第2話 昆虫標本屋あだち

***


 最寄駅から徒歩15分。南改札口に降り立つ。

 名刺の裏には住所と、丁寧に地図も描いてあった。これは彼女が描いたのだろうか。


「申し訳ありませんが、明日休ませていただきたいです」

 先日、研究室に戻り教授の部屋を再び訪れると、教授は段ボールを弄っていた。彼女が持ってきた段ボールだった。恰好はそのままで、顔がこちらを向く。


「え?ミーティングあるけど」

「安達カオルさんにお招きいただきまして」

 名刺を見せると、教授は先刻見たような顔をした。

「安達くん、本気だったんだねぇ。まぁいいや。インターンシップにしとくから、行ってらっしゃい」


 それだけ言うと、教授はまた段ボールに向き直る。こぼれたクッション材が一つ、床に落ちた。

「え、欠席でいいですよ」

「まぁ安達くんにはいろいろ世話になってるし、彼女手伝いがほしいみたいでねえ」


 南改札口を出て右。

 北改札側は商店街があり人の出入りが多く活気があるが、南改札側は工場が立ち並んで機械音ばかり響いている。リュックの紐の位置を調整する。

線路沿いをしばらく歩いていくと、赤い廂の酒屋が見えた。日に焼け、色落ちしている寂れた店だ。きっと近所の従業員が工場からの帰宅途中に、寄っていくのだろう。


 そんなことを考えながら角を曲がって、3件目にそこはあった。

 白い壁がほとんどつる植物で覆われた、小さな建物だった。地図をもう一度見る。あっている。注意深く様子を伺えば、二階部分に『あ』『ち』の文字しか見えないが、色落ちした看板がある。

本当にあっているようだ。緊張しながら錆びた外階段を上り、2階の入り口をノックした。


応答がない。呼び鈴を探すが、見当たらない。少し強めに叩いてみる。青い扉がガンガンと大きな音を立てる。

やはりアポを取ってくるべきだった。けれど、研究室のモットーは「迅速な行動が成功への第一歩」だ。


立ち呆けていると、しばらくしてギッと戸が開いた。暗い中で、彼女の声がした。ひどく不機嫌そうだった。

「……昨日の今日で」

「突然押しかけてしまい申し訳ありません」


 彼女は、タンクトップにジャージのズボン、跳ねた髪で現れた。目は眠そうに細めてあり、ぼりぼりと頭を掻いている。どう見ても寝起きだ。

「まぁいいや……どうぞ」

 招かれたドアを押さえ、遠慮気味に入った。


 カーテンが閉め切られた、薄暗い部屋だった。壁は大量の薬瓶の入った棚で埋まり、部屋の中央に実験室に置かれているような大きな机がある。その上には、いくつもの資料と道具があふれていた。


「何してもらおっかなぁ……」

 ふあ、と大きなあくびと伸びをして、背中を掻く姿は成人男性のそれに重なる。

「泊まりですか」

「作業場兼住居なんだよね……荷物適当において、適当に座って」


 まだしっかり頭が働いていないのか、眠そうな声でざっくりした許可が降りる。俺は、入口近くにあった丸椅子に腰掛け、足元に荷物を置いた。ふと机に視線をやると、道具や資料が散らばる中で、一枚の設計図に目が留まった。コンパスで描かれた半円に、ゲンジボタルが収まっていた。心臓がドクンと跳ねる。


「それじゃ、これ削って」

 ボールをこちらに寄越した。慌てて受け取る。中身は、白く濁った拳くらいの八面体結晶と、大根おろしのような大きな金やすりだった。


「この結晶は何ですか」

「プラスチック封入標本のもとだよ。もっとも、プラスチックでもないけど」

 名称は教えてもらえなかったが、触っても害はないよとの言葉に、一旦ボールを置き、机の資料を寄せる。もちろんホタルは特等席だ。


「あぁ、悪いね」

「いえ、動かしてよかったですか」

「うん。大丈夫」

 机を挟んだ反対側の流しで、安達さんはコーヒーメーカーのセットを始めた。

冷蔵庫から取り出されたコーヒーの粉の香りが、ふわりと広がる。俺は結晶を握り、ボールの中で削り始める。岩塩ほど固くなく、適度な硬度で、ゆっくり粉になっていく。


「それ終わったら、篩にかけて。細かいほうが溶けやすいから」

「溶けやすいんですか」

「うん。レモン水で伸ばしていくんだよ」

「そうやって作っていくんですか」

「うちはきっと特殊だけどね」

 頷いて、安達さんは窓に近づいた。


「今回は何を詰めるんですか」

 ザッとカーテンが開く。目が眩み思わず目を閉じたが、その間にブラインドが下がってくる。

「……依頼主だよ」

 部屋に入る光の量が調整され、瞼の裏で目が慣れたころに、安達さんは答えた。ゆっくり目を開くと、彼女は机を挟んだ正面に立っていた。

口は笑っているが、先程までの気だるい雰囲気が一変し、眠気から完全に覚醒した大きな瞳が真正面からこちらを見つめている。どうやら俺は何かやらかしたらしい。


「橘くんは昆虫は好き?」

「はい、好きです」

「いいね、即答。なら、昆虫に敬意は持ってる?」

「……敬意、ですか?」


 彼女の瞳が少し細められる。ひどいプレッシャーを感じるが、どうにもグレーがかった瞳に吸い込まれそうだ。


「うん。研究対象としてだけじゃなくて、同じ命として対等に接してきた?」

 言われて、初めて気づいた。そんなことを考えたことがなかった。幼いころから昆虫が好きで、今の研究室を目指して大学受験をした。

 馬鹿にはしていない。けれど、敬意はあっただろうか。


「うちの店は、完全予約制の昆虫標本屋なの。昆虫だって依頼人と共にやってきたお客様だから、敬意を持って対応してほしい。だから、聞いてる」

 まばたきを一度挟む。コーヒーの香りが部屋全体を包んでいる。時々、こぽぽ、と音が聞こえた。俺は一度、頷いた。


「これからは、持てます」

 嘘はない。少し狡いかと思ったが、少し間を置いて、安達さんは前のめりになっていた体を戻した。


「……うん。ならよかった」

 ふあ、とまたあくびをした。肩の力が抜ける。空気が瞬時に緩く戻った。心当たりは『詰める』という表現くらいだ。一つ息を吐いて、手元の結晶に目線を戻した。


「橘くんは、ブラックでいい?」

 コーヒーをカップに移しながら、背中での問に頷いた。

「はい、ありがとうございます」

 くるりとこちらを向いた彼女は、マグカップを近くに置いてくれた。丁寧にお礼をいえば片手で答え、向かいに座った。


 結晶を握りなおした。

「結構、力いりますね」

「硬いでしょ?」

「汗かきます」

「これから依頼が増える時期だから、男手が欲しかったんだよ」

 そう言ってコーヒーに口をつけた。気づかれぬように、けれど音量は抑えられることなく、ボソリと出た。


「見学に来ただけなのに」

「甘いね青年。技を盗むだけなら、ただの泥棒だよ」

 はは、と笑って、安達さんは座ったままバカッと冷蔵庫を開いた。中から、有名店のサンドイッチが登場する。


「朝ご飯ですか」

「うん、ハムサンド」

「いつもですか」

「依頼が入ると徹夜になるんだよ」


 袋から取り出して、大きな口を開けた。少し口角が下がる。何も目の前で食べる必要はないのではないか。

すっぴんで遠慮なくハムサンドに噛りつく姿は、いくら何でも男らしすぎる。シャキ、とレタスの新鮮な音がした。心なしか腹が減ってくる。


「うちの標本はね、要領よくやれば一晩で出来るんだ」

「手間がかからないんですか」

「作業自体はね。段取りを間違わなければ、作り上げるのにそんなにかからない。依頼主の生前調査と、新しい家に馴染んでもらうのに、少し時間取るだけ」


「そんなものですか」

「きっとうちだけだよ」

 口の端についたソースを拭いながら、彼女は笑った。ボールの中を、身を乗り出して確認してくる。彼女の方にボールを傾けるとき、やはりホルマリンの香りがした。

「ペース早いね。さすが男子だ。もうそろそろ篩ってもいいかな」

 結晶が半分ほど削ったころ、安達さんはやっと白衣に腕を通した。

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