愛ではないうえに恋でもない故に
月宿 宵
第1話
たん、たんたん、たんたんたん、と音が聞こえた。塩原くんの手にある玩具から、ビー玉が発射された音だった。ビー玉は、壁に立てかけておいた和柄の座布団に力強く当たって、それから、目標を失ったようにフローリングの床の上をゆらゆらとさまよっている。
「あ、もっと速く連射することもできるよ、もちろん」
塩原くんがなぜか言い訳をするように言った。
「そうなんだ」
ため息をつく代わりに、わたしはつぶやく。でも、どうしてこんなところに来ちゃったんだろうと思って、けっきょく、ため息をついた。それは、静かすぎる夜の、ワンルームのアパートにうるさいくらい大きく響いた。
*
職場の飲み会にはなるべく参加しないようにしているわたしも、歓迎会と忘年会には出ることにしている。そうすることが礼儀だからかもしれないし、そうしない方がめんどうくさいということに気がついたからかもしれない。どちらにしても、自分を守るためだ。
今夜は、送別会だった。
長年勤務してきた常務が、この三月に退職する。ふだんはだれかがやめる時に送別会なんてしないのに、と思うけれど、社長が言いだしたことらしいのでしかたがない。
三つの部署の合同送別会だ。かしこまった挨拶は早々にすんで、もう、ただの飲み会という感じになっている。
わたしがいるテーブルには、別の部署の部長と、塩原くんという男の子がいた。くじ引きで決まった席だけど、なんとなく、余りものたちの集まった島のようで居心地が悪い。
「塩原くんはなん年目だっけ?」
口角が下がり、いつも不機嫌そうな吉井部長がきいた。
「五年目ですね」
塩原くんはウーロンハイのジョッキをつかんだまま言った。
「もうそんなになるのか。まだまだ、ルーキーって感じがするけどね」
吉井部長はそれから、おれの時代では若いものはどうだったとか、結婚をしたら男というものはとか、そういう話を主に塩原くんに向けてした。わたしは焼き鳥を食べ、ビールを飲み、あいまいにうなずいたりうなずかなかったりしていた。
吉井部長は麦焼酎のロックを店員に頼み、わたしはビールを頼む。塩原くんのウーロンハイは、乾杯をしてからいっこうに減っていない。あいづちをうつのに必死なのか、お酒があまり得意でないのかはわからない。ざわめきが、遠くから聞こえる。
やっぱり、送別会も出ないようにしようかなと思っていると、吉井部長がよっこらせと立ち上がって、ふらふらとトイレに向かった。
顔を上げた塩原くんと、目が合った。塩原くんは疲れた顔に、にが笑いを浮かべる。
「つまんないね」
「すみません」
「なんで、塩原くんが謝るのよ」
わたしは、塩原くんよりもふたつか三つ年上だ。
「まったく、いやな席になっちゃったね」
「……はい、あ、いえ」
塩原くんはウーロンハイをすすり、ごと、とテーブルに置いた。グラスを持った手は白く、指はほっそりと長くてきれいだった。第二関節の下にも、毛がちっとも生えていない。
わたしがじっと手を見つめていることに気づいたのか、塩原くんはさっと手をテーブルの下にかくした。わたしは、たぶんこの時、結構酔っていたんだと思う。
「手、見せて」
「え?」
「手のひら上にして、ほら。両手をこうやって」
お手本を示すように、わたしは両手の手のひらを上に向けて出した。塩原くんは怪訝そうにおなじように手を出して、「おまじないかなにかですか」ときいた。
「手相、見てあげよう」
「見れるんですか?」
「うん。学生の頃、勉強してたことがあってね。……あ、へえー」
「なんですか?」
「家庭的ないいお父さんになれる相が出てるね」
でたらめを言ったわけではなかった。左手の、小指の下から横に出ている感情線が、なか指とひとさし指のつけ根の間に向かって伸びていた。
「それは、当たんないすよ」
塩原くんが乾いた笑いを吐きながら言って、わたしは、なにか、大切な選択肢を間違ってしまったような気がした。
「そうかな。わかんないと思うけど」
「そうです。わかります」
あまり、主張をしないタイプだと思っていた塩原くんが力強くそう言うので、わたしは、「なんかごめん」とちいさく言った。わたしたちの間に、気まずさの煙が漂っている感じがした。吸いこむたびに、頭がくらんとする。
「つまんなくって、すみません」
塩原くんが、言いながらちいさく頭を下げた。
「だから、塩原くんのせいじゃないってば」
枝豆を口にほうりながらわたしは言った。トイレから戻ってきた吉井部長が、サンダルを脱ぐところでだれかと談笑している。わたしの視線の後を追うように、塩原くんもそちらに目を向けた。
「……くないものが、家にあります」
「えっ?」
「つまらなくないものが、ぼくの家にあります」
塩原くんの表情が、それまでとはうってかわって、生気に満ちたもののように感じられた。そのままの顔で、おどろきの発言をした。
「でも、来週でやめるんで、この会社」
そう言うと、塩原くんはすぐにいつもの気弱な顔に戻った。吉井部長がどっかと腰を下ろし、「いやあ、歳をとるとトイレも近くって」と話し始めた。塩原くんは「はあ」と気の抜けた返事をする。
それまでとおなじような時間がまた流れる。でも、わたしは、吉井部長の話にも、冷めきった焼き鳥の残骸にも意識がいかなかった。さっきの塩原くんのことばの意味を考えていた。ビールでいくらか軽くなった頭で、その意図を探ろうとする。
塩原くんが退職するという話は、わたしが覚えている限りではきいたことがなかった。たしかに、いつやめてもおかしくないような顔で、いつも事務所のパソコンの前に座っているけれど、いざやめるとなるとどこか現実味がない。
──つまらなくないものが、ぼくの家にあります。
塩原くんが、なにかを見せようとしている? いつもおなじ事務所のなかにいても、あまり、会話をしたことはなかった。今日、向かい合って(ほんの少しだけれど)会話をしてみてわかったことというか、そうなんじゃないかと思ったことがひとつある。
それは、塩原くんはわたしとおなじ世界にいるひとかもしれない、ということだ。
吉井部長がまたトイレに行ってくれることを期待していると、品質管理を担当している男性がやって来て、塩原くんと席を替わった。塩原くんはわたしのいるテーブルから最も遠いところにあるテーブルに移ってしまった。吉井部長たちの会話はほとんど耳に入ってこなかった。塩原くんのほうが気になって、でも、塩原くんのいるテーブルには四人着席しており、そこに入っていって替わってもらう勇気は出なかった。
「それでは、宴もたけなわですが……」
長い、修行のような時間をやり過ごし、わたしはぐったりしていた。あれから、吉井部長にすすめられるままおなじ焼酎のロックを飲み続けていた。頭がふわふわするようでもあるし、ひどく重たいようでもある。
一本締めをしてから店を出ると、「お元気でー!」とだれかが言い、解散となった。
「小平さんは電車だっけ?」
だれかに声をかけられたような気がしたけれど、それどころではなかった。そそくさとひとり歩きだしている塩原くんを、わたしは追いかけた。
「塩原くん」
声をかけると、塩原くんはおどろいた顔でふり向いた。
「面白いもの、あるんでしょ?」
「あ、ああ……。ありますけど」
「見せてよ」
ほんのちょっと走っただけなのに、わたしは息が切れたようにはあはあいっていた。やっと、という気持ちと、なにを言ってるの、という気持ちと半々だった。
つめたい、三月の夜風が頬にここちよい。
*
たん、たんたん、たんたんたん、と音が聞こえた。また、座布団に当たったビー玉が床をごろごろとただよう。わたしはそのうちのひとつを拾いあげた。うすい水色がかった、ほとんど透明のきれいなビー玉だった。ずっと前には、わたしも、これに似た色のおはじきがお気にいりだったことを急に思いだした。
塩原くんが持っている玩具は、あの、爆弾を出してブロックを破壊し、相手を爆殺するゲームのキャラクターによく似ていた。頭のうしろには、ペットボトルの上半分のようなものがくっついていて、そこに、ビー玉がいくつも入っている。
塩原くんはそれから、しめ打ちというものがあるということや、この玩具におけるソウルはビー魂と呼ばれることなどを教えてくれた。
「これが、面白いもの?」
塩原くんがひとしきり喋ったあと、わたしはきいた。
「これを見せるために、わたしを家に呼んだの?」
「小平さんが見たいって言ったと思います」
「そうだっけ……」
塩原くんの部屋はちょうどいい感じだった。それは、人間が住むには汚すぎるという類のものでもなく、かといって、潔癖の極みというほど整然としているというわけでもないという意味で。わたしには三つ年上の兄がいる。だから、弟というものがどういうものなのかはよく知らないけれど、もしもいるとしたら、塩原くんのような男の子なんじゃないかと思えた。
がっかりした。それは、たぶん、そうなんだと思う。だって、そりゃそうだろう。
でも、なぜだかわからないけれど、立ち直れないくらいいやな気分というわけでもない。そういう結末を、塩原くんといっしょに歩いている時点でこころのどこかで予感していたからかもしれないし、むしろほっとしたという気持ちがあるからかもしれない。
「塩原くんって、あの会社をやめるってこと、だれにも相談せずに決めたでしょ」
「え? はい、そうかもしんないです」
「やっぱりね」
「どうしてですか?」
「わたしとちょっと似てるから」
言いながら、いやそんなことはないなと思った。いややっぱりそうかも、とも。ここに来る途中で買ったペットボトルのミネラルウォーターを飲んで、わたしは言った。
「ねえ、また会おうよって言ったら、会ってくれる?」
「あ、はい。いいですけど」
あっさりと塩原くんは応えた。なにも考えていない、というのがはっきりわかるほど、その速さは尋常じゃなかった。わたしは、急に、じぶんがここにいることが恥ずかしくなってきた。いそいで立ちあがると、塩原くんがおびえたような上目づかいでわたしを見た。
「じゃあね。ありがとう、それ、見せてくれて」
言って、わたしは玄関に向かった。塩原くんはなにも言わないけれど、なにかを言いたそうにしているのは伝わってきた。お願いだから、なにか言って。いや、やっぱり、なにも言わないで。ローファーを履くだけのことに、やたらと手間どった。
「お疲れさま。じゃあ、また」
「はい、また」
塩原くんは玄関でぺこりと頭を下げた。わたしがアパートからだいぶ離れたあとで、ようやく、ドアが閉まった音がした。
外灯が照らす道のはじを、わたしはゆっくりと歩く。はあ、ではなく、ふう、と大きく息をはいた。やっと、ちゃんと呼吸ができたような気がした。世界がじぶんのなかに戻ってくるような安堵を覚え、足どりがほんのすこし軽くなった。
わたしは、おどろいていた。この数時間のじぶんに。そして、塩原くんにも。やけに顔が熱くて、それは、飲みすぎたお酒のせいにすることにした。やけに胸のあたりがふにゃりとしていて、それは、たくさん食べた焼き鳥のせいにすることにした。
出てよかったな、と思っていた。たぶん、職場の飲み会の帰り道でこんな風に思えたのは、これが初めてだった。わたしは上機嫌で、でも、すぐに不安がやってくる気配がした。いつも、そうだ。とびきり楽しいことや嬉しいことがあると、なんだかふわふわとして足場が不安定になって、いつぐらりと崩れおちていくのかという気持ちになる。
ふりこから手が離れる瞬間のような恐怖だ。こちら側にいればいるほど、すごい勢いで、今度はあちら側にいってしまう。そういう経験は、これまでに何度もしてきた。
わたしももう、学生でもなければ、十代でもない。信号待ちをしながら、頭を横にぶんぶんと振った。はたから見れば、唐突にヘッドバンキングを始めたように見えるだろう。目の前を通っていく車の運転手の目は、どうでもよかった。それよりも、いまは、じぶんのなかにあるふわふわしたやわらかいものを外に出そうと努めることの方が大切だった。
青信号を告げる音がして、わたしは顔を上げた。頭がぐわんぐわんして、ほとんど吐きそうだったけど、さっきまでの多幸感が薄まって、ほっとした。
駅までの道を歩きながら、わたしは、かばんからスマホを取りだした。側面のボタンを押すと、液晶画面が光って、待ち受けにしているヤスデの写真が浮かびあがる。去年の夏、実家に帰省した時、庭で見つけたヤスデだ。わたしにとっての、つまらなくないもの。
今度は、これを塩原くんに見せてみようか。つまらなくないものなんだけど、と言って。
そうすれば、きっと、塩原くんはわたしのことを嫌いになる。
ほとんど初めての道なのに、どう歩けば駅に着くのかちゃんとわかっていた。わたしという人間は、昔から、方向感覚だけはいいのだ。
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