第9話

 その時の光景を、たぶん僕は永遠に忘れないだろう。

 床一面、デッサンが描かれた白い紙が水に浮いている。水面に浮かび上がる、異国の街。鉛筆で出来た街が、そこに広がっていた。

 その中央で、真昼が唄っている。いつもの、儚くて綺麗で、そして、哀しくて憐れな唄を。

 後になって考えれば、とても愚かしいことに、僕は水浸しになったこの部屋よりも、そしてなにより最愛の人魚姫のことよりも、僕は——たった一枚の絵を心配していたのだった。

「……まひ……る」

 真昼の手元に、僕が8日かけて創り上げた僕の世界がある。

 

 この部屋と同じく、水浸しになった僕の世界がそこにあった。

 

僕は世にも情けない声を出して、その絵に駆け寄った。

 感情のこもらない手で真昼を突き飛ばし、そして彼女の手から絵を奪った。絵は、色の境界を失い、原形をとどめない位、めちゃくちゃだった。絵具が水分を孕んで溢れだして、紙からどす黒い雫が滴っていた。

「なんで……なんでこんなことしたんだ!」

 僕は喉から血が出るほど声を出して、真昼をなじった。真昼は眼を背けなかった。二つの黒蝶真珠が、僕を揺るがなく見つめる。ぞっとするような暗闇だった。どこまでいってもなにもない宇宙の闇だ。

 思えば、僕はなぜ彼女と一緒にいれたのかが、今更不思議になってきた。得体のしれない歌を歌い、言葉を話さず、正体もわからないこの少女と。

 僕達はしばらくそうやって見つめあっていたが、僕のジーパンのポケットの携帯が着信を知らせた。出てみると、アパートの管理会社からだった。下の階の住民から、ベランダから水が落ちてくるという苦情が入ったらしい。

 僕は適当な言い訳でごまかし、何も言わずに部屋の掃除にかかった。

 家中にあるだけの布を持ち出して、僕は床に溢れた水を拭き取った。ばらまいていたデッサンもスケッチブックも、僕が大学の時から描き続けてきた作品は、見るも無残な紙クズだった。あとは捨てられるのを待つだけの、ただの紙切れになり果てていた。

 一つ一つを、ビニール袋に入れていると、頭がおかしくなりそうだった。事故で子供を失った母親って、こういう気持ちかもしれない。埋葬していく我が子を、どんな表情で見送ればいいかわからず、途方に暮れる。

憤りすら感じることができず、喪失感と単純作業が唯一僕を支えている。

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