第2話
それは、夏の日差しが容赦なく大地を焦がす8月の出来事だった。僕が住んでいる
街は港町で、家から5分ほど歩けば海にでる。
その日僕は買い物の途中で、いつも通り海沿いの見通しのいい道を歩いていた。
僕が、ふと水面の照り返しを感じ、海を見ようとしなかったら、きっとこの物語は始まらなかった。
一生残るだろう深い傷を負うことも、潰れてしまいそうな苦しい恋を経験することもなかった。
白い砂浜も、透明度の低い海も、寄せては返す波も、いつも通りの光景だった。
しかし、僕は美しくもなく醜くもない、いたって何もかもが普通の景色の中に、一点の“染み”をみつけてしまった。
それが彼女、真昼との出会いだった。
僕は自転車を道の端に寄せて、その景色の染みに見入った。
遠巻きに人間であることはなんとなくわかる。
自殺。
という二文字が瞬間僕の頭の中に生まれた。生まれるまでに、時間がかかった。彼女の行動はあまりに異様過ぎて、ジサツという簡単な言葉であらわしていいか迷ったからだ。
波打ち際に、女性が寝ている。
寝ている、んだろうか。
彼女のからだが、海から打ち寄せてくる波を容赦なく受け止める。
この位置ではよくわからないが、体の半分は、もう海水につかっているだろう。そしてこのまま潮が満ちていけば、彼女の全身は水の中に沈んでいくだろう。
僕は、おもわず近くの遊歩道を降りて、彼女のもとへ駆けだした。
砂浜の砂を、これでもか、というほどまきあげながら僕は走った。もしかしたら彼女はそうして遊んでいただけなんだろうか。という考えも浮かんだが、なんにしろ見ていて気持ちのいいものじゃない。
「なにしてるんですか」
彼女まであと10メートルくらいのところで、僕は大声を張り上げた。こんな声を上げたのは久しぶりだ。というより、こんな声出したこともなかったかもしれない。僕が生きてきた人生で、これほど必死な叫びがあっただろうか。
しかし、返答もなければ、女性はピクリとも動かなかった。僕は彼女を目前にして、かなりうろたえてしまった。
まさか、もう死んでいる?
僕は、人の死体というものを、葬式などを抜きにすればまだ見たことがない。しかも、こんなに間近で。
一昨年亡くなった祖父の葬式には出席したが、正直、僕が見たのはすべて綺麗に整えられて、あとは親族との最期の対面だけを待つ祖父の姿だ。はっきりいって、リアルは感じない。どこか、別次元のお話にだって思える。
自分が戸惑うのも無理はない、という言い訳を、僕はいま、必死に繰り返していた。前触れもなく今、突然人の死体なんか見てしまったら後々トラウマになるかもしれない。それに、こんな変な死に方、警察が捜査し始めたら、僕が疑われてもおかしくない。
しかし、そんな僕の言い分はよそに、今更引き返したら、さらに状況は悪くなる。
波打ち際に横たわる彼女は、多分僕と同じくらいの年頃の女性で、真っ白なワンピースをまとっていた。青白い顔は微動だにせず、長い髪が水にぬれて、砂浜に波紋のように広がっている。
まるで、人魚だ。
こんなときに何を考えているんだ、とは思ったが、まさにそのものだった。
打ち上げられてしまった人魚。
そう、陸から海に出たのではなく、彼女は海から陸に来たんじゃないか。
その時だった。まったく動かなかった彼女の瞳がゆっくり開いた。
僕はまるで、化け物でもみるような目つきで彼女を凝視した。ホラー映画などで、目を覆いたくなるシーンで、でも気になって開けてしまう時のそれによく似ていた。
「あ……あの…」
つばを飲み込む音が、ひどく大きく聞こえた。
僕が見つめる間ずっと、白い気泡を含んだ波が、彼女の体を打ちつける。
真っ黒の瞳が、僕を捕らえていた。恐ろしいほど澄んだ、闇のような瞳。
射すくめられてしまう。世界中のどこに、こんな瞳があるんだろう。魅入られて動けない。
飛び散る海のしずくが、僕の服を濡らす。ジーンズに海水の染みができていく。
横たわる彼女は、うっすらほほ笑んだように見えた。希薄な光が漏れる、誰にも知られない笑顔。
彼女の手が、僕に伸ばされる。この手を取ってはいけない。頭で考えていることと、僕がとった行動は、まるで逆だった。
僕は、まるで神聖な儀式を執り行う神官だった。彼女の真っ白な手をおごそかに取り、そして、彼女を抱き上げた。
少女のように高い声で、彼女は笑った。父親に抱っこされる子供の図にそっくりだろう。
僕は、僕の腕の中で笑う彼女をもう一度マジマジと見つめた。黒の眼は、青空を映して、少し青みがかっていた。昔図書室の図鑑で見た黒蝶真珠にそっくりだった。
その瞬間から、僕は黒蝶真珠の虜になった。
人間は、一生のうちにたった一度、神様から贈り物をもらう。
中身はわからない。特別な才能かもしれないし、莫大な財産かもしれない。
僕がもらったのは、人魚だった。今なら、誇りを持って言える。
彼女を愛し、そして過ごした時間。贈り物には、申し分なかった。
もし、少しだけ贅沢を言わせてもらえるならば、もう少しだけ時間がほしかった。
彼女と僕の間に流れていた時間は、たった二週間。
その身を滅ぼすような、悲しくて愛しい14日間、僕は体の細胞全てをかけて、人魚に恋をしていた。
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