第8話
次の日の朝から、僕は狂ったようにスケッチブックに向かい続けた。鉛筆を走らせ、真っ白な紙に、ひたすらデッサンを描き続けた。
僕が描いたのは、どこでもない風景だった。一度も行ったことのない場所、そして、この世界に決して存在しないであろう場所。
下書きを何度も破り捨て、眼を文字通り血走らせて、僕は絵を描き続けた。
昼も夜も忘れたようにスケッチブックに向かい、バイト先には、親が急病になったと伝えて長期の休みをもらい、とにかく絵を完成させることに没頭した。
床一面に広げられたデッサンの山。鉛筆の削りカス。
僕が喋らなくなった家の中では、筆と鉛筆が紙の上を走る音と、あとは筆をすすぐ際の水をかきまぜる音しかしなくなった。それだけでいいと望んでいたところもある。せめてこの小さなアトリエで、自分の描きだす世界を構築していくものだけを、僕は欲していた。
芸術家に気がふれてしまう人間が多いのは、自分の世界を持ちすぎるせいだと聞いたことがある。
あまりに自分の創り出した世界の中に入りすぎて、“戻れなく”なるのだ。
その時の僕はまさにそうだったのだろう。芸術に触れることが出来るのなら、どんなことでもしたであろう。恐ろしいまでの集中力で、食べることも寝ることも忘れて絵を描いていた。絵が僕の一部であるように、僕もまた、絵の一部になろうとしていた。
真昼は、僕が絵を描いている間は、決して僕に近づかなかった。お腹空いたか? と聞いてやっても、首をふって何も食べたがらない。食べたくなったら食べてな、と、スーパーで買ってきた出来合いの総菜なんかを食卓に置いておいた。が、手をつけた様子はなかった。
もともと彼女は食事を必要としていなかったことと、僕自身が食べないこともあってか、無理に食べさせようとしなかった。
何しろ、僕には時間がなかったこともあり、真昼に構っていられなかったのだ。
そして悲しい人魚姫は、この悲しい芸術家を、悲しい瞳で見つめていたのだろう。
リズからメールをもらって8日目、ようやく絵は完成までもう一歩というところまでになった。僕は床に尻もちをついた形で、深いため息をついた。そして、作業台にしている机の上の、厳重に置かれた絵を見た。
その絵は異国の町並みだった。
レンガ造りの町並みの中央を河が流れ、遠くに見えるのは大きな橋。空に浮かぶのは、空を食いつぶすような大きな満月。川べりに、無数の蛍が舞っている。ダークな色合いの中に、思いついたかのような明るさで光の暖色を混ぜる。
しかし、河の青に取り掛かった時に、ウルトラマリンが切れていることに気が付いた。他の色では、代用はきかない。ウルトラマリンは僕の一番好きなラッキーカラーでもある。僕は、急いでシャワーを浴びて、画材屋に自転車を走らせた。
僕と真昼にとって重大な事件が起きたのは、僕がウルトラマリンの絵具と、真昼の為に買ったチョコミントのアイスが入ったコンビニの袋を提げて、玄関を開けた瞬間だった。
まず、ドアを開けて足を踏み入れると、僕の足元でビチャっという音と一緒に、水しぶきが頬まで飛んできた。
「……え?」
靴を脱ぐスペースは、水たまりになっていた。玄関のドアを開けたおかげで、水が外へ流れ出している。
入ってすぐ左手にあるキッチンは、床に溢れた水に収納棚が映るほどだった。どうやら、家中の床が、水浸しになっている。まるで、このアパート全体が、一度海の底に沈んでしまったように。
この家が、僕の家であることが信じられなくなった。僕は玄関に立ちつくしていた。真昼の歌声が聞こえた時、ようやく正気に戻ることができた。
僕はビニール袋を投げだして、靴のまま家の中に入って行った。靴はすぐに水浸しになり、あっという間に僕の足はびしょ濡れになった。靴下を通して水の感触が伝わるのが、ひどく不快だった。
リビングから流れてくる真昼の歌が、恐ろしいほど美しい。僕の鼓動は、胸に手を当てなくてもわかるほど大きく脈を打っていた。
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