5(だから、どうしたっていうのよ)
母の入院している病院までは、家からバスで三十分というところだった。高台にある大学病院で、まわりには緑が多い。比較的静かなところだった。
日曜日、ぼくは一人で家を出て、病院に向かった。お父さんは何か仕事で忙しいらしく、いっしょじゃない。元々、お母さんの見舞いに行くのは別々のことのほうが多かった。
葦原台の停留所で降りて、少しだけ歩く。並木道には緑の影が落ちていた。ちょうどお昼すぎで、何もかも昼休みをしているみたいだった。夏にはまだ早い陽射しは、透明で、体をすり抜けてしまいそうだった。
しばらくすると、病院に到着する。いつもの道を通って、お母さんのいる病棟に向かった。受付にはなじみの看護婦さんがいて、すぐに中へ通してくれる。
「お母さん、今日は調子がいいみたいよ」
と案内しながら教えてくれた。
「昨日はよく眠れたみたいだから、それで気分がいいのかもしれないわね。いつもより元気そうよ。じゃあ、帰るときには声をかけてね」
ぼくがうなずくと、看護婦さんはにっこりして行ってしまった。
ラウンジのようなその場所には、丸いテーブルがいくつもあって、入院患者や見舞いに来た人たちが座っている。中庭からは明るい光がさしこんで、全体を白く照らしていた。テレビからのど自慢の音楽が聞こえる。向こうのほうには運動用のルームランナーがあった。
テーブルの一つに座ってしばらくすると、お母さんがやって来た。薄桃色の病衣に、茶色いスリッパ。手には古ぼけた人形を抱えている。
「あら、久しぶりね。元気だった?」
お母さんは笑いながらそう言って、同じテーブルの席に座った。
「うん、元気だったよ」
ぼくは同じような笑顔で返事をする。
「……でもその手、怪我してるんじゃないの?」
目ざとく右手のバンドエイドに気づかれて、ぼくは苦笑した。
「体育の時間に、ちょっと転んだんだ」
「気をつけないとね。……確か、前にもどこか怪我してなかったかしら?」
たぶん、石を投げつけられて頬を切ったときのことだ。ぼくは早々に話題を変えてしまうことにする。
「そっちのほうは、元気なの?」
「ええ、もちろん」
お母さんは嬉しそうに言って、人形の手を動かす。綿とフェルトで作られた、ごく普通の形をした男の子の人形だ。
「この子も元気だって。早く外で遊びたいって、言ってるわ。まったく、いつまでこんなところにいなきゃいけないのかしら?」
「お医者さんは、まだ退院はできないって言ってるよ」
「そのお医者さんこそ、入院の必要があるわね」
言って、お母さんはくすくすと笑う。
確かに、今日の母は調子がよさそうだった。
「薬とかは、ちゃんと飲んでるの?」
「ええ、もちろん。あれ飲むと、ちょっと頭がくらくらしちゃうから嫌なんだけどね。もっといいお薬はないのかしら」
「仕方ないよ、悪くならないためなんだから」
「そうね――ところで、あなたの学校のほうはどうなの?」
ぼくはしれっとして答えた。
「楽しいよ、友達もたくさんいるし」
「それはいいことね。中学生の頃って、私どうしてたかしら? もうずいぶん、昔のことね。すっかり忘れちゃってる」
お母さんはうつむいて、人形の手足を動かした。
「まあ何にせよ、楽しいのが一番ね。その調子でがんばって」
「……うん、がんばるよ」
ぼくはにっこり笑ってみせた。
休み時間、教室で次の授業の準備をしていると、遠くの机で話をしているのが聞こえた。女子三人のグループだった。
「――てかさ、何であの子いじめられてるわけ?」
どうやら、ぼくのことらしい。
「いじめやすいからじゃないの? そういう、体質」
一人がわりとどうでもよさそうに答える。
「奥津城
女子三人は、まるでぼくなんてそこにいないみたいに話していた。少なくとも、いたとしても別にどうだっていい、という感じで。
「この前なんて、江波にこっぴどくやられたらしいよ」
「体育の自習の時ね。江波もあれで凶暴な奴だからなぁ」
「まあ、勝手にさぼるのもどうかとは思うけどさ」
好きでさぼったわけじゃないけれど、とぼくは心の中だけで抗議しておく。
「てかこれ、聞いた話なんだけど、何でもあの子の母親って……」
「……え、それマジなの?」
「それは引くわ。ありえないわ」
三人は自然とそうなったみたいに声をひそめている。
「小学校の時の同じクラスだったって子からの情報だから、確からしいよ」
「じゃあさ、あの子も……?」
三人がそっとぼくのことをうかがうのがわかって、ぼくは気づかないふりをした。いかにも用事があるみたいに時計を確認して、外の天気具合を見る。明日あたり、雨が降りそうだって予報で言ってたっけ。
そうやっていると、その三人は別の話に移ったらしく、もうぼくのほうを見てはいなかった。ぼくは壊れやすいものを動かすみたいに、そっとため息をつく。そんなことをしたって、たいした意味があるわけじゃないのはわかっていたけど。
仕方なく教科書でも読んでいようかと思ったとき、目の前をクラスメートが一人、通りすぎていった。そのクラスメートはぼくの横を通りすぎる直前、一枚の紙を机の上に置いていく。そうして呼びとめるまもなく、どこかへ行ってしまった。
ぼくは何だかよくわからないまま、その紙を見つめた。
四角く折りたたまれた紙は、偶然空から落ちてきた花びらみたいにして、そこにあった。経験上、こういう手紙にはろくなことが書かれていないのだけど、ぼくは何故だかその紙に嫌な感じを受けなかった。その紙が積もったばかりの雪みたいに真っ白で、几帳面すぎるくらいにきちんと折られていたからかもしれない。
ぼくは何気ない感じで、その紙を開いてみた。開く瞬間には、さすがに少しだけ覚悟を決めておいたけれど。
そこには、こんな文章が書かれていた。
『今日の放課後、屋上のところで話ができませんか? 内密に。
――
ぼくは文章を繰り返し読んで、何度か手紙をひっくり返してみた。書かれているのは、やはりそれだけだった。丁寧で、読みやすい文字だった。
今までにも何度か、告白の手紙というやつを受けとったことはあった。「実はあなたのことが好きでした。○○で待ってます」というやつだ。手紙に釣られて行ってみると、そこには誰もいない代わりに、みんなに笑われることになる。
でもその手紙は、そういう感じのものじゃなかった。からかうような雰囲気はなくて、むしろ事務的といっていいくらいだった。差出人の名前だって、ちゃんとついている。ぼくと広沢さんには、直接の面識はない。クラスの輪の中心からは、少し外れたところにいる女の子だった。
とはいえ、これが例によって何かのからかいの手紙である可能性は否定できなかった。広沢さんの名前を出せば、ぼくの警戒がゆるむだろうという計算をしたのかもしれない。何とも言えなかった。
――でも迷ったすえ、ぼくは手紙の通りに放課後、屋上まで行ってみることにした。屋上に出る扉には鍵がかかっているので、実際にはその手前までだったけれど。
階段をのぼっていくと、そこには女の子が一人で待っていた。広沢さんだった。ほかには誰もいない。誰かが隠れて待ち伏せしているような気配もない。ぼくは忍者じゃないので、断言はできなかったけど。
「来ないかと思ってた」
と、広沢さんはまず言った。手紙と同じような、事務的で角のくっきりした口調だった。
「どうして?」
ぼくが訊くと、広沢さんはためらいもなく答える。
「だって、もう懲りてるかもって思うでしょ」
別にからかっているという感じじゃなかった。
広沢さんはぼくを階段の一番上までのぼらせると、奥のほうと位置を交換した。狭いけれど、そうやって奥にいると死角になって見えにくい。広沢さんは階段の下に誰もいないのを確認してから、あらためてぼくに話しかけてきた。
「……あんた、自分がどうしていじめられてるかわかってる?」
と、広沢さんはいきなり言った。ぼくは首を振る。
「何で、そんなこともわかんないかな……」
彼女は独り言でもつぶやくみたいにして、もどかしそうにつま先で地面を蹴った。ぼくの普段の印象からすると、彼女は大人しくて目立たず、そんなふうに苛立ちを表にする人ではなかったけれど。
「あんたを見てるとさ、イライラするんだよね」
たたみ込むように言われて、ぼくはどう返事をしていいかわからずに困った顔をした。
「本当に、イライラする。どうしてそれくらいのこともわからないの、って」
「そんなこと言われても……」
「いいえ、わかってしかるべきなのよ」
彼女はぴしゃりと言った。
「ちょっと我慢すれば、それですむことじゃない。まわりにあわせて笑って、まわりにあわせてバカなことをすればいいのよ。自分が普通のふりをする。それでおしまい。誰もあんたにかまわなくなる。たったそれだけのことが、どうしてできないっていうの?」
「別にそんな……」
「いいえ、そうあってしかるべきなのよ」
彼女はやっぱり、ぼくの言葉をさえぎって言った。
「それくらいのこと、もうわかってるでしょ? 何を言ったってしかたがない。正論、真理、真実――何それ? 食べられるの? そんなもの、どこにもない。誰も必要としてない。だったら、要領よくやっていくしかないでしょ。それくらいのこと、わかってしかるべきよ」
ぼくはどう返事をしていいのかもわからずに、黙っていた。
ふう、と風船の空気を抜くみたいにため息をついてから、広沢さんは元の姿勢に戻った。いつもの、あまり感情のなさそうな、無機質な広沢さんに。
「――ごめん、どうしても言っておきたくて。余計なお世話なのはわかってる。でもね、私からすれば、いじめられてる原因はあなたのほうにあるのよ」
「…………」
「あなただって、いじめられるのなんてごめんでしょ? だったら、我慢するしかないのよ。我慢して、目立たないようにまわりにあわせていればいいの」
ぼくはやっぱり、どう返事をしていいかわからなかった。
「こんなのいつまでも続いてたら、あなただって耐えられないわよ?」
そう言われて、ぼくはようやく答える。
「――魔法が使えるから、大丈夫だよ」
広沢さんは馬鹿にするでもなく、ぴしゃりと言った。
「だから、どうしたっていうのよ」
彼女はごくつまらなそうな顔をしている。
「たかが魔法が使えるくらいで、この世界がどうにかなるとでも思ってるの?」
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