煙の中、海の中

 目覚ましが鳴らなかった。

 時間は既に正午に近い。

 隣の中華料理屋がランチタイムに入ったのか、デカい中国語の話し声で起きた。

 天井を見る。変わらない人型の黒い染み。

 私もいつかああなるのか。と思いながらくしゃくしゃになったキャメルの箱から一本取って、火をつけた。

 クソッたれな職場からの着信履歴にうんざりしながら、肺一杯に煙を吸い込んで、吐き出した。

 今日がまた始まる。


 満員電車から見る景色は、私にとってはハリウッドそのものだ。

 すぐそこにあるのに、手を伸ばしても届かない。

 蜃気楼のオアシスみたいなもの。

暗い海の底から見た事もない光を求めて、真っ暗闇で少ない餌を取り合う醜悪な生き物共は、俯いたままじっと、来るわけない餌を待ちわびている。

吐き気がする。

 目の前のミツクリザメが私を見て、すぐ目を逸らした。

 私はまだ深海の中にいる。


 マルホランド・ハイウェイからはハリウッドを一望できるらしい。

 そこから見えるハリウッドはどんな景色だろう。

 煌びやかなセレブもパーティ会場も、豆粒みたいな光の群れでしかないのかもしれない。

 この橋の上から見える東京の街みたいに。



「いつもの?」


 気だるげなおばちゃんの声に、私は右手をピースサインにして頷いた。

 また、店の前に置いてあるあの昭和からタイムスリップしたみたいな自販機がどうしても気になって覗き見る。

 まだ調整中と書かれた紙が貼ってあった。


「これさ、まだ調整中なの?」


 新聞を眺めてたおばちゃんが顔を上げてにやっと笑った。何だかちょっと不気味な笑い方だった。


「そうだね。まだ、さ。そろそろアンタ、帰った方がいいよ。疲れた顔してる」


 何だかその含みの入った言葉がどうも気持ち悪くて、私は足早にその場を離れていた。

 翌朝から、もう目覚ましは鳴らなくなった。

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