第6話

 買ってきたライ麦のパンにバターを塗っている途中で、僕の携帯電話が鳴った。

 大学を卒業してから、僕に電話をかけてくるのは、両親——特に小言を言いたい母親くらいで、画面に表示された名前に驚いた。

「……はい」

「もしもし? マチ?!」

 通話ボタンを押して話し始めた途端、若い女性の声が、静かな室内で突然鳴り響くラッパのような勢いで受話器から飛び出した。

発信者の名前は、白沢里律子。大学の時の友人だ。

「久しぶり、リズ。……どうした?」

「ううん。元気かなって。マチって、今何してんの?」

 マチ、というのは僕のあだ名だ。苗字に「町」という字が入っているので、皆がそう呼んでいた。彼女は「リツコ」の上の部分を取って、「リズ」という愛称を持っていた。

リズとの付き合いは、大学に入りたての頃、授業の専攻が一緒だったのと、たまたまリズも水彩画を得意としていたこともある。初めの頃こそ、自分のいきつけの画材屋の話や、好きな画家の話をする程度だったが、段々と友人としての距離は近くなり、ついにはお互いの自分の絵を見せあい、感想を言い合うような仲になっていた。

 だけど、リズと僕は恋愛関係にあったわけではない。絵を他人に見てもらうなんて、美術大学では当たり前のことであり、日常茶飯事だ。特別な何かがあったわけではない。リズはさっぱりとした気性で、男女関係なく誰にでも好かれる女の子だった。もちろん、僕のような、いや、僕以上に仲がいい男友達はリズには他にたくさんいたし、僕も、性格こそ他からみればだいぶ内向的だが右に同じ。彼女が特別というわけでもない。

 あくまでも、僕達はいい友人であり続けた。

 やがて卒業した後は、連絡を取っていたわけでもなかった。何の用だろう。同窓会にしては早すぎる。

「何って別に……。急に電話かけてくるなんて、どうしたんだよ。」

「なんとなく、マチは元気かなって思ったんだよ」

 リズの父は画家だ。美術をかじっている人間なら、一度くらいは耳にしたことがあるくらい、少しばかり有名。僕も何度かアトリエにお邪魔させてもらったことがある。

 言うまでもなく、リズは父の影響を受けて絵をはじめ、そして大学まで来たが、大学3年の就職活動が始まった頃、彼女は絵をぱったりとやめ、それまで全く専門外の簿記や経理を勉強し始めた。

 彼女は今、都内の会計事務所で働いている。

 親が芸術家で、二世もその世界を目指しているものは少なくない。が、親が著名である程、知らず知らずのうちに子供に与える苦しみは大きい。

 期待や比較、偏見といった具合に。

 周囲の眼はその人自身を見ることができない。どうしても、芸術家である親を前提にもってきてしまう。優れた作品を提出すれば当然と評価され、そうでなければ、どうやら才能は遺伝されなかったらしい、と言われてしまう。

 たとえ好きの一手でここまできても、そんな環境に置かれたら創り出すことに嫌気が差す。

 ……リズも、その一人だったのだろうか。だから、絵を止めてしまったんだろうか。だから、絵とは何も関係ない仕事に就くことにしたんだろうか。

 僕は聞けなかった。聞きたいとも、思わなかった。

 ……講師の台詞に、思い当たる節がゴロゴロある。ああ、僕は人間が好きではないのではなく、興味がないのかもしれない。

「マチ?」

「元気だよ。今はバイトしながら絵を描いてる」

「ふうん。……マチはやめてないんだね」

 『マチは』、という台詞に、—あんたは私と違うのね—という意味が込められている気がした。だから、リズは今描いているのか、という言葉が喉のところで止まってしまった。

「ねえ。ひさしぶりに会わない?」

「……は?」

「最近のマチの絵見てみたいし。マチの家って前と一緒?」

 ……いきなり何を言い出すんだ。

「いや、ちょっと待ってよ。なんで急に」

「忙しいの?」

 大学時代なら、ふつうに他の友人達とリズが遊びに来たことはあった。だが、一人で来たことなんてない。第一、今は真昼がいる。真昼はこういう子だし、誰かに紹介したりしたくない。

「そういうわけじゃないけど……。ちょっと、最近大家さんに内緒で猫を飼い始めたんだ。その猫すごく警戒心が強くて……他の人が来ると引っ掻いたりするんだよ。本当、手が掛っちゃってさあ……」

「猫ぉ? ……ふうん」

 急ごしらえにしては、上々の嘘が出てきたものだ。僕が電話を持ちながら慌てているのを見て、真昼が目をぐるぐる大きくしたり、小さくしたりして、楽しそうにしている。

 ……ごめんな。猫だなんて言って。君は手なんか掛からない、大事な、大事な、僕の——。

 僕の、人魚姫だ。


 結局話がある、ということで大学の近くの喫茶店でリズと会うことになった。ついでだから絵を持ってきてほしいと付け加えて。

 水風呂ですっかり冷えた体をジャージに包み、半年間降り積もって払うことのできない、棚に突っ込みっぱなしの絵を取り出して、一枚一枚眺めた。

 こうやって絵を見返すのは大学を卒業してから初めてかもしれない。

 床に全ての絵を降ろしてみると、随分な枚数だった。真昼が隣にきて、興味津津に絵を見ている。

 リズは、卒業してから上手く描けたものを一、二枚持ってきてほしいと言った。でも、いくら描き続けているとはいえ、こんな短期間で僕の腕が上がるはずもない。しかも、僕が描いた絵は、毎週のように見ていたんだ。今更どうして見たいなんて言い出すんだろう。

 

 日付の古い順から絵を見返してみたが、どの絵もイマイチだった。半分ほど見たところで、僕はため息をついて絵を置いた。

 こんな中途半端な状態の僕が描いた作品、正直見てもらわない方がいい気がしてきた。

 特にリズのような人にこそ、見てもらって落胆されるのが怖い。

 大学時代のように、飢えて求め続けるような創作意欲は、今の僕にはどうしてもあると思えない。

 僕が絵を描くことに拘っているのは、もはやただの情と、あとは将来に対する逃げだ。

 絵は持っていけない、満足のいくものは描けていない。そうリズに伝えようと、携帯電話を取った。

 発信ボタンを押そうとしたところで、小さな笑い声が聞こえた。真昼が、山積みになった絵の一枚を取り出して見ている。

 真昼が取りだした絵は、僕が真昼を拾った海岸の風景画だった。

 この絵は、わざわざ波打ち際まで絵具を持って行って彩色したので、描いた日のことをよく覚えている。沖のほうの海をどんな色で染めるか随分悩んだ。

 僕は携帯電話を閉じた。リズに見せる絵が決まったからだ。

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