第3話

 四月になってすぐに入社式があった。じぶんがあんな風に社員の前に立ち、おじぎしたりしていたのは、もうずい分昔のことに思える。そのことはいろんな瞬間に実感する。そば屋で、天ぷらをひとつ食べただけでもたれている時や、動物が出産している映像を見ただけで涙ぐんでいる時なんかに。


 春になり、事務所の空気感が変わった気がする。塩原くんがいた席には、佐藤くんという新卒の男の子が座っていた。塩が砂糖になったな、と、事務所ではしばらくそのネタでもちきりだった。きっと、佐藤くんにしてみればいい迷惑だろう。


 送別会の後、塩原くんの部屋に行ったあの夜も、もうだいぶ遠くなった。できごとは、起こった瞬間から離れつづけていく。その些末、特別にかかわらず、みんな、わたしから遠ざかり、思いだすことをしなければ、それっきりだ。まるで、宇宙空間に放たれたかのように。


 仕事は、日々、怒られないことを最優先に考え、そのための行動をひたすら遂行するだけだった。わたしがここにいなくちゃいけない理由はなにもない。どこの会社でも、どこの国でも、きっとおなじことだろう。だいたいのひとは、案外簡単に替えがきいてしまう。


 じぶんがそのような存在であることに失望はしない。むしろそのことが連れてきてくれるのは安心のほうだ。それはきっと、生きとし生けるものはすべて等しく死を迎える、というのと大差ない気がしているからで、そういう風に考えることが良いことなのかどうかはわたしにはわからない。


 わたしが考えるべきことは目の前に、いや、もっと内側にあるものなのかもしれない。朝、昼、夜、朝、昼、夜と過ごしているうちに、わたしは、わたしのなかに芽生えはじめているものに、否が応でもという具合に気づかされつつある。


 帰り道、電車に乗りながら、数日前の夜のことを考えていた。


 ──また会おうよ。


 あの時、帰り際にそう言ったものの、塩原くんと会う予定はいまのところない。


 わたしは会いたいと思っているんだろうか……? そうじぶんに問いかけると、心に雲がかかるような気持ちになる。塩原くんに会いたい。わたしは、わたしのなかにいるわたしに、そうつぶやかせてみる。そう願うことで、一瞬だけ、視界が明るくなる気がした。でも、ぱち、ぱちぱち、とまばたきをしているうちに、元に戻る。


 窓の向こうには、猛スピードで通りすぎていくいつもの風景があった。家々には明かりがともり、車のヘッドライトが道を照らしていた。あの、一軒家と呼ばれるような家を見ると、なぜだか胸の辺りがきゅうっとなる。そこには家族がいて、生活があり、やさしさや残酷さや思いやりやすれ違いやヒミツなんかがいっしょくたになって詰まっている。母がいて、父がいて、子どもがいて、祖父母もいるのかもしれない。あるいは、犬やことり、ハムスターもその一員ということも。


 なにかを営み、大切に育んでいるひとたちには、やわらかな暖色がよく似合う。あの、窓からもれている明かりのような。


 職場からはふた駅分。塩原くんの家からは五駅分離れた、最寄りの駅で降りると、昼間に降ったらしい雨の湿り気が空気に溶けこんでいるのがわかった。つめたい夜のぬれた底を、わたしは歩く。


 金曜日の七時過ぎ、駅前の居酒屋の前には、男女の集団がいた。それほど若くはないように見える。どこかの会社の歓迎会かなにかだろうか。それとも、結構盛り上がっているので、同級会のようなものかもしれない。久しぶりに会う、昔の仲間たち。


 それから、満面の笑顔を振りまきながら、二人組の女子がべつの居酒屋に入っていくのも見えた。じぶんよりも年下のようだった。そのうちのひとりは、わたしと髪型が似ていた。といっても、全然違う。向こうは茶髪でさらさらのミディアムボブで(わたしのはじぶんでいうのもなんだけど、ただのおかっぱという感じだ)、くりんとした大きな目と小悪魔的な八重歯によく似合っている髪型だった。いいな、と思う。あんな風に生まれてきたかった。


 社会人になってから、学生時代の友人とはほとんど会っていない。いま、さみしいというわけじゃなくって、なんだか、じぶんの人生がかわいそうな気がしてきてしまう。


 だめだ。わたしは、心のなかでじぶんを叱咤した。ネガティブの渦にのみこまれちゃいけない。そうだ、と思った。孤独と自由はいつでも表裏一体だとどこかの吟遊詩人も言っていた。それに、長所は短所でもあり、短所は長所でもあると、大学の就職課のおじさんも言っていた。


 わたしは家に帰るのをやめて、駅に向かってきびすを返した。さっき出てきた改札口のすぐ横にあるエレベーターに右足から乗る。エレベーターを乗る時には、右足からと決めている。


 下ってくるひとたちとすれ違う。このひとたちとすれ違うのは、これが初めてじゃないかもしれない。でも、人生の糸が交わることはないのだろう。向こうにとってみれば、きっと、わたしもそういう存在だ。でも、いいじゃないかと思う。そういう存在だって必要だ。


 二階に上れば、そこにはことばの海が広がっている。都心部にあるような、ワンフロアにひとジャンルというマンモス書店ほどの広い海ではないけれど。あちらが太平洋であるならば、ここは湖といったほうがいいかもしれない。フロアのところどころで立ち読みをしているひとたちは大抵がひとりで、湖のそばにぽつりぽつりと所在なげに立っている木のようだ。


 ほかに木の立っていない棚はないかと探してみると、新書の棚が空いていた。わたしは密かな使命感のようなものを感じながらそこに向かう。


 大学時代、ひとと会ってコミュニケーションをとらなくなっていった代わりに、わたしはいつしか本を開くようになっていた。だれかの声を、耳ではなく、目で受けとめる。目の前に相手がいる時にはわたしの反応がすぐに伝わるけれど、本のなかの登場人物(若しくは著者)には、わたしの声も表情もなにも届くことはない。それが安心というわけでもないけれど、でも、ありがたかった。


 ずらりと並んだ、本の題名たちのなかから、気になるものを手にとってはページをめくった。だれかが書いた文字を読んでいる最中は、わたしはコバンザメの気分だった。だれかの人生にのっかってそのストーリーを疑似体験したり、だれかが人生をかけて手に入れた膨大な知識の数々の分け前にあずかったりしている、そんな心持ちで、わたしはページをめくっていく。


 クマノミという魚は、生まれた時はすべてオスというトピックに、わたしの目がぴたっと止まった。なんだって? と思い、そこの部分をもう一度読む。あたり前だけど、おなじことが書いてあった。わたしは落雷の落ちた木のように、ずががん、と衝撃を受けていた。


 生まれた時全員がオスなら、どうやって卵を産むの? と思っていると、すぐに答えが示された。


 ──クマノミはオスからメスに性転換する。


 ずぎゃぎゃぎゃーん! という感じだった。わたしは本を開いたまま、頭のてっぺんからつま先までを電撃によって貫かれたような気がした。


 LGBTQということばは、前に本で読んで知っていた。性同一性障害といったような、心の性と身体の性が食いちがって、性転換手術をするひとたちがいる。わたしは当事者というわけれはないけれど、でも、つらいだろうなと思いながらそのインタビュー集のような本を読んだ。じぶんではこうありたいという想いがあるのに、そうした感情を生み出しているはずの自身の身体が、それを許さないなんて。そういった方々に共感するのは齟齬がある気もしたけれど、他人事ではなかった。


 読みすすめていくと、性転換をするのは魚の世界ではそれほど珍しいことではないということがわかった。数百種類もの魚たちが、非常に合理的な理由でオスからメスになったり、メスからオスになったり、メスからオスからメスになったりしているらしい。


 わたしは本を閉じた。


 それまで、無意識にミュートしていた店内のBGMが急に聞こえだした。クラシックだということはなんとなくわかるけれど、なんという曲なのかはわからなかった。こういう時、悔しいというよりも、なにかを損しているように思える。ほかにも、道を歩いていて、ふと目についた花がアジサイらしいことはわかっても、その種類がわからなかったりする時にもおなじ気持ちになる。


 まだ木になっているひとたちのそばをできるだけ通らないようにして、わたしはカウンターに向かった。カバーをかけてもらい、そっとかばんにしまう。


 下りのエスカレーターに乗りながら、いつか……と思った。いつかわたしも、こうありたいというわたしに変われたりするんだろうか。


 再び、つめたい夜のぬれた底に下りたつと、自炊をサボってしまいたい気分がむくむくわきあがってきた。駅の向かいにあるスーパーに向かった。自動ドアをくぐって緑色のカゴを手にすると、いつものように息を止めながら、青果売り場を足早に通りすぎた。


 ──えーっ、はるちゃん、フルーツ食べられないの? ほんとに?


 大学生の頃、一度ならず、いく度も言われたことばを思いだす。


 どうして、この売り場を必ず通らなければ先に進めない造りなんだろうか……。そこにも、オスとして生まれたクマノミがメスに性転換するように合理的ななにかがあるんだろう。でも、その合理性は、わたしには不条理だ。


 ──うん。食べられないし、見るのもだめだし、においも。あと、触るのもぞっとするんだよね。


 ──よく生きてこられたね。


 そう笑ったかつての友人たちに、悪気はこれっぽっちもなかっただろう。もしもわたしが逆の立場だったら、きっとおなじように思って、笑って、そう言ったと思うから。


 山積みのピーマンの前で、わたしは思いきり息を吸いこんだ。さわやかなような、でも、すこし苦いような空気を、今度は思いきり吐きだす。こんなところで息止めをしているお客は、わたしのほかにはきっとひとりもいない。


 女子の多くがフルーツが好きで、それらがたっぷりと盛られたスイーツが大好きだということがはっきりとわかったのは、大学生になってからだ。それまでは、男子女子問わず、たとえば給食の時のメニューに果物があれば、余りものじゃんけんに殺到していたのを見てきたからあまり意識してこなかった。


 昼間に食事に行っても、夜に飲みに行っても、大抵、最後には食後のデザートを食べたくなるのが女子の集まりの常だ。わたしは、前に、メニューに記載がないのにフルーツグラノーラが入っていたことがあって、それから、危険性がすこしでもあるものは頼まないようにしている。


 ──はるちゃん、コーヒーでいいの? しぶいねー。あっ、見るのもいやなんだっけ。ごめんね。


 そんな風に言ってくれているうちは、まだよかった。次第に気をつかうのにも疲れてきたんだろう。グループの会話のなかで、行った記憶のないお店の名前が出てくることがたびたびあり、次の約束までの期間が急激に長くなっていった。


 それでも、わたしは気づかないふりをして、おなじ授業をとっている時には「おはよう」と言って席を取っておいてあげたりしたし、いつも呼ばれているという体で待ちあわせの場所に顔を出した。みんなとてもやさしかった。わたしも。


 そのやさしさに耐えきれなくなった、というのは、おかしな表現だろうか。でも、わたしはたしかに彼女たちのやさしさから逃げるために、やんわりと誘いを断るようになっていった。もちろん、すべてじゃない。ゆっくりと、最初からそうだったと思えるようにフェードアウトした。


 彼女たちのなかで、どんな風にわたしの存在が片づけられたのかということは、いまとなっては知るすべもないし、知りたいとも思わない。ただ、花火大会の後、硝煙のにおいが鼻の奥にいつまでも残っているような、あの感じがずっとしていた。


 総菜売り場で、から揚げ付きのチャーハンをカゴに入れる。重くも軽くもない、あるようなないようなふしぎな重量感を右手に感じながら、その先の通路を進んでいく。


「あっ」


 思わず、わたしはちいさく声をあげていた。


 塩原くんが、ペットボトルの飲料を品出ししていた。下は黒いスラックスで、うでまくりをしたワイシャツの上にえんじ色のエプロンをしている。ダンボールに入ったペットボトルを両手に二本ずつつかんで、棚の奥のほうにてきぱきと補充していた。


 でも、それがかん違いだということに、わたしはすぐに気がついた。そこに立っている男の子は、塩原くんよりも背が高く、目は切れ長で、髪も長い。どうして、このひとを塩原くんと見まちがえたんだろうか。じぶんの目が信じられなかった。


 お茶を取りながら、確認のためにわたしは横目でもう一度見てみた。やっぱり違う。もっとずっとあか抜けている。それに、きっと、大学生くらいの年だろう。どちらかといえば、友だちがたくさんいて、女子にモテて、日々をエンジョイしていそうな男の子だった。


 塩原くんとは違って。


 そんな風に思うのは失礼だとわかっていても、わたしはそう思ってしまう。どこかで、そう思いたいという気持ちが抗えないほど強くあるのかもしれない。たぶん、そうだ。


 でも、と思った。空になったダンボールをのせたカートを押し、去っていく男の子を見送りながら、でも、とわたしは思っていた。


 塩原くんのほうがきれいな手をしていた。


 あの夜のことをまた考えはじめているじぶんがいる。お茶が入って重くなったカゴをもって、わたしはレジにまっすぐ向かった。レジは支払いの部分だけがセルフになっていた。画面には、お会計金額365円と表示されている。


 こんな風に、お金だけじゃなく、なんでも精算する機械がいつかできるんだろうかとふと思う。もしもひとの感情をスキャンできるようになったら、わたしの気持ちには、きっと、大きなお釣りがくる。そんな気がしながら、財布のなかの五円玉を探していた。

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