第4話

 ゴウ、ゴウという規則的な音が止み、甲高い電子音が鳴った。僕が洗濯機から洗いたての洗濯物を出していると、部屋の奥から優しい旋律が聞こえてきた。急いで残りの服を洗濯機の中から、取り出し、僕は部屋に戻った。

 僕が、彼女を不思議に思うことの一つに、彼女は言葉こそ話さないが、歌を唄う。

 はじめは驚いたが、今は聞こえないと不安になるくらいだった。真昼の声は綺麗で儚くて、胸が痛くなる懐かしさで溢れている。それは届かない残酷な恋の歌であるようで、またはひだまりのなかでまどろむようなうたでもあった。

「おはよう」

 僕が洗濯物籠を持って部屋に現れると、真昼は花が咲くように笑った。そうして、立ち上がって僕のほうへ駆けよる。窓から差し込む夏の朝の光が、真昼の髪へ落ちている。眩しくて柔らかいおひさまを触るように、僕は真昼の髪をなでた。

「もうすぐパンが焼けるよ。少し待っていてね」

 奇妙な同居生活は順調だった。

 人を一人住まわせるなんて、正直はじめは無理が出るんじゃないかと思ってはいたが、真昼は意外なくらいこの家を気に入ってくれたらしく、長年家に居ついた猫の顔をして、自然と我が家の一部になっていった。

 放っておくと何も食べない彼女のために、僕は毎朝とっておきの朝ご飯を作る。はちみつをたっぷりきかせたフレンチトーストや、塩加減の研究をこれでもかっていうほど重ねたハムエッグ等。

 真昼は驚くほど小食で、一日に一食くらいしか食べない。いつも大人しく僕のすることを眺め、僕が笑いかければ応える。そんな毎日だった。

 人魚姫の王子は、陸にあがった彼女が言葉を話せないから、彼女の想いに気がつかずに、ほかの女性を妃に迎えてしまった。…僕は絶対にそんなことはしない。無口な人魚姫を、心から愛していたのだから。

 

 緑の影も濃い快晴の日に、僕がバイト先から帰ると、真昼の姿がなかった。リビングにもキッチンにもダイニングにもいない。

 買ってきた食材を冷蔵庫に突っ込んで、僕は風呂場に向かった。脱衣所の扉をあけると、かすかな水音と一緒に真昼の歌声が浴室から漏れている。

 僕はそっと扉を開けた。バスタブの中の真昼が、歌を止めて首だけをこちらに向ける。僕は靴下を脱いで浴室に入り、真昼にただいま、と声をかけた。

 洗い場に座った僕を見てから、真昼はまた歌い始めた。外部から遮断された浴室では、いつにもまして旋律が美しく聴こえる。

 彼女は熱いお湯には浸かりたがらず、冷水をためた浴槽を好んだ。気が向いたときにこの小さな部屋の蛇口をひねり、水に浸かる。

スケールの小さな海は、それでもひと時の間、彼女を幸せにしているらしい。無邪気な笑顔を見ていると、今日水風呂に入らなくてはならない宿命の僕も、なんだか許せてしまう。

 そのうち、一緒にどこかに連れて行ってやろうと思った。こんな狭い世界ではなく、もっとたくさんの色彩に溢れた街へ。

 しかし、僕にはまだ、真昼と外を歩く勇気がなかった。彼女を知る人が現れたら、真昼はあっけなく僕の前から姿を消してしまうだろう。

 過去を変える力がないように、未来を変える力も僕は持っていない。

 だとすれば、できるだけ真昼が僕の眼の届く場所にいるよう、心がけるしかない。

 浴槽に頭をもたれて、真昼の歌を聞いた。

 こんなにも、簡単に僕の内部を壊してしまう程の存在に、この先出会えるんだろうか。

 真昼の柔らかい猫っ毛に触れる。僕は一緒に歌ってあげられないけど、何かしてあげたい。

 僕の人魚姫に。

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