第4話

 いつもの時間に目が覚めて、トイレに行って、洗面所で顔を洗っている時に、ああこんなに早く起きる必要はないんだった、と気がついた。でも、顔を洗ったらもう一度布団に入る気も起きなくて、そのまま一日を始めることにした。


 月曜日の六時すぎ。カーテンを開けると、朝の光がなにかを祝福するみたいに降りそいでいた。いつもの日ざしとなにがどう違うのか、たぶん、なにも変わらない。


 さて、とぼくは伸びをした。


 なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい一日が、ぼくの前にある。たぶん、しばらくしたら転職活動というのをしなくちゃいけなくなる。でも、いまは自由だ、とりあえず。


 ──会おうよって言ったら会ってくれる?


 退職する数日前の送別会で、そんな風に言っていた小平さんとはあれきりだった。それもそうだ。ぼくはあのひとの連絡先を知らないし、きっと向こうもそうだろう。だから、あれはあの場のノリだったということだ。あの夜に、どんなノリがあったのか、いまとなっては思いだせないけれど。


 この部屋に小平さんがいた。それは、ぼくにとってはもう神話みたいなレベルの話だ。


 ふっ。


 台所に向かうぼくの口から、自然と笑いがもれた。一瞬でもなにかを期待してしまったじぶんに対して。でも、なにを?


 食パンにマヨネーズをかけて食べて、歯をみがくと、次になにをしていいのかわからなくなってしまった。ざらっとした感触の壁に背中をあずけてぼうっとしていると、もの悲しい気分がわいてきた。


 ぼくという人間は、もしかしたら、宝くじが当たったりしてもおなじような感じなのかもしれない。どう使ってもいい、なにを入れてもいい、人生という透明で大きな器に入れるものがなにもない。そういう、作品になり得ないものをぼくは、一生抱えつづけるんだろうか。


 昔は、そうではなかったと思う。


 小学生の頃はカブトムシやクワガタに夢中になったし、トレーディングカードを収集したり、野球やサッカーだってふつうにやっていた。いつだったか、低学年の頃にやったクラスの相撲大会では、なぜか三位になってしまったこともある。


 夢だってあった。でも、いま思うと、どれも言わされていたという気がしないでもない。サッカー選手も、棋士も、国語の先生も。


 彼女だって、たくさんではないけれど、いた。


 ──恭は、優しすぎるんだよ。


 と言って、別れ話を切り出されたこともあった。始まりも終わりも彼女のことばから始まった。じぶんが彼女にどんなことばをかけたのかはこれっぽっちも覚えていない。


 ひとはだれでも、一冊の本を書くことはできる、という文章をどこかで読んだことがある。それは、じぶんの人生を書けば、ひとの心を揺さぶる物語になり得るという意味だったはず。でもぼくの人生に関してはその話は当てはまらなさそうだった。


 ……かなしいというより、ふしぎだ。


 ぼくは、語られる人生を観測するためにいるのかもしれない。そう思って、じぶんにそう言いきかせるとすこしだけ勇気がわいてくる。


 外に行こうと思った。


 人生はそこらじゅうにある。そういう意味では、ぼくにはやるべきことがたくさんあった。

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