第7話
時間通りに待ち合わせの場所に行くと、リズはすでに喫茶店に着いていた。窓際の席を取り、優雅にコーヒーなんか飲んでいる。
「久しぶり、マチ」
「久しぶり、リズ」
健康的な笑い方と、肩に沿って切り揃えた髪も、学生の時と変わっていなかったが、随分大人びて見えた。なぜだろう。リズと話しているはずなのに、全く別人と話しているようだった。そういえば、卒業してから友達に会うのはこれが初めてだ。……そうか、リズだけが大人びて見えるんじゃない、僕がそのままなんだ。
「マチ痩せた?」
店員にコーヒーを追加注文してから、僕は席に座って苦笑した。
「おかげさまで極貧生活だからね」
リズは、僕が座るや否や、まず絵を見せてくれるようせがんだ。僕はトートバッグから絵を取り出しリズに渡した。
……無性に恥ずかしい。卒業してから半年、直接人に絵を見てもらうことはなかったし、そう、しかもリズに見せるときは、僕もリズの絵を見ていたのだ。
リズは僕の耳が少し赤くなっていくのにも構わず、マジマジと僕の絵に見入っている。
コーヒーが運ばれてこなかったら、僕は恥ずかしさのあまり、危うく席を立ってしまうところだった。
「……なんか、恥ずかしいんだけど」
素直に口に出して言うと、リズが目だけを上げて、
「何言ってんの? 今更じゃん」
と、素っ気なく言い放った。
「そうだけどさ……」
仕事は順調なのかとか、共通の友人の近状とか、そんなことを話しつつも、リズは僕の絵に目を落としていた。
やがて、2杯目のコーヒーが運ばれてきたところで、リズが絵を僕に返した。
「マチさ、このまま絵を続けていくの?」
声のトーンがまるで母さんのようで、僕は外を見るふりをして視線をそらした。
「さあ……どうかな」
「そう」
カップに入れた砂糖をティースプーンでかき混ぜていたリズは、僕がそらした視線を追うように窓の外を見た。
「ごめんね。あんまりそういう話したくないよね」
リズは勘がいい。こういう時の人の心の読み方を誰よりも知っている。
「いや……そろそろ考えなきゃと思ってるよ。絵を選ぶかどうかは…わかんないけどね」
彼女の持っている雰囲気は、人を不愉快にさせることなんてない。賑やかそうに見えて、きっちりと周りを見ている。大勢の中で、だれかが一人ぼっちにならないかを、しっかりと見張っている、そして見つけたらきちんと手を差し伸べる。リズという子はそういう女性なんだ。
「マチ、あのね、今日マチに会いたかったのは、まだ絵を描いてるか、今後も描いていくか知りたかったの」
まっすぐ僕を見るリズは、やはり大人の女性だった。真昼と接しているせいだろうか、僕と同い年の女の子は皆、こうやって化粧をして、口元を引き締めて、自分を彩る服を着て町を歩くのだということが、今知った出来事のようだ。
「……どうして?」
「……あのね、うちのお父さん、今度個展を開くの。上野の市営ギャラリーで。でね、今回はせっかくだから、他の作家とコラボをしようって計画してて。もちろん父さんのレベルじゃあ、呼べる画家さんなんてたかが知れてる。だから、若手の画家の子達と組むっていうの」
「へえ。……おもしろそうだね」
「街中の狭い個展だから、大した規模にもならないんだけど、ねえ、マチ。父さんがね、マチに描いてみないかって言ってるのよ」
「え? ……俺に?」
「うん。私さ、大学の頃、見せてもらったマチの絵、気に入ったのは何枚かもらっていたじゃない。マチには言わなかったけど、持って帰った絵、父さんにも見せていたの。父さんは、褒めたり、けなしたりしなかったけど、それでも持って帰ってきたら見たいって言っていた」
たまに、リズが見せた絵をちょうだい、と言ってくれば、二つ返事であげていたの確かだ。リズは大抵僕の中でも満足のいく作品を欲しがった。だから、欲しいといわれると、正直うれしかった。だが僕は勿論、リズが僕の絵を父親に見せていたことなど初耳だ。
「俺なんかが親父さんの個展に出展したら、迷惑になるよ」
「父さんは、マチの絵、評価してるんじゃないかなあ。マチはどうしてるのか、って聞いてきてね。だから、私も同じこと言ったのよ。父さんの主催の個展だからって、無名の新人なんか出していいの? って。そしたらね、俺の名義なんか関係ないけど、彼がこの先絵を続けていくのであれば、彼の絵を多くの人に見る場を与えてやりたいって言うの。マチがもう絵を続ける気がなければ、話はなかったことにしていい。だけど、美術の世界で生きていこうと思うなら、どうか、って」
プロの画家たちと肩を並べるなんて、今の僕の現状からは考えられないことだ。
これは、転機なのだろうか。今後絵を続けていくために、僕に与えられたチャンスなのだろうか。
何より、プロであるリズの親父さんが見込んでくれたなら、少しは自信を持ってもいいはずだ。
「……やってみたい……」
「本当?」
「うん、リズの親父さんがそう言ってくれんだったら、ぜひ、やらせてもらいたい。むしろ、こっちから頭下げてお願いしたいくらいだよ」
持て余す熱が僕の中で生まれていく。初めて鉛筆で風景を描いた時のようなあの情熱、作品を作りたいという純粋な欲望。貪欲でなければ作品は作れない。上を目指したい。僕は絵を描きたい。このまま、埋もれていたくない。
「よかった……。私はさ、絵は挫折しちゃったけど、マチには続けてもらいたかった。父さんに伝えておくね。個展のこと、詳細が決まったら連絡するから」
帰り道、いつもの畦道がなぜか眼に鮮明に映った。モノクロのイメージが、色彩豊かなものに変わった。パレットは絵具で溢れている。ようやく、確かなものを手に入れたんだ。踊るような足取りで、僕は海に面した遊歩道を勇んで歩いた。
家に帰ったと同時にリズからメールが来た。個展に出展するのに、来週までにもう一枚絵を描いてほしいとのことだった。個展は冬までなので、出展するための作品はそれまでに作ればいいのだが、親父さんはとりあえず今の僕の実力を見てみたい、という。さっき渡した絵じゃだめなのか、と返信したが、リズの返事も曖昧で、理由は分からない、とにかく来週の金曜日までに描いてほしいと言われた。
きっと、僕が本気でやる気があるのかどうかを問われているのだろう。寝る間も惜しんで絵を描け。満足させるものを描いて見せろ。上に行きたいなら、それくらい当り前だと、言いたいのだろう。
僕は家のドアを開けるなり、真昼にただいまも言わずに、昨日乾かしたばかりのパレットや筆をリビングに持ち出した。
何を描こう。
海を? 空を?
わからない。でも、絵が完成しなければ、僕は個展に出ることができない。
僕は、棚にしまったままだった大学の時に使っていたスケッチブックを取り出した。
どんな絵を描けば、僕は満足してもらえるだろう。大量に描かれた風景の中に、僕のヒントがあるはずだった。夜空を描いたミッドナイトブルーの端に、綿あめのようにはためくカーテンを染めたアイボリーの皺に、降りしきる花弁を殴り描いた桜色のその中に。
絵の探究は深夜まで続いた。どの絵を見ても、何かが違う。
こんな絵じゃ満足してもらえるはずない。頭を抱えてうずくまったまま、僕は朝を迎えた。蛍光灯よりも強い光が部屋に入ってきて、ようやく気が付いた。夕飯も食べずに、僕はずっと絵に没頭していたことになる。
真昼が、ぼんやりとそんな僕を見守っていたことに、僕は気が付かなかった。
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