第3話


 人魚は言葉を話すことができない。人魚姫の話でも、王子の元へ来た人魚は、魔女に声を奪われ、王子に愛を告げることができなかった。

 今、僕の隣で寝息を立てている少女も、話をすることができない。

 僕は結局彼女を家に連れて帰った。まるで猫でも拾ったような感覚だが、連れて帰ってきてしまったものは仕方ない。幸い僕は実家を出て一人で暮らしていた。6畳一間のしがないボロマンションだが、家賃もそこそこで、日当たりのいいことと、何より決め手になったのが、2階だけの特権として天窓がついていたことだ。僕は彼女を家に招き、そして住まわせることにした。


 本当は警察に行こうと思ったのだが、僕の背中で小さな吐息を漏らす少女を、どうしても、誰かのところに預けたくなかった。

 奪られたくなかった。小さな子供のように、僕が見つけた僕だけの彼女を、僕は自分の目の届くところにおいておきたかったのだ。僕は彼女の王子様ではないけれど、どうしても、一緒にいたかった。これが運命と呼ぶなら、勝手に呼んでほしい。罪になってでも、彼女を傍においておきたいと強く願ってしまった。後になれば、何をそんなに頑なになっていたのか、わからないけれど。

 もちろん、性的な目的があったわけじゃないことを補足しておく。僕は彼女の体をどうかしたいとは思わなかった。彼女は清らかで、笑っているだけでいい。僕の隣で、笑う彼女が、何よりも僕の幸せを作っていた。あなたが笑っていればそれだけで嬉しい。一生涯かけて、出会うかわからない存在。僕は確信していた。彼女はそうなんだ。


 僕は彼女を真昼(まひる)と名付けた。彼女に出会ったのが真昼の出来事だったから。

「真昼」とよびかけると、僕のほうを見て瞳を開いてにこりと笑う。たったそれだけなのに、胸が抉られるように、痛んだ。

 彼女から与えられる幸せが、ずっと続くよう願う一方で、どうしようもない破滅に向かっていることも、なんとなくわかっていた。予想や想像ではなく、決められてしまった一つの未来が待ち受けている。僕はその未来に向かっている。ただ、それだけ。


 透き通った空気が染み渡る夏、真昼は僕の家にやってきた。言葉は話さないけれど、彼女は僕を嫌がりも拒否もしなかった。そこに付け込んでしまっているんだろうか。僕の胸は時々思い出したように痛んだ。

 わからない。

 彼女は何かの事件に巻き込まれて、記憶や、成人らしい感情を無くしてしまったのか、先天的な障害を抱えているのか。それとも——本当に人魚なのか。

 最後のは僕の勝手な妄想だけれど、でも本当に、彼女は人魚なのではないかと思わせるほど、神秘的な雰囲気を持っていた。

 海から来た人魚。

 彼女と出会い、彼女を抱きあげた瞬間に感じたが、真昼は極端に体温が低い。僕が見つける前にずっと海に浸かっていたせいかもしれないが、彼女を背に乗せた帰途、海からあがってしばらく経つというのに、彼女の体は一向に温まらなかったのだ。それどころか、触れていた僕の背中が冷たくなってしまうのだった。

 

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