2(明日からは、また仲よくしようね)

 電話がかかってきたのは、夕食に天ぷらの準備をしているときのことだった。

 ぼくはコンロの火をとめて、リビングにある電話の受話器をとった。相手は、同じクラスの柏木かしわぎさんだった。

「ごめんね、今日はあんなことして」

 と、柏木さんはいきなりそんなことを言った。あんなこと、というのはたぶん、ぼくの筆箱でサッカーのまねごとみたいのをしたことだろう。

「明日からは、また仲よくしようね」

 そう言って、柏木さんからの電話は切れた。ぼくは今にも受話器がエビかキュウリにでも変わるんじゃないかと疑り深く眺めてから、そっと元に戻した。電話機は魔法が解ける様子もなく、澄ました顔でじっとしていた。

 ぼくは台所に戻って、もう一度火をつけて天ぷら油を温めはじめた。

「誰からだった?」

 風呂上りで、髪をバスタオルで拭きながらやって来た父親が訊いた。商社に勤めていつも忙しい父だけど、今日は珍しく帰りが早かった。

 冷蔵庫を開けてビールを探すお父さんに向かって、

「――学校の友達」

 と、ぼくは答えた。

「何か用事でもあったのか?」

「ううん、たいしたことじゃないよ」

 ぼくはそう答えて、衣をつけたナスを天ぷら鍋に入れた。背中で、お父さんがソファに座って缶を開く気配を感じた。ちょっと様子をうかがう間があってから、テレビがつけられる。

 油がはねるのをよけながら、ぼくは天ぷらを揚げていった。お母さんが入院してから、食事の用意をするのは基本的にぼくの役目になっている。洗濯や、掃除や、そのほかの細々したこともいっしょだ。お父さんは仕事で忙しいから。

 少し広すぎるくらいのテーブルで、ぼくとお父さん二人だけの食事がはじまる。元々、二階建てのこの家は三人家族には広すぎるくらいだったけど、今は二人になってそれがいっそう強く感じられた。迂闊に手をのばすと、どこか別の場所に触れてしまいそうで、何となく落ち着かなかった。

 仕事の関係でよく人と話をするお父さんは、会話の流れを絶やすことがない。テレビのことや仕事のことを、熟練した飴細工職人みたいに手早く話にまとめてしまう。

 ぼくは相槌を打ったり、笑ったりしながら、それにつられるみたいに自然と自分のことを話した。ただし、教室での嫌なことや、みんなのことは除いて。

「バスケ部、続けたほうがよかったんじゃないのか?」

 お父さんは野球の話から、不意にそんなことを訊いてきた。ぼくは何でもないみたいに首を振ってから、

「家のことも忙しいし、それに元々そんなに好きじゃなかったから」

 と、答えた。

「……そうか」

 お父さんは舞茸をてんつゆにつけながら、少し考えるように言う。

「もしもしんどいようなら、家のことも無理する必要はないんだぞ。家政婦さんを雇ってもいいんだしな」

「いいよ、それは。別に無理してるわけじゃないから」

 ぼくはできるだけ平気そうに答える。お父さんは、ぼくの答えの重さをはかるみたいに黙っていた。

「――それより、お母さんはどうだった?」

 話題を変えるためにも、ぼくはそう訊ねた。この前、お父さんは仕事のついでに面会に行ってきたはずなのだ。

「まあまあ、元気そうだったよ」

 と、お父さんは苦笑するように言う。いつも元気な父だけど、お母さんのことだけは滲んだような疲れが見える。

「いつもの人形を抱えてたよ。あれがあると安心できるらしいんだな。看護婦さんとも仲よくやってるみたいだった。薬もきちんと飲んでるそうだ」

「――うん」

 ぼくは前にお見舞いに行ったときのことを思い出しながら、うなずいた。

「ところで、学校のほうはどうなんだ?」

 ほとんど食事を終えたところで、お父さんは訊いた。

「うん……普通だよ」

 ぼくはごまかすように笑ってみせる。お父さんがその笑顔をどう受けとったのかはわからない。でもお父さんだって、心配事ならお母さんや仕事のことだけでたくさんだろう。

 食事がすむと、ぼくは食器を洗って片づけた。お父さんはテレビをつけながら、ノートパソコンで仕事をしている。ぼくは風呂に入って、宿題をしてからベッドで横になった。

 真っ暗闇の中で天井を見つめていると、頭の中のいろんなことがそこに溶けだしていくような気がした。暗闇はやがて理科で習った飽和状態になって、それ以上は何も溶けきれなくなる。

 いろんなものが溶けた暗闇は、変に濁って汚れた感じがした。


 次の日、教室に行ってみると、ぼくの机の上には牛乳瓶が置かれ、その辺で摘んできたらしい花が入れられていた。いわゆる、葬式ごっこというやつらしい。

 ぼくの机を遠まきにしたクラスメートの中には、くすくす笑う柏木さんの姿があった。ぼくは何だかよくわからずに、ひどく混乱してしまった。

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