは先に着いていて、ブランコに座って足で地を蹴っていた。

 僕に気が付くと、リズは顔を上げた。そして、ぎょっとした表情でブランコから立ち上がった。

「どうしたの……顔真っ青だよ」

 僕は、やんわりと首を振り、リズの隣のブランコに座った。もう何年も遊具なんかに触れていないから、座った拍子にブランコが揺れて、うまく座れなかった。それがおかしくて、僕は笑った。

「ねえ、マチ。どうしちゃったの。何があったの」

 僕が座ったので、リズも落ち着きがなさそうに、でも座って僕の顔を覗き込んでいる。僕は両手で顔を覆い、しばらく押し黙っていた。リズはそんな僕の様子を見て、決して焦らずに、僕が口を開くのを隣で辛抱強く待っていた。

 蒸し暑い夏の熱気は、太陽が沈んでも容赦ない。街灯だけの頼りない公園は、虫の声だけが優しく響いていた。

 僕は、うつむいたままゆっくりと、最初の言葉を探した。

「実は……」

 僕は、提出するはずの絵、過去の絵を失ったことも、そして——真昼のことを、リズに話した。あの子のことを誰かに話すのは、僕にとって最もしてはいけない禁忌のはずだったのに。それほど、この時僕は傷ついていたのだろうか。

 僕の話を聞いて終わったリズは、僕の顔を見て、それから何か考えるように、自分の手元を見つめ、やがて静かに、もう一度僕の眼を見た。

「ねえ、マチ。ごめんね。父さんがね、絵を提出してほしいって言ったのは、嘘なの」

「え?」

 僕は思いがけない言葉に眼を見張った。

「私ね。もしも個展でマチが有名になってしまったら……と思って、その前にもう一枚だけ、マチの絵がほしかったの。気晴らしに描いた絵じゃなくて、熱のこもった、大学の頃描いていたみたいな、マチの絵がほしかった。だから、絵のことは気にしないで……。ごめんね。私のわがままで、大変な思いさせちゃって。でも、父さんがマチを個展に誘ったのは本当。冬までに作品を作ってくれれば、ちゃんと出展させてもらえる」

 僕は、リズに向けてどんな顔をしたらいいかわからず、うわずった相槌を返すことしかできなかった。拍子抜けした、という表現がたぶん一番合っていた。

「マチが、何か隠してるんだなっていうのはなんとなくわかってた。だけど、ねえ、マチ。その子、本当にマチと一緒にいていいの?」

 僕は、今絶対に打ち勝てないものと戦っている。僕では、とうてい太刀打ちでないそれの名を、正論という。

「それは……」

 返す言葉は見つからない。いつも、真昼と出会った日から持ち続けたイメージが、今、僕の心を覆い尽くし始めていた。いつか、破滅に向かうだろう未来が、緩やかに、だけど加速をつけて訪れようとしている。

「精神的に疾患を抱えている人ってね、気に入らないことがあると、癇癪をおこしてしまうこともあるんだって。その子、マチがずっと絵を描いていて淋しかったんじゃない? だから部屋とマチの絵を水浸しにしちゃったのよ。気付いてほしくて。マチに、気が付いてほしかったのよ」

 真昼、と僕は心の中で何度もつぶやいた。このまま二人でいることは無理だということがリズの唇から残酷に突きつけられるたび、胸が痛くなると同時に、どこかで僕は安堵していた。

 いつかまた、今日のように、真昼が僕に途方もないやり方で意思を誇示してきた時、僕は受け入れることができるかわからなかった。

 鉛筆を、筆を持ち、愛する彼女の為に朝ご飯をつくるためのこの手で、彼女を傷つけないという保証は、どこにもない。

「その子、捜索届とか出てるかもしれない。私、明日近くの警察に聞いてみるわ。マチも一緒に行こう? もし一緒にいるのがきまずかったら、私が連れていくよ」

 リズは、僕が真昼を僕の家につれて帰ったことを決して咎めなかった。同年代の女性ならば、変質者、もしくは犯罪者扱いしただろうに、リズは僕のしたことを受け入れ、なおかつ協力しようとしている。

 僕は、きっとわかっていた。

 このまま真昼と生きていくことはできないと。

「ごめん。ありがとうリズ。明日、また連絡するよ……」

 僕はリズにそう伝えた。送っていく、という彼女の申し出を、少し外の空気を吸いたいんだ、と言って辞退した。

 彼女は、いつもの健康的な笑顔を少しだけ見せて、じゃあ帰るね、と言って公園を後にした。

 リズの誕生日が明日だったということに僕が気付いたのは、だいぶ後になってからだった。

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