第2話

 この会社に出勤するのものこりわずか数日という事実に対して、その実感はあまりにも乏しく、ぼくは、まるでだれかに用意された大きなドッキリのなかにいるような気分だった。でも、ぼくにドッキリをしかけるひとなどこの世界には存在しないし、会社をやめると上司に言い、この日がこの日であるように選択をしたのはほかならぬじぶんしかいない。ただ、なにもかもがよそよそしい感じがした。


 げた箱もタイムカードの棚も、事務所のひりついた空気感も、鳴ってはすぐに止まる電話の音もお昼休みの不自然なしずけさも、かと思えば乳酸菌飲料の営業のひとの頑張っている感がありありと伝わってくる孤独な声も、永遠に続くように思われる午後の倦怠といら立ちの数々も、昨日までは寄りそうようにそばにいたのに、いまではもう見てみぬふりをしている。そんな気がした。


 夜には、送別会が予定されていた。


 もちろん、ぼくのためだけじゃない。


 日の暮れた空の下、送別会の会場へと向かう。ぼくの不在によって、会社がこうむるであろうダメージを想像すると、緑色のゲージはほとんど減らなかった。


 まあ、それもそうかと思う。そういう存在でありたいと願い、あろうとしたのは、じぶんなのだから。だれもぼくを押しやったりはしていない。


 送別会でも、いちばんすみのテーブルにあてがわれた。そのことに文句があるわけじゃない。むしろ、去年のように前に並べられる方式じゃなくてほっとした。じぶんが送られる側だから、今年はくじ引きになったのではないかとさえ思えてくる。


 愉快なものにはならないだろうということは、吉井部長が横の席に来る前から予想はできていた。だれが同じテーブルに来たとしても、たぶん、たいした違いはない。この会社で五年勤めたけれど、仲がいいと言えるひとは社内にひとりもいない。


 よくしてくれたひとはいる。よく、フォークリフトに乗っている物流課の笠井さんは、時々事務所にやって来たときに、ほかの人の目を盗んでぼくにドリンク剤をくれた。ズボンのポケットから出てくるそれは、いつも、よく冷えていた。


 ──疲れた顔してるぞ。これ飲んでみな。


 お礼を言おうとすると、その頃にはもう笠井さんはいなくなっていた。釣りが趣味で、還暦が近いという笠井さんはぼくよりもずっとフットワークが軽く、そして、楽しそうに生きている感じがした。その身体から漏れでるエネルギーは、昔、理科の授業で教わった太陽の周りに出ているコロナだかプロミネンスだかなんだかを思いおこさせる。


 先のことは考えているのか、と吉井部長にきかれ、いまのところはまだというようなことを返すと、予想通りの説教じみた話になった。くり出されることばの数々は、耳に入ってくるそばからぐにゃぐにゃと形を失い、急速にしぼんでいく。


 吉井部長がトイレに立った時、前に座っていた小平さんが、


「つまんないね」


 と言った。小平さんは、おなじ事務所内にいるのにほとんど喋ったことのない先輩だった。とっさに、すみませんと言うと怒られた。なんで謝るのよ、と。そりゃ、そうか。でも、その時聞こえた「ツマンナイネ」という声は、神さま(の存在を信じているわけではないと思うのだけれど)に言われたような気がしたのだ。キミノジンセイハ、ソウ、トテモツマラナイ。


「つまんなくって、すみません」


「だから、塩原くんのせいじゃないってば」


 怒ったように小平さんが言う。ぼくは目を伏せ、その視線から逃れた。常務が座っていた辺りから、爆笑する声が聞こえてくる。じぶんとは遠いところに喧騒があった。ぼくのそばにあるのは、気まずく、重たい沈黙ばかりだ。


 おそるおそる顔を上げると、小平さんがぼくをじっと見つめていた。なにを、そんなに見るものがあるんだろうか。この、からっぽの、叩けばとてもいい音がしそうなでくの坊。小平さんの目はややつり目で、でも、まゆ毛の角度のせいだろうか、どこか不安そうでもある。その目が、ぼくになにかを訴えかけている気がした。というより、そうであってほしいと思った。


 コノママオワッテイイノカ?


 さっきとおなじ、神さまの声。日本語を覚えたての外国人のように、どこかカタコトだ。と、小平さんがふっと横を向いた。トイレから戻ってきたらしい吉井部長がくつを脱ぐところにいて、だれかと喋っている。ぼくは小平さんよりも先に、視線を戻した。


 その瞬間、初めて見たような気がした。これまでに、いくらでも見る機会はあっただろうし、たぶん、見たこともあったんだろうけれど、正しい意味で「見た」のは、これが最初に感じられた。


 小平さんの横顔がとてもきれいだった。


「つまらなくないものが、家にあります」


 気がつくと、ぼくはそんなことを言っていた。小平さんは戸惑っているようだった。あたり前だ。だからなんだっていうんだろう、と言ったぼくだって思う。それに、おなじ意味なら面白いものと言えばいいのに、へんにまわりくどい言い方をしたのが、じぶんのコミュニケーションスキルの無さの表れのようで、とたんに恥ずかしくなってきた。


 吉井部長が席に戻ってきてすぐに、席を替わることになった。がっかりした。でも、立ちあがって、自然な感じで小平さんに目を向けると、険しい表情をしていて、ここを離れることが正解のような気もした。よけいなことを言うんじゃなかった。そう思いながら、どこに行けばいいんだろうとふらふらしていると、常務たちがいるテーブルから声がかかった。あまり気は進まなかったけれど、居場所がなくて漂っているよりはましだった。


「塩原くん、どう、飲んでる?」


 常務にきかれて、ぼくは、ウーロンハイのジョッキをさっきのテーブルに忘れてきたことを思いだした。それで、視線を向けると、小平さんがこっちを見ていた。


 とっさに、ぼくは目をそらした。


「あ、はい」


 全然飲んでいなかった。でも、思ったよりもじぶんが酔っているように感じた。もともと、お酒はそんなに得意じゃない。あまり、顔には出ないほうだけれど。


「そうかそうか、よかった」


 常務はそう言って、経理部のひとたちとの会話に戻っていった。



 店を出て、暗がりに歩きだしながら、こんなものかな、と思っていた。新卒で入った会社をやめる、その送別会というものは。それとも、じぶんのものだけが特別、矮小なものなのだろうか。


「塩原くん」


 後ろから、声をかけられた。ふり返ると小平さんがいた。どこから走ってきたんだろうというくらい息を切らしている。


「面白いもの、あるんでしょ?」


 小平さんがなにを言っているのか、よくわからなかった。でも、ぼくと小平さんの間にあるものなんて、片手におさまるほどしかない。すぐに数時間前の短い会話を思いだすことができた。


 ないとは言う勇気は、ぼくにはなかった。きっとぼくがあんな意味深な言い方をしたから、この送別会の間じゅう、もやもやして不快だったのだろう。そう思って、あると答えたら、小平さんが「見せてよ」と言うのでおどろいた。


「え、見るって?」


「家にあるんだよね? いまから見にいってもいい? それ」


 小平さんがどうしてそんなに固執するのか、わからなかった。でも、そんな風に言ってくれることは単純に嬉しかった。いや、そもそも、仕事上必要なこととか、なにかを売りつけるためとか、そういうことのほかに、じぶんのような人間に話しかけようとしてくれた、そのことに軽い衝撃を受けていた。そういう種類の人間になってみて初めてわかる。じぶんの周囲、半径数メートルにある、見えない、薄い、でもおどろくほど頑丈な壁を越えてきたことの重大さが。


「いいですけど、」


 面白くないよ、と口に出しそうになって、ぎりぎりでこらえた。面白いものがあると言っておきながら、でもそれは面白くないものだと言ったら、頭のおかしい奴だと思われるだろう。でも、すこしだけ、それでもいい気もする。そのほうが楽だし。


「ちょっと、部屋が汚いかも……」


「ちょっとなんだ。じゃあいいよ」


 並んで歩き、駅でいっしょに電車に乗り、また並んで歩いた。いつもの帰り道とまったくおなじ道を歩いているのに、初めて通る場所のような気がした。小平さんは男としては小柄なぼくよりも十センチほど背が低く、じぶんのとなりにじぶんより小柄なひとがいることがふしぎだった。


 会話はほとんどなかった。


 とちゅうで、コンビニに寄った。ぼくはお茶、小平さんはミネラルウォーターを選んだ。いっしょに買うよ、と小平さんが言うので、おごってもらう形になった。


 家に着くまでの間、歩きながら、ぼくは脳みそをフル回転させて考えていた。いったいなにを見せればいいんだろうか。


 ──つまらなくないものが、家にあります。


 そう発言した瞬間に頭に浮かんでいたものは、確かにあった。でも、それを見せるべきなのかどうか、アパートが近づけば近づくほどにわからなくなっていく。それに、家にありますとは言ったものの、ぼくの持ちものというわけではない。だから、小平さんにそれを見せることができるかどうかは運次第というところもある。


 ダサいな、という感情がふつふつとわいてくる。たとえ、小平さんに披露することができたとしても、できなかったとしても、どちらにしても。


 アパートに着く頃には、気持ちは固まっていた。すこしだけ、玄関の外でまっていてもらい、部屋に散らかっていた服や本をクローゼットに押しこんだ。もう一度玄関に戻って、ドアを開けたら、小平さんはもういなくなっているような気がした。でも、小平さんはちゃんとそこにいた。スマホを手に、画面を見つめている。そのうす明かりに照らされた顔を見て、きれいだなとまた思った。


 急に、緊張の度合いが増幅してきた。さっきからずっとどきどきはしていたけれど、そんなのは比じゃないくらい、身体も、頭も、しびれたように震えている。


「お待たせしました。どうぞ、汚いですけど」


 小平さんが玄関でくつを脱ぐ。じぶんのうす汚れたスニーカーの横に、黒い、なんていうんだろうか、つやつやとしたくつが揃えられているのを見ていたら、小平さんが「どうしたの?」ときくので、「あ、どうぞ」とぼくは先にリビングに入った。


 小平さんがここに来た理由は、おそらくひとつだけだった。ぼくが口走った「つまらなくないもの」を見にきた。ただ、それだけなのだ。きっと、ぼくと世間話をしたいという女性は、この世界には存在しない。ぼくは本題に入ることを決意した。


「これなんですけど」


 結局のところ、ぼくが選んだのは、ダントツでだめな選択肢だった。


 それは、子どもの頃に流行っていた二頭身の人形玩具で、お腹のところにビー玉を入れ、背中にあるバネのついたトリガーを押しだすことで発射する。なんてことはない、主に男児たちが夢中になって遊んでいた、ただそれだけの代物だ。


「このパーツを後ろに付けると、ほら、連射ができるんです」


「ここを両手のひとさし指の内側で締めつけるようにすると、しめ撃ちっていって、強く発射することができて」


「トリガーは、いろんな種類があるんです。これはわりと普通ので、もっとすごいやつとなると……」


 説明しながら、じぶんはいったいなにをしているんだろうと思っていた。きっと、小平さんはそのなん十倍も、なにを聞かされているんだろうと思っていることだろう。床にぺたんと座って、じっとぼくの手元を見つめている小平さんの表情はずっと険しい。


 でも、それでいい気がした。背中にいやな汗をかきながら、ぼくは、小平さんがぼくに対して、急速に興味を失くしていき、じわじわと嫌悪感を高め、最終的にはこの数分間を人生から無かったものにしてしまってくれたなら、と願いはじめていた。


 それでいい。そのほうがいい。


 ぼくのなかのぼくじゃないぼくが、そうやさしく語りかけている。ぼくがこれ以上傷つかないように、ぼくがこれ以上絶望しないように。


「これを見せるために、わたしを家に呼んだの?」


 ぼくは下を向いたまま答えた。


「小平さんが見たいって言ったと思います」


 「ばっかじゃないの!」と罵声を浴びせられ、どしんどしんと足を踏みならすようにして部屋から出ていく様が思いうかんだ。


「そうだっけ……」


 小平さんの反応は、ぼくの予想とはまるきり違った。そういえば、このひとは今日、色んな場面でぼくの予想を裏切っている。


「塩原くんって、あの会社をやめるってこと、だれにも相談せずに決めたでしょ」


「え? はい、そうかもしんないです」


「やっぱりね」


「どうしてですか?」


「わたしとちょっと似てるから」


 ぼくが、小平さんと似ている?


 それは、国際宇宙ステーションと竹とんぼが似ているとか、ホオジロザメとグッピーが似ているとか、桜と梅の木が似ているとか、そういうことと同じようなものだという気がする。つまり、似ているようで全然、全くもって似ていない。


 でも、本当にそうだろうか?


「ねえ、また会おうよって言ったら、会ってくれる?」


 思考の渦に飲みこまれていると、小平さんが、意外すぎることを言った。マタアオウヨッテイッタラ、アッテクレル。その文字の羅列が意味することを理解するより先に、


「あ、はい。いいですけど」


 とぼくは言っていた。ぼくじゃないだれかが、ぼくの口を勝手に動かして、そう喋らせているような感覚だった。それこそ、ツマラナイと言っていた、あの神さまのしわざかもしれない。


 小平さんはその会話を交わしたあと、すぐに帰った。どことなく、あわてているように見えた。もしかしたら、ぼくの口からぼくの意図しないことばが発せられたのとおなじように、小平さんも、言うつもりのないことばを喋って、それで、とにかく逃げようとしたんじゃないだろうか。


 そういう、いつもの思考のパターンがドミノ倒しのように始まりそうだったけれど、それよりも強い波が、ぼくのなかに起きていた。ちっぽけなネガティブの砂などひとたまりもないという具合に、その荒々しい波が、ぼくをさらっていく。


 玄関の鍵を閉め、ビー玉の転がった部屋に戻る。ここは、いつものじぶんの部屋で、ぼくは、今日勤めていた会社の最後の出勤日で、それで……


 あぐらをかいて、床に置かれた玩具を手に取った。お腹には、はちみつのような色のビー玉が入っている。トリガーを親指で思いきり押しだし、座布団に向けて発射した。ばすっ、という音がして、ビー玉はまた床をさまようように転がった。ぼくの両手には、しめ撃ちをした時の、なんともいえない気持ちよさが、たしかに残っていた。

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