かわいいヒト
空付 碧
第1話 ゲンジボタル
目を奪われた。
かつてこれほど見事な出来栄えの標本を見たことがあっただろうか。寸分くるわぬ半ドームのシリコンの中で均等に節足を広げた昆虫は、少し体を持ち上げ心なしか首を傾げていた。このままここを歩くか、別の場所に飛んでいるか考えている一コマに見える。
『Luciola cruciata』
「ゲンジボタル」
目が離せない。このまま、いつまでも見ていたい。一生動かない、切り取られた時間の中でしか呼吸のできない昆虫に、心までも奪われた。俗にいう、一目惚れだった。
***
「橘くん、虫好きだよね」
寝そべるように机に伏した同級生の言葉に、ピンセットから目を離さず、愛想なく答える。
「まぁ、昆虫研だからね」
好きだから昆虫研に入ったのだ。入り口には丁寧に『昆虫注意』と書いているのだから、嫌な顔をするなら自分の研究室に戻ればいいのに。
女っていうのは、本当にわがままだ。
身勝手で、煽てりゃ調子に乗るし、プライドが高くて、気に入らないことがあればあからさまに不機嫌になる。そのくせ容姿がよけりゃ、簡単に尻尾を振って媚び売って、どうにも気味が悪かった。
「橘くんは研究職に就くの?」
「いや、高校教師の勉強してる」
「えっ。うそ、絶対向いてない!」
「それは最高のアドバイスをありがとう」
「……女子高生好きなの?」
遠慮せず睨めば、「橘くんこわーい」と別の男へ移る。なんとも失礼な女だ。気にせず、飼育ケースに入った枝をつまみ上げる。
「橘くん」
奥の部屋から、教授が顔を覗かせた。指の力が緩まり、枝が落下する。俺はピンセットを置いた。
「はい先生」
手招きして自室に戻った教授を追い、昆虫の飼育ケースやシャーレが山積みにされた狭い通路を、慎重に歩いていく。途中で標本が目に入った。大丈夫だというように、触覚が揺れた気がして、思わず頬が緩む。ドアが閉まった。
机を挟んだ向こう側に、教授は座っていた。二畳ほどの空間にパソコンや資料、参考書が詰め込まれて、キャスター椅子が回るスペースしかない。俺は、身を捩らせながら、向かいの丸椅子に座った。パラパラと資料が捲られる。
「えーっと、君はタマムシ類の発色についてだったよね」
「先生、その件で折り入って話がありまして」
老眼鏡を外して資料に目を通していた教授が、顔を上げた。俺はひとつ、息を飲み込む。
「題材を変えたいのですが」
「えっ!?今から!?」
もう5月も半ばだよ!?と、小さな目が見開かれる。その通りだ。3月に上級生との引継ぎを終えて、タマムシの育成をしながら、羽の繊維の記録をしていた。もうしっかりと動き出している卒業課題だった。
「まぁ、無理も承知なのですが」
「何したいの」
「ゲンジボタルの発光についてです」
一瞬止まった。ぱちりとまばたきをした後、はーと椅子に沈んでいく。
「あー……根本は変わってないのね」
「は?」
表情の変化に疑問を持ったが、頷く教授に合わせて鳴る椅子の音に、どうでもよくなってくる。
「いいよいいよ、ホタルね。資料は僕の記録もあるから使って。でもタマムシは君しかいないから、世話は続けてくれない?」
「はい、大丈」
「失礼します」
ガン、と派手な音と振動が体に走った。驚いて顔だけ振り返れば、丸椅子の脚にドアがぶつかっていた。
「あ、失礼しました」
ドアがそのまま閉じられる。
「おぉ、安達くん!」
教授が立ち上がった。ドアの動きが止まり、少し開いた。
「先生、久方ぶりです。例の品をお持ちしました」
ドアの向こうから声が言う。ハスキーな声だ。顔は見えない。
「うん。いいよいいよ、入って。橘くん、もういいよね」
「……はい。では、よろしくお願いします」
狭い空間で丸椅子を移動させ、ドアノブを引く。
目線より少し低い位置に、黒よりも青に近い頭があった。さらりと揺れる。
「先ほどは、すみませんでした」
つり目がちな、丸い目が言う。睨んでいるともとれる目力だ。薄い化粧で、女性だと分かった。
「あ、いえ。こちらこそ」
出ていくときにドアを押さえていると、腕に抱えていた段ボールと一緒に、するりと中に入っていった。ありがとうございます、と紺色の髪が揺れる。
「わぁ安達くん、またすごい色に染めたねぇ!!」
「ほぼ黒ですよ。軟骨染色をしていると、青にしたくなりまして」
中からそんな声がする。パタンとドアが閉じた。しばらくドアを見ていたが、自分の席へ戻る。
まぁ、なんだかんだで第一関門は突破した。
「何の話?」
椅子に座るのとほぼ同時に、橋本が寄ってきた。彼のほうは見ずに答える。
「題材変えようと思って」
「えっ今から!?」
「教授も同じ反応した」
えーまた何で?という声には答えない。ドームの向こうで、甲虫が様子を伺っている。
「話してたら、来客に打ち切られた」
「あぁ、安達さん!美人だよな!」
無理に話題を変えたというのに、間髪入れずに橋本は頷く。はたと手が止まった。はたして、そうだったろうか。
確かに小柄で目も大きかったが、一瞬女だと分からなかった。中性的な、少年のようだった。
「まぁでも、美人だな」
「時々来るんだよなぁ。声かける勇気ないけど」
けれど、そんなに来ていただろうか。今日初めて会った気がする。ピンセットを持ち直した。とりあえず、中の枝に意識を集中する。
「すれ違ったけど、耳に三つ、穴空いてた」
「マジで!?すげー」
橋本の目が一層輝く。そういえばこいつ、穴開けたがってたもんな。ピンセットは、取り除くべき枝を捉えた。
「あと、ホルマリンの匂いがした」
一瞬だったが、すれ違いざまに香って驚いた。だが、橋本は全く驚いた風はなく頷いた。
「まぁそりゃ、標本屋だからだろ?」
「え?」
「失礼しました」
「気を付けてね」
橋本の顔を見て、後ろを振り返る。ちょうど部屋から出てきた耳にかかった青い髪が、平行線を描いて滑っていく。迷いのない、颯爽とした歩みだ。そのまま研究室を出て行った。ひどく胸騒ぎがする。橋本を見た。彼は何てことない、といった風に続けた。
「お前の気に入ってる、ゲンジボタルの樹木標本」
電流が走る。弾かれて、勢いよく立ち上がった。
「ありがとう橋本今度なんか奢る」
「は?おい、橘!」
ほぼ同じタイミングで研究室を出たというのに、彼女は既にエレベータ前に立っていた。ポケットに手を突っ込んでパネルを見ている。
「あの!」
急いで駆け寄って、声をかける。振り向いた目は、少し見開かれていた。
「あ、」
「橘といいます。たちばな、ふみゆきです」
「……安達カオルです」
息を整えるふりをして、言葉を探した。情けない。せっかくのチャンスなのに、何一つ気の利いた言葉が出てこない。エレベーターは、寄り道せず順調に上ってきている。
先に、安達さんの口が動いた。
「ノックもせずに開けて、すみませんでした」
半拍、思考が追い付かない。
「え?……あ、大丈夫です」
「ケガはしていませんか?」
「大丈夫、です」
そうじゃない。そういう会話のために、追いかけたわけじゃない。
「あの、ゲンジボタルの標本を作られたとお聞きしました‼」
「え?」
安達さんは呆けた顔のあと、首を傾げた。構わず続ける。
「どうやったら、あんな標本が作れるんですか!?」
ポーンと扉が鳴る。少しの沈黙の後、彼女は言った。
「あー……企業秘密?」
なるほど。けれど、何故聞く。思わず落ちた頭で、なんと表現すべきか考えた。どれほどあのホタルを慕っているか伝える言葉が見つからない。悩む時間なんてないのだが。唸っていると、目の前に名刺が現れた。
『昆虫標本屋 あだち』
「まぁよかったら、遊びにおいで」
受け取って顔を上げた時には、扉の向こうに彼女は消えていた。なんと言うか、棚から牡丹餅。
「……マジで?」
少し間抜けでとんとん拍子だが、これが、彼女との出会いだった。
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