第5話
仕事帰りに書店に寄るたびに、じぶんが新しくなったような気がしていた。わたしが実際に得ていた知識というのは、マンボウの平均遊泳スピードは時速約2.2㎞であるということだとか(ちなみに最大では時速約8.6㎞)、約140億年分時計の針を巻き戻したとしたあ全宇宙は極小の一点に縮むということだとかで、生きていくうえでは不要なものばかりだ。
そういったこの世の真理のかけらを集めても、きれいな絵が見えてくるわけじゃない。そのひとつひとつを解きあかそうとしただれかがいる。ひとりではなく、長い歴史のなかで、前のひとがここまでやって、また別のひとが続きを進めてという具合に、遥かなる連鎖によっていまここに差しだされたかけらに触れていると、その遠さに心を揺さぶられてくらっとする。
夜のしずかな書店で、わたしは木になった。ゆっくりと文字を追い、そこに含まれている養分を吸収することで、だれにも知られずに大きくなっていく。きっと、いつも見かけるあのひとも、長いことおなじ棚の前で一冊の本を熟読しているあのひとも、わたしには見えないけれど、そうなんだろう。そしてそれは書店に限ったことではなくて、いつでも、どこででも、だれかが、だれにも知られることなくそうした時間を過ごしている。それは温かい事実のような気がした。
でも、ときどき、とても空しくなってしまう。
こんな風に、いろいろなことを知って、でも、それをだれに繋ぐわけでも、なにかの創作の種にするわけでもなく、ただ大きいだけの木になっていく。そのことがふいに、妙にもの悲しい気持ちを連れてくることがあった。そんな時に、わたしは塩原くんのことを思いだした。
なぜだろうと思った。ほかにも、そういうタイミングはあるはずなのに。
四月の半ば、すっきりと晴れた日の、もうすぐ終業という時間だった。
「小平ちゃん、これ、よろしくね」
デスクで仕事をしていると、すぐ近くで、よく通る声がした。物流課の笠井さんがわたし宛ての封筒を差しだしていた。笠井さんはトラックに乗って、別工場との間を行き来したりしているからかよく日に焼けていた。もう還暦近いはずなのに若々しい。
「ありがとうございます」
「そういえば、恭ちゃんは元気にしてるかねえ」
「えっ」
笠井さんのなにげないひと言に、わたしは動揺を隠せなかった。
「なんで、わたしにそんなこときくんですか」
「だって小平ちゃんと恭ちゃんって、親しくなかったの? いっしょにどっか行ったり、そういうの、してるもんかと思ってたけど」
もしかしたら、と思った。あの送別会の夜に、わたしが塩原くんを追いかけていったのを、笠井さんは見ていたのかもしれない。それで、前から親しかったと思ったのか、あるいはあれから親しくしていると思ったのか、そのどちらかだろう。
「ないですよ、そんなこと、ぜんぜん」
きっぱりと、わたしは言った。
「そうか。どうしてっかねえ。恭ちゃん、ちゃんと飯食べてるといいけど」
そう言うと、笠井さんはわたしのデスクから離れていった。ちゃんと飯食べてるといいけど。わたしは塩原くんの部屋を思いだそうとしたけれど、細かい部分は覚えていなかった。ただ、床に転がりさまよっている黄色いビー玉のことが浮かんでくる。
終業のチャイムが鳴った。
今日の業務での見落としがないかをチェックし、明日の予定に目を通した。一日の段取りを頭のなかで組みたて、これといった不安がないことを確認して、わたしは席を立った。お先に失礼します、とだれに言うでもなく言って、更衣室に向かう。おつかれさまでしたー、という声がぱらぱらと事務所のなかに散った。どうしていつも、ふつうに定時過ぎに帰ろうとしているだけなのに、逃げているみたいな気分になってしまうんだろうか。
更衣室で着替えをして、会社を出た。
駅までの道を歩きながら、わたしは、あの夜のことをまた考えていた。そして、駅からアパートまでの道を頭のなかでたどっていく。さいわい、それほど複雑なルートを通ったわけではないので、なんとなくの道筋は覚えていた。
駅に着き、改札を抜けると、通路が二股になっている。右に行けば、いつもの夕方だ。きっとまた、わたしは三つ先の駅で降り、隣接した書店でぼんやりと木になる。左に行けば、見たことのない夕暮れの風景がそこにあるんだろう。でも。
男の子の家にいきなり行く。それは、わたしにとってはドラマやマンガや小説の世界の話だ。
わたしの人生の外にいるひとたちが、足早に、わたしの横を通りすぎていく。みんな、この後に待っている時間の所に早く行こうと急いでいるように見えた。通路の向こうからやってくるひとたちも、おんなじスピードで、わたしを置きざりにしていく。
──マンボウは、一枚、二枚という数え方をする。
突然に、この前読んだ本に載っていた豆知識を思いだした。そして、そのことを、どうしようもなくだれかに話したい気がした。
──からだが平べったいから畳みたいにって、あんまりだよね。
左の通路へと、わたしは足を向けた。ほかのひとたちよりも遅いスピードで、でも、推進力はもう手にしていたのだ。
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